百二十四、旧浅井領始末
姉小路軍が、田中弥左衛門隊の多大な犠牲を払いつつも浅井、六角連合軍を破り、更に小谷城から横山城にかけての各城を落とした次第については既に述べた。
浅井久政は捕らえたものの、その妻子、特に嫡男の猿夜叉丸、後の浅井長政が赤尾清綱、雨森弥兵衛らに付き添われて落ちたが、彼らがまた歴史の表舞台に出るのはまだしばらくの時間が必要であった。ともかく、この一戦により湖北地方の大部分は姉小路家の手に落ちた。
姉小路家日誌天文二十四年睦月二十三日(1555年2月14日)及び二十四日(2月15日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、北近江合戦後、湖北南方の諸城の降伏を受け入れ、琵琶湖東岸北近江全域を支配下に置き候。特に佐和山城の磯野員昌の帰順には驚きながらも歓迎致し候。かの地は六角家の南近江への要の地なれば、特に重視致し候。また内政方に命じて民心掌握に努めさせるとともに、顕誓上人に一向宗の末寺の建立を申し入れ候。(略)公、密かに陣を抜け、国友善兵衛を訪ね候。国友善兵衛、驚きつつも歓迎し、暫く話を致し候後、国友筒は全て姉小路家がまず買い上げ、その余りたる分を他国に売ることを約し候。また、七太郎を呼び寄せ、国友善兵衛に新型銃作成方に合力させ候。ただし、新型銃については姉小路家以外には売ることを堅く禁じ候」
興味深いのは、草太は陣中から抜け出してまで国友村の国友善兵衛を訪ねているところである。通常の戦国大名であれば呼べば済む話であるが、草太はそうではなく自ら出向いている。この辺りが、草太一流の人心掌握術であったのかもしれない。ともかく、草太は姉小路家の鉄砲製作方を、国友村にも整備することによって数段強化したというのは興味深い事実である。
更に興味深いのは、北近江の湖北地方はさほど一向宗が強い地域ではないが、顕誓上人に末寺の建立を申し入れていることである。といって、一向宗加賀派を姉小路家の国教とするつもりは全くなく、草太自身は天台宗に根本は持つ仏教徒ではあるが、特に日頃そのことを意識することはなかったようである。寺社に行ったという記録さえ、誰かとの面会などを除けばかなり稀である。とはいえ、この時期は石山本願寺との対立の時期であるためか、一向宗加賀派とのつながりを深めようと努めているさまが見て取れる。
草太は戦を終えた後、阿閉貞征に落とさせたというよりも接収させたに近い宮部城に入り、戦の後始末をさせつつ横山城の降伏勧告の結果を待った。落城させた小谷城は確かに堅城であったが、今は堅城に籠るような事情は何もなかった。当然、内政方が入り内情を調査しているのは言うまでもなく、慌ただしく逃げたためか相応の戦支度と兵糧、戦費の類がほぼ帳面通りあったのは、弥次郎兵衛曰く「驚くべき事」であったらしかった。そういえば草太は今までも多数の城を落とし、その度に兵糧その他の貯蔵状況を調査させているが、帳面が残っておりそれがほぼ正しかったのはこれがほとんど初めてであった。
一方の横山城へ向かった降伏勧告の使者は、もはや主家もなく、独立勢力として姉小路家に相対するか、六角家に従属するか、降伏するかのいずれかしか選択肢はない、と説いたらしく、草太は睦月二十三日(2月14日)、降伏するとして横山城の三田村定頼のみならず、鎌刃城主堀秀元、佐和山城主磯野員昌が草太の本陣にそれぞれ小者若干名を連れて伺候してきた。
草太は宮部城の本丸の広間で正面に座し、四名の降伏を受け入れた。その場には先日降伏した阿閉貞征も連なり、四名のものと対面した。武将衆はまだ戦の後始末に忙しく、滝川一益と平助、それに城外での活動のほとんどない服部保長が左右に並んでいた。平助が厳かに言った。
「特に直言を許す。皆の者面を上げよ」
久しぶりにこの言葉を聞いたな、と心のどこかで思いながら草太は、四人の面構えを見た。磯野員昌は一別以来であったな、と思い出しながら、それぞれに言った。
