百三十、続、朝倉家の最後
一乗谷城前合戦の次第、そして国人衆の内応により一乗谷城のその最奥の本丸付近での戦いを繰り広げていた次第については既に述べた。
朝倉義景自らが兵を率い、副将として朝倉景光が付いていたが、それでも後方で朝倉景紀隊が再編成する時間を稼ぐため、また裏切り者の真柄直隆を討ち取るために戦っていた。だが朝倉義景は個人の武芸は一通りは出来るもののそれ以上では決してなかった。そのため真柄直隆と対峙して討ち取るつもりはなかった。
しかし真柄直隆は己の行動を恥じ、朝倉義景と対峙しようとはせず、兵を繰り出すのみであった。陣頭指揮を自らが執る朝倉義景隊と陣頭には決して立とうとはせず後方から兵を繰り出すだけの真柄直隆隊、この両者が激突した際には、士気の問題もあり真柄直隆隊の敗勢が濃くなっていた。それでもやはり櫛の歯が欠けるように少しずつではあるが朝倉義景隊の人数が減り、その数が百五十を切るころ、漸く再編成が終わった朝倉景紀隊四百五十が朝倉義景隊と交代する形で最前線に立った。既に小筒は全て使えなくなり、弓隊も矢が尽きたため、内向きの衣食の用を足すための女官を除けば、正にこれが本丸にいる全員であった。予備兵力はもう一人とてなく、将もいずれかの隊の一員として立ち働いていた。例えば魚住景固は朝倉景紀隊に属する一武士として行動していた。ただし、既に討ち取られ生き残ってはいなかったが。
真柄直隆は兵の大部分が既に脱落したのを見て、残りを纏めて後退し再編成をすることを決断した。その影には、朝倉家が本丸付近から離れないだろうと多寡を括ったという側面があった。だが、後退する真柄直隆隊を朝倉景紀隊は果敢に追撃した。二の丸奪還までは考えていなかったが、真柄直隆を生かしてはおけなかった、それだけの理由で追撃をしたのであった。
追撃を受けて這う這うの体で何とか真柄直隆は二の丸前まで兵を引いたが、二の丸前にたどり着いた時には兵は百を切っていた。真柄直隆も太郎太刀の鞘を撤退の最中に取り落としたままであることからも、いかに被害が大きかったかが分かるだろう。だが二の丸前に入る前に、朝倉景紀隊は反転して本丸まで引いた。途中、足軽の持っていた槍などを回収しつつ戻り、既に使えなくなった槍と交換して戦闘継続に備えた。
真柄直隆隊が二の丸前に戻った直後、二の丸前に到着した部隊があった。それは後藤帯刀隊であった。勿論、千人単位で通れるような道は本丸付近はおろか二の丸、一の丸にすらなく、さらに下がって千畳敷にしかなかった。とはいえ、朝倉館から千畳敷までも千人単位で通れる道はなく、そのため後藤帯刀隊は細長い隊列を強いられていた。その先頭集団には後藤帯刀が自ら指揮を執っていた。
後藤帯刀は真柄直隆を目ざとく見つけ、そして尋ねた。
「本丸付近はどうした。兵も少なく、国人衆も散り散りにしか見当たらないが」
朝倉軍の強さを伝えた真柄直隆は、更に続けて言った。
「火矢もほとんど放てぬほど、死兵と化した朝倉軍は強い。落城させるにはまだまだ兵力が必要だ」
後藤帯刀は、真柄直隆のことを不甲斐ないとは思わなかった。おそらくは奮迅したのであろう、だがそれを上回るだけの力が朝倉家本隊にあったものと判断した。ことによると、真柄直隆が隊を率いているのを見て死力を振り絞っての戦闘を行った可能性すらあった。
いずれにせよ一筋縄ではいかないことが分かったのであろう、後藤帯刀が下した命令は、三間槍で距離を取りつつ戦い、中筒で打ち払うという内容であった。路幅いっぱいに並んだ一鍬衆が、三間槍で槍衾を組んだがこの槍隊の役割は敵兵力を近づかせないこと、これに尽きた。その一鍬衆の直後に中筒隊を配し、一鍬衆の間や肩越しに撃つこととされた。また、本丸付近の武者溜りの攻略のために、七太郎の擲弾筒も用意された。煙幕ではなく、炸裂弾の用意であった。これは真柄直隆の戦いぶりから、既に弾薬がないか、或いは銃そのものがもう使える状態ではない、ということを推察したため、煙幕を使う必要がなかったためであった。
