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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百三十一、東郷槇山城にて

 一乗谷城の陥落と朝倉家の滅亡については既に述べた。

 後藤帯刀率いる姉小路軍にも一鍬衆に約八百という損害、そのうち二百は最後の突撃によるものであったが、それだけの犠牲を払い、一乗谷城を陥落させたのであった。

 無論、この八百という数字には姉小路軍以外は含まれていない。全体では、一乗谷城前合戦から通算すると、石川長高隊三百、真柄直澄隊六百五十、内応した国人衆のうち池田隼人隊百五十、正蓮華景継隊三百、堀江景実隊五百、そして真柄直隆隊六百、合計して三千三百という兵が失われた。朝倉家本隊の約二千二百の兵と考えあわせれば、いかに犠牲が大きかったかが分かるであろう。

 そして最後の突撃で疲労も蓄積し手傷も負った足軽百を率いた朝倉義景が、小太刀を持ち銃などは使わなかったとはいえほとんど無傷の一鍬衆に二百の損害を与えたのは、死兵となった朝倉義景隊がいかに奮戦したかが分かるであろう。

 だが、それでも一乗谷城は陥落し、越前の国は足利将軍家、その支配下に収まった。


 姉小路家日誌天文二十四年睦月二十七日(1555年2月18日)の項にはこうある。

「姉小路房綱公、東郷槇山城に入城し、将軍足利義輝公に拝謁致し候。一乗谷城落城の祝いを述べし後、三人の者を幕臣として推挙致し候。将軍足利義輝公、三人を幕下に加え候。将軍足利義輝公、府中に館を構え越前支配の中心とすると仰せられ、府中館造営を姉小路家に仰せつけられ候。また馬借街道の整備を仰せつけられ、役料として敦賀郡を姉小路家に賜り候」

 ここで興味深いのは、三人の幕臣についてである。これ以前もこれ以後も姉小路家が中に入る形で幕臣となった者は多数いるが、姉小路家日誌に推挙が明示されているのはこの三人だけなのである。別の資料から、例えば真柄兄弟が幕臣となった次第には姉小路家は関わっているはずであるが、姉小路家日誌には見当たらない。この三人だけが特別なのか、それとも単に作者の気まぐれであったのかは定かではない。

 ところで、姉小路家日誌にはこの三人の氏名は書かれていないが、別の資料からこの三人は、朽木元綱、河田長親、東海坊天光の三名であり、いずれも足利将軍家を支える屋台骨、その一角を占めるものであることが分かっている。このことが、姉小路家日誌にこの三人が書かれた原因であるかもしれない。

 ただし、この東海坊天光は、姉小路家が見出す前歴は全くの謎である。一説には斎藤道三の懐刀であり、斎藤道三死後行方不明となった明智光秀では、といわれているが、斎藤道三が敗死するのはこの翌年のことであり、確かに年齢は近いものの、辻褄が合わないことは付記しておく。



 後藤帯刀率いる姉小路軍が中心となり、一乗谷城陥落後、見込みのあるものは助け、見込みのない者は楽にし、遺体は荼毘に付し、遺棄された武具類は回収し、そうして一乗谷城の片づけが終わったのは一乗谷城陥落から二日経った睦月二十七日(2月18日)のことであった。

 この日、草太が一鍬衆三千、中筒隊千五百、中折れ銃隊五百、馬回り五百を率いて東郷槇山城に到着した。到着時には既に一乗谷城陥落の知らせは受けていた。


 到着後、すぐさま将軍足利義輝に拝謁した草太は、まずは一乗谷城陥落の祝いを述べた後、こう切り出した。

「して、一乗谷城に住まわれるおつもりですか」

 将軍足利義輝は言下に否定した。

「否、だな。一乗谷城は誰か適当な者に任せ、朝倉館に町家、その他の街並みに人が満ちさせるだけでよかろう。山城は、既に時代遅れだ。盗賊の類が入るのを防ぐ程度の守備兵を置けばよかろう。それよりも、平城だ。越前の国府のある地、府中が良かろうと思うてはおる。おるがな」