「この度は大儀であった。さてこれからのことだ。四人ともよく考えて返答するように。まず、そなたらには今後、武将衆として我が帷幄に参じるか、それとも国人衆として現在の所領の一部を本貫として安堵して仕えるか、それとも全て放棄して民の一人になることも可能である。武将衆となった場合には全ての所領はなくなるが、蔵米を扶持として給する。そして我が帷幄に参じて各地を転戦してもらう。国人衆となった場合には本貫を安堵し、各地を転戦はしないがいくらかの賦役を命ずることになる。いずれもを拒否して民の一人として生きるというのであればそれもよかろう。いずれにするか、決めるが良い。……と言いたいところではあるが、磯野員昌、お主だけは選択肢は一つ少ない。佐和山城は召し上げる。したがって、そなただけは国人衆となる道はない。もしどうしてもというのであれば、能登か越中、加賀辺りに所領を定めるが、そういった強い希望がなければ国人衆とはなれぬものと知れ。
さて、四人とも、それぞれによく考えて答えるように」
阿閉貞征は尋ねた。
「我が所領の全てを本貫とし、山本山城はそのまま領有できる、ということで宜しいのでしょうか」
阿閉貞征の問いに服部保長が代わって諾と答えた。
「阿閉殿の場合は所領は多少削られると思ってくだされ。山本山城はそのまま領するが宜しいでしょう」
それならば、と国人衆となることを承諾した。
代わって磯野員昌が言った。
「佐和山城を召し上げる、というが、誰が後任に入るのですか。それ次第では帷幄に参ずるのも吝かではありませぬが」
これには草太が自ら答えた。
「佐和山城は北近江と南近江の要衝であり、最重要の地。それであれば、堅実な将を置くつもりであり、田中弥左衛門を考えている。無論、内政は内政方が行うことになるが」
「田中弥左衛門殿、か。……分かり申した。それならば帷幄に参じさせていただく」
磯野員昌は、おそらくは名前も知らないであろう、さして名将という名声のない名を聞いて、それならばと帷幄に参じることを承諾した。
三田村定頼は元々所領などなく扶持米で雇われていた身であったため、やはり帷幄に参じることを承諾したが、その条件として自分の配下も希望者は丸抱えしてほしい、というものであった。訳を聞くと次のようなことであった。元々は琵琶湖周辺を荒らしまわった土豪であったが、浅井久政の父浅井亮政に討伐されて降伏したのが先代であり、その娘を嫁に貰ったのが三田村定頼であった。そのため、元々の土豪時代の配下も少なくなく、その身の振り方についても考える必要があった。そのため、配下共々抱えてもらえるのであれば帷幄に参じるのは吝かではない、ということであった。
草太は、ならばそれらは陪臣とすればよかろう、相応の扶持は後で弥次郎兵衛辺りに相談するように、と簡単に言った。
堀秀元はまた別の選択肢を示した。それは自身は帰農する代わりに、息子を取り立ててほしい、というものであった。堀秀元自身は年齢は高齢という訳ではないが、どうも体調が良くないことが多く、この度の戦いも体調不良のために兵を送るのみとしていた。ではその息子は、というとこれから生まれるという事であった。
草太は、とりあえずお伽衆として加賀にて静養させ、息子が生まれ成長したら軍学校に入れるか何かで取り立てる、と約束した。
こうして四者四様の身の振り方を決め、田中弥左衛門に一鍬衆四千、中筒隊千をつけて佐和山城に派兵した。勿論、六角家に対する防衛のためであった。鎌刃城には三林善四郎に一鍬衆五百を付けて入れ、周辺の警備に当たらせた。
翌朝のことであった。宿直が草太の宿所を訪れると、夕方には戻る故皆によろしく、と書かれた一枚の紙を発見しただけであった。布団、といっても綿入れの着物であったが、きちんと衣文かけにかけられ、薄縁は部屋の中央に置いてあった。宿直が探すと平助もいないことが発覚し、二人で極秘に抜け出したことが判明したのは巳の初刻(午前九時)の少し前であった。宿直は慌てていたが、渡辺前綱、滝川一益をはじめとした諸将、弥次郎兵衛もさして驚いた顔を見せなかった。