しかし、と後藤帯刀は考えていた。中筒隊と見られる数千の鉄砲兵、後藤帯刀に青蓮華館で銃撃を仕掛けたあの謎の鉄砲隊も姿が見えなかったのは不気味であった。だが今に至るまで温存しているとは考えにくく、その鉄砲隊は既に城中にはいない、と考える外はなかった。
二の丸から本丸である三の丸に向かう細い道の両側には、これまでの激戦を物語る兵の死体や動けなくなったまま冬の寒さにやられた兵が折り重なっていた。まだ息のあるものも多数おり、すぐに手当てをすれば助かるものも中にはいたに違いなかった。それでも、それは敢えて無視して後藤帯刀は進軍を優先した。
朝倉義景は、次に上ってくる兵の軍装からはそれが、国人衆でも真柄兄弟でもない、統一した軍装を持っていることが報告により知った。国人衆や足利将軍家の将でなければそれは姉小路軍に他ならなかった。
「遂に、か」
朝倉義景にとっては取りあえずの目標としていた、国人衆及び足利将軍家を撃退し姉小路軍を引きずり出す、この点に成功したことについては満足していた。ただし、それはあくまでも自己満足でしかなく、姉小路軍と衝突出来たところで何らかの展望が開ける訳ではなかった。ただ、国人衆及び足利将軍家の軍勢よりも強い、そのことを証明できたというだけであった。
ここまで来るための犠牲は大きかった。既に将と呼べるものは朝倉一門衆の朝倉景紀、朝倉景光の二人が残るのみ、雑兵も五百を少し切る程度が残るのみであった。弓鉄砲は全て撃ち尽くし、或いは既に使える状況にはなく、槍も当初の槍はほとんどすべて使い物にならなくなり、戦場に遺棄されていた味方や敵の槍に持ち替えていた。それでも生き残るために下る兵は城攻め前に既に逃げ散っていたためか、兵の士気はかえって高かった。命ではなく名を、というものだけであったためかもしれなかった。
朝倉義景は、兵に武者溜りでの迎撃を指示し、朝倉景光、朝倉景紀に両脇を固めさせ、正面に朝倉義景が陣取った。朝倉義景は過去、姉小路家と対戦した過去から鉄砲があることを予期し、竹束、それも竹の中に水を入れて凍らせた竹束というよりも氷の塊を立て並べ、鉄砲隊に備えさせた。小筒であれば竹束で何とでもなったが、中筒を使う姉小路軍に対して氷を詰めた竹束でどの程度の効果があるのかは分からなかった。
そして、後藤帯刀隊が本丸前にたどり着いた。正面の武者溜りに竹束まで持った朝倉軍が陣取り、このまま突入するのは被害が大きくなりすぎる、そう判断した後藤帯刀は、予定通りに中筒を撃たせた。一度に五十ずつ、十度の銃声が響いたが、竹束は健在であった。その奥の朝倉軍は微動だにせず、特に被害らしい被害も見当たらなかった。
「流石に対応される、か。さすがは朝倉義景殿だな」
誰に言うともなく言うと、後藤帯刀は、第二射を命ずるとともに擲弾筒の支度をさせた。
「武者だまりの両脇、奥にそれぞれ一発ずつ落とせ」
は、と操作をする兵が風を見、擲弾筒で狙いを定め、そして胴火から投擲する擲弾の導火線に火を移し、擲弾筒に落とした。擲弾筒の内部には予め火薬が詰められており、擲弾の導火線の火に引火し、ポン、という気の抜けたような独特の音を立てて擲弾が三発、飛んだ。流石に後藤帯刀直属の隊であり、擲弾は狙い誤らずに落ちて炸裂し、両翼および正面の兵が崩れた。これを見て後藤帯刀は一鍬衆に突入を命じた。ただし、突入する部隊は三間槍隊と鉄砲隊の後方に待機させていた一間槍を持った隊であり、三間槍隊はあくまでも鉄砲隊の護衛であった。
瞬く間に一間槍を持った隊が鉄砲隊、三間槍を持った隊をすり抜けて前進し、武者溜りで混乱している朝倉軍を駆逐していった。一間槍であっても身に着いた習性なのか、常に複数の一鍬衆が一人の朝倉家の雑兵を攻撃し、確実に倒していた。一鍬衆にも被害がなかったわけではなかったが、善戦をした朝倉義景、朝倉景紀、朝倉景光の周辺の数十の兵を除き、大多数はなすすべもなく槍の餌食となっていった。
朝倉義景はこの様子を見、本丸内部へ引くことを決断した。