 城などない地であるのは、将軍足利義輝も重々承知の上であった。

 だが城がないのは別段困った事ではなかった。事実、草太自身も金沢城を手に入れるまでは居城として使うべき城はなく、今でも居館は岡前館であった。ただし、居館に帰るのは正月前後程度でしかないため、金沢城を居城と認識するのもあながち間違いではなかった。政務その他を見るのは、ほとんどの場合には金沢城であった。次いで出陣先の諸城であり、岡前館で政務を見ることもほとんどなかった。

 第一、つうは正月に岡前館に連れ帰ったが、正月が開けて岡前館を出た後、つうも金沢城に移っているはずであり、その意味でも草太の帰る城は金沢城であった。

 とはいえ、金沢城も多少の造作はしたとはいえ、ほとんどの縄張り、城割は尾山御坊のそれをそのまま使っているものであり、一から築いた城ではなかった。一から築いた城は、未だにいくつかの小城以外にはなく、大規模城郭を作るとなると、一体いくらかかるかすら想像もつかなかった。


「府中に城を築かれるおつもりですか」

 草太が聞くと脇に控えていた細川藤孝が言った。

「まさかそこまでの無心は出来ませぬし、足利将軍家の手にも余りまする。第一、上洛する身であり攻め込まれる恐れもなければ城は不要。現在の奉行所、あの周辺の空き地や町家の移転により用地を確保しての居館を作るのが、精々というところでございます」

「なに、本来はこの東郷槇山城でもよいのだがな。やはり城下町、というよりも町が付近にあった方が何かと便がよい。また府中からならば織田の庄も近く、馬借街道を使って敦賀へ出るのも容易である。それ故に、府中じゃ」

 将軍足利義輝が言った。確かに府中の地であれば越前平野の抑えとしては最良の地の一つであり、草太も反対はなかった。そして、府中城と名付けられることになる館の造成は、姉小路家の寄付によって作られることとなった。


「それはともかく、将軍様、いくつかお願いがございます」

 草太はこう切り出した。懸案事項は二つあった。一つについては全く問題はないと思われたが、もう一つはかなり難しいと草太は考えていた。

「まず、敦賀の地でございます。この地は越前に属するながらも越前平野とは切り立った山で区切られており、また天然の良港なればわが姉小路家が加賀と北近江、若狭を結ぶ海の道として大切な地でございます。なれば、金ケ崎城とも、この地をお譲り下さいますよう、お願いいたします」

 将軍足利義輝は、現状では越前平野だけでも治めかねる、という事を良く知っていた。細川藤孝と三淵藤英が優秀であるといっても、個人の力ではどうしようもないのは事実であり、どうにもできなかった。既に越前平野の開墾も姉小路家が一部を負担することが決まっており、それに加えて敦賀の街の経営までとなれば手が足りないどころの話ではなかった。そうした現状を踏まえて細川藤孝が意見を言った。

「将軍様、いずれにせよ姉小路家が実質的な支配者とならざるを得ませぬ故、敦賀の地を譲り恩を売るのも悪い話ではございません」

 ふむ、と将軍足利義輝は考え、そして言った。

「ならば馬借街道の整備は姉小路家が致すように。その役料として敦賀郡は姉小路家が支配とする。しかと申し付けたぞ」

 将軍足利義輝は、さりげなく街道整備を姉小路家に命じ、その役料という名目で姉小路家の敦賀郡支配を認めたのであった。これは、将来にわたって敦賀郡を姉小路家に渡すことではないという体裁を整えると同時に、馬借街道、ひいては京までの街道を整備させるという意味で重要なことであった。あくまでも将軍家は敦賀郡を役料として貸し与えているだけ、という名目を瞬時に整えたのは、やはり足利義輝は将軍家に生まれなかったとしても一廉の人物であったに違いなかった。


 もう一つの願いは、この敦賀支配に比べれば容易であった。いや、一人についてだけは非常に困難であったかもしれなかったが。それは三人の幕臣を加えるということであった。草太は配下に合図をし、三人に入る様に命じた。三人とは、朽木元綱、河田長親、そして東海坊天光と名を変えた浅井久政であった。

「近江国人、朽木元綱にございます。足利将軍家の越前支配を知り、馳せ参じましてございます」

 とはいえ朽木元綱については将軍足利義輝は以前から知っていたため、というどころか、かつて朽木谷に御所を構えていたがその御所を用意したのも朽木家であったため、馳せ参じたとの挨拶に満足げに頷いた。