「夕方には帰る、そう書いてあるだろう。ということは、夕方には帰る、そういうことだ。御屋形様が帰るというからには帰ってくる。そういうことだ」
と滝川一益が言うと、
「別段、本日は御屋形様の決裁が必要な仕事はない。いてもいなくても同じだから、御屋形様に用があるのであれば一日くらい出かけても構わんだろう」
と弥次郎兵衛も気にも留めていない様子であった。それはそうと、と服部保長が聞きつけてやってきた。
「宿直、名は。……そうか。お主は次の間にいたはず。まさか居眠りはしておるまいな。……御屋形様も平助も、そなた程度ではとらえ切れぬ、か」
実は服部保長は一人の忍び、又兵衛を草太に付けていた。その又兵衛も、厠に立ったとみるやその後に姿を消した、ということであった。腕利きとは言わぬが、又兵衛は珍しい本職の下忍であった。つまり、忍び込み、後をつけ、聞き耳を立てる、そういった術に長けていた。その又兵衛ですら姿を捉えきれない、というのは、少し異常であった。
「御屋形様はどこまでなるのやら。剣を志せば間違いなく天下でも指折りになるに違いなかろうに、それでは志が立たぬと言って二の次でさえあれだ。全く、後生畏るべしというが、あれでまだ十四だから始末が悪い。と、宿直よ、いないのは内密にな。といっても既にどこまで知れ渡っているのやら」
草太が平助を伴って宮部城を出たのは、暁の頃であった。最も闇が濃くなる時間帯に平助のみを連れて城を抜け出した。草太と平助にとっては、眠い目をこすっている宿直や門番の目をかすめて、さして堅城でもない宮部城を、内側から破るのは簡単であった。
草太は、ここまで簡単に出られたことに逆に危機感を抱いてしまった。自分たちが忍び出ることが出来るという事は、逆に敵が忍び込むこともできるという事であったためだ。
当然ながら草太や平助の域まで達するほどの体術を持つものはほとんどいなかった。実のところ剣ではまだまだ及ばない富田勢源でも怪しかったのではあるがそれはともかく、闇に溶け込む服装をしさして警戒も厳ではない城の通用口からそうっと草太と平助は抜け出した。
その向かった先は、南西に一里ほどの地にある国友村であった。途中、いつもの武芸者とその弟子という態をとりながら朝からやっている一膳飯屋で食事をした。意外にも戦の直後であろうとも人通りはあるらしく、いや逆か、と草太は考えた。戦で足止めを食った人通りが戦が終わって流れているのかと考えていた。草太と平助は抜け目なく近隣の噂に聞き耳を立て、浅井様が敗れたそうだが、と人ごとのように話を聞き、民はどのように感じているのかを窺った。
浅井久政という人物を今後どうするのか、という問題がまだ未解決であったからということもあったが、純粋に草太がこういった民の生の声を聴くことが久しぶりで新鮮であった事もあった。視察をしなくなってから、否、視察では物事が回らなくなってからかなり経っていたことも手伝って、視察を兼ねての今回の挙となったのであった。
浅井久政の治世は、総じていえば好評であるらしかった。ただし、問題は何事につけ弱腰である、という一点に尽きた。朝倉家にすり寄って力を蓄えた先代の浅井亮政の代からの縁を断ち切ろうとして断ち切れず、姉小路家と無用の戦をして大敗北を喫し、そのままずるずると国を失った、というのが総じての評であった。ただし内政という意味では開拓も行い、大きな戦も姉小路家と事を構えるまでは佐和山城付近での六角家との小競り合い程度でしかなく、好評であったといってよかった。
そんなに内政ができるのであれば、内政の担当者として、弥次郎兵衛の与力辺りにすれば面白いかもしれぬ、と草太は考えていた。