撤退の合図を出し、本丸内部に辛くも生き延びて入ることが出来たのは僅かに百に満たず、朝倉景紀はその中から欠けていた。あの武者溜りでの混戦の中で、どうやら命を落としたようであった。朝倉景紀の近習をしていた兵の一人が朝倉義景の下に来て言った。
「大殿、我が主朝倉景紀、敵の手にかかり討ち死にいたしてございます。その際に遺言を申し付かっております。……は、朝倉景紀、一足先に地獄にて殿を待つ、地獄への先陣を仕る、とのことでございました」
朝倉義景は思わずこみ上げる涙をこらえ、ご苦労であった、と言った後、祐筆であり医師でもあった大月景秀が生き残っていたため墨をすらせ、巻紙を用意させた。その巻紙に墨痕鮮やかに、左の者、忠勇無双の武辺者なれば朝倉義景に最期まで随身致し候、と書き、朝倉義景も知らずに手傷を負っていたのであろう、巻紙が血に濡れた。そして大月景秀に命じ、巻紙の続きに生き残った兵に名を書き連ねさせた。その筆頭は朝倉景光であり、全員の名前が書き終わると、最後に朝倉義景が署名花押を書き入れた。生き残った百にも満たぬ兵の血が、知らず知らずのうちにその巻紙についていた。世に言う、血染めの連判状である。
これを漆塗り蒔絵の箱に収めて床の間に置き、そして自ら籠手斬りの太刀を手に、生き残った兵百に姉小路軍に突撃を命じた。先頭は朝倉景光とその郎党が、その後方に朝倉義景が隊を率いての突撃であった。
一方の後藤帯刀は、朝倉義景が本丸内部に立てこもったのを見て、棒火矢を使ってでも本丸をこじ開けようかと思案していた。武者溜りの兵は全て死亡するか、重傷で行動できないかのいずれかであり、降伏したものもいなかった。仔細に調べればその死者の中に、朝倉景紀を見つけることが出来たかもしれなかったが、後藤帯刀にはまだそこまでの余裕はなかった。いずれにせよ城内での戦闘になると考えた後藤帯刀は槍を置かせ、小太刀を抜かせた。城内であれば小太刀でなければ使いにくいためであった。
と、城門が開き、朝倉家の最後の突撃が始まった。全員死兵と化し槍一筋に相手を一人でも多く道連れにしようとする朝倉軍、対するは小太刀に持ち替えた姉小路軍。戦の帰趨は、だが、小太刀であっても槍のさばき方を富田勢源に教え込まれた一鍬衆が格段に不利という訳ではなく、春の日陰の雪だるまのように、少しずつ着実に朝倉軍は討ち取られていった。だが同時に一鍬衆も同様に討ち取られていた。
「朝倉景光殿討ち死に」
朝倉義景の下に報告が上がってきたが、自らも太刀を振りながら、ご苦労、という他はなかった。太刀を振るいながら朝倉義景は考えていた。どこだ、どこで間違えたからこうなったのだ、と。自問自答を繰り返しながら太刀を振るい、その大鎧の防御の最も甘い場所の一つである脇の下に小太刀が吸い込まれるように刺さった。態勢が崩れた直後、別の小太刀が首元に突き刺さり、朝倉義景は絶命した。
こうして、朝倉家最後の突撃は、一鍬衆に二百という被害を出しながらも、文字通り全滅したことで終了した。最後の一兵まで戦い抜いた朝倉家の兵に、後藤帯刀は深く感じ入り、急ぎ医療隊を呼び寄せてまだ生きる見込みのあるものの手当てをさせたが、見込みのあるものは武者溜りを含めても僅かに五名のみ、その内四名は武者溜りで気絶したため取り残されただけであり、最後の突撃で生き残ったのはただ一人だけであった。右腕を切り飛ばされ顔を割られて気を失っていたが、手当の甲斐があり生き残った。だが生き残ったのを知り、床の間の書面を見よ、と言い残して自害して果てた。
壮絶ともいえる最後を知り、そして血染めの連判状を見、将軍足利義輝は言った。
「朝倉義景は、まことに武将であったな。配下も配下ではあるが、そういう配下を持つことが出来たのは、やはり朝倉義景は、武将であったな。かくあらねば、我が幕下に参ずるべき将であったのに。惜しきことかな」
そして朝倉義景以下、朝倉家の家臣団を丁重に葬る様に命じたのであった。
こうして、越前朝倉家は滅亡し、足利将軍家が越前を直轄地として治める、といってもしばらくは代行として姉小路家が治めたのであるが、足利将軍家が確たる地歩を持った戦国大名としての地位を築いたのであった。