「近江浪人、伊豆守入道河田元親が一子、河田長親にございます。縁あって足利将軍家へ仕えんと思い、馳せ参じましてございます」

 うむ、と将軍足利義輝は頷いた。確かに美貌の持ち主であり、美童といってよかったが、将軍足利義輝には衆道の気はなく、ただその双眸に宿る光を見、また若年ながら受け答えもしっかりとしていた。年を聞くとまだ十歳であった。

「ならば、近習として、我が小姓として努めるが良い」

 はは、と平伏をした姿も堅さはあるものの礼法に適ったものであり、付け焼き刃とも見えず、拾い物をしたと将軍足利義輝は考えた。


 三人目に平伏している者を、草太が紹介した。

「この者は東海坊天光と申す者にて、氏素性は明らかならねど内政は得意と見えましてございます。これよりは内政が必要な時期。お側に一人でも多くの内政上手がいるべきにございます故、連れ申しました」

 東海坊天光にございます、といったその坊主頭は、剃ったのも最近なのであろう、剃り跡がまだ青白かった。元は武士、それも上級の武士であったと見えた。

「許す。面を上げよ」

 将軍足利義輝が言うと、おずおずと姿勢を正した。その顔を見て将軍足利義輝は驚いた。

「姉小路房綱、なぜだ、なぜ浅井久政がここに居る。有り体に申せ」

 草太はとぼけることに決めていた。余計なことを言う必要はない。ただとぼけるだけとぼけようと決めていた。大体、なぜかは草太にも説明は出来なかったためもあった。

「はて。ここにいるのは浅井久政ではございませぬ。浅井久政は小谷城落城の際に捕らえましたが、その際の傷で死にましてございます。ここにいるのは東海坊天光と申す、ただの僧にございます」

 内政が得意、というのに対しての答えは用意していたが、将軍足利義輝の問いは全く別のことであった。

「宗派はなにか。僧ならば度帳もあろう。いずこの寺で得度し、そして何宗であるのか」

 草太は内心、しまったと思った。その辺りの点については全く考えていなかったためであった。だが東海坊天光と名を改めた浅井久政は、きっぱりと言ってのけた。

「それがし、私度僧にございます。それ故、特に寺にて得度はしておりませぬ。それ以前については恥ある身故、平にご容赦ください。草庵にてただ一心に、幼少よりの臨済宗の公案を練っておりましたところ、足利将軍家を再び力あるものとすると聞き、内政を通じての進境もあろうかと馳せ参じましてございます」

 将軍足利義輝は怒気を含んだ声で言った。

「浅井久政、何故我に近付かんとする。有り体に申せ」

「有り体に申します。浅井久政は死に申した。そして東海坊天光が残り申した。それだけの話にございます」

 東海坊天光が言い、少し考えた様子を見せていた将軍足利義輝の怒気が、ふ、と去り、そして言った。

「浅井久政には妻子がおったはずだ。それと再会したら何とする」

「はて。死人が妻子に会うことがありましょうや。向こうは死体を懐かしむやもしれませぬが、死人には既になにもございませぬ。ただそれがし、東海坊天光としての生を歩むのみでございます」

 この答えに、将軍足利義輝は何かを感じ入るものがあったのであろう、ならば幕下ばくかにて励め、と言い、足利将軍家に仕えることが許された。再び平伏した東海坊天光に対して、当面は三淵藤英の与力として、越前平野の内政が仕事ぞ、と声をかけた後、ふと思いついたことがあったのであろう、将軍足利義輝は意地の悪い質問を投げかけてきた。

「ときに東海坊天光、そなたは軍を指揮せよと命じられたらなんとする」

 この意地の悪い質問に、平伏したまま東海坊天光は答えた。

「一向宗や日蓮宗、比叡などの僧兵はしらず、されど手前、仏門に仕えるものなれば、その儀は平にご容赦を」

 この答えを聞いて、将軍足利義輝は思わず笑みを漏らした。

「僧が全てお主のようなものばかりならば、世の中はもう少し平穏なのだろうな」

 そうしてこの日の会談は終わりを告げた。


 足利将軍家は三人の幕臣を幕下に加え、姉小路家は敦賀郡を得た。一言でいえば、これがこの会談の全てであった。

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