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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百二十二、北近江合戦次第


 一乗谷城に後藤帯刀隊として一鍬衆八千、中筒隊五百を残し、残りは疋壇城より北近江へ侵入した次第については既に述べた。

 浅井家は既に朝倉家から六角家との関係を深め、従属関係に近い関係となっていた。このことは草太も知っていたため、わざと仰々しく馬借街道を越え、疋壇城で馬揃えを行い、刀根坂越えで北近江へ侵入したのであった。


 姉小路家日誌天文二十四年睦月十八日(1554年2月9日)の項には、こうある。

「姉小路房綱公、一鍬衆本隊は一鍬衆一万二百、中筒隊二千、中折れ銃五百、馬回り及び騎馬隊千、補給隊および医療隊三千を引き具して北近江へ入り、東野城を攻め落とし、余呉湖周辺を切り落とし候。更に南下し田部城、井口城、雨森城を下し、川沿いに下りて丁野山城、中島城を攻めんとした際、高取川を挟みて浅井、六角両軍と合戦仕り候。(略)余勢を駆りて小谷城を食い破り候」

 姉小路家日誌にはこれまでもしばしば見られたことではあるが、これらのことは一日に起こった事ではなく数日分が一日の項に書かれているだけである。例えば高取川の合戦と呼ばれる、姉小路軍隊浅井、六角連合軍の合戦自体が生起したのは睦月二十一日(2月12日)であることが他の資料から知られている。  



 余呉湖周辺に展開した姉小路軍は東野城を囲んだ。そして降伏勧告を行い、衆寡敵せずを悟った東野氏は、帰農することを条件に城を明け渡した。更に南下し、田部山城、井口城、雨森城は既に小数の留守居を残し小谷城に移転した後であったためこれらを接収し、それぞれに合計五百を留守居として残して南下した。

 物見の報告によれば、小谷城及びその周辺に浅井、六角連合軍一万四千が展開しており、更に山本山城に阿閉貞征が兵四千で立てこもっていた。

 唐川城という城とは名ばかりの館に毛が生えたような城を接収した姉小路家は唐川城に本陣を構えた。


「軍議を始める」

 草太が言った。

「その前にお聞かせ願いたい」

 これは田中弥左衛門であった。なにか、と問えば田中弥左衛門は言った。

「なぜ進軍を意図的に遅らせておるのですか。そのつもりであれば小谷城は落ちておったはず。未だ唐川城にいる意味をお知らせ願いたい」

 そのことか、と草太はこともなげに言った。

「なに、六角を引きずり出すには、時間がかかった。それだけだ。将軍足利義輝様には悪いが、今回の戦で六角攻めの契機を作る。今までの支援があるからと普通であれば六角攻めは許可なさるまい。が、このようにはっきりと敵対したことが分かれば話は別だ。戦場に引きずり出し敵対させれば、我らが敵として叩くことができよう。それだけだ」

 六角攻めと聞いて、田中弥左衛門は納得した。これまでの支援者を叩く、という意味からならば、確かに敵対しておいてもらわないと容易には話が先に進まないだろう。

「浅井家は六角家に従属しており、我らは浅井家を叩き北近江の領有を許された身。なれば、自然に六角家はいずれ敵対する。それならば、早く、また支度が出来ているときに叩く方が良かろう」

 田中弥左衛門は言った。

「ならば、やはり野戦を主軸に考えておられるのですか」

「向こうの方が兵が多いからな。おそらくは出てきてくれるはずだ。なに、出てこねば小谷城以外は力押しに一つずつ攻め落とせばよかろう。七太郎の棒火矢や擲弾筒も充分に作らせたし、煙玉の用意もある。小谷城以外は容易だろうよ。無論、野戦であらかた片を付けて、それから城攻めの方が楽だがな」

 草太はこともなげに言った。が、内情はそこまで楽観的ではないと考えていた。なにより野戦で勝つこと自体、敵兵が多いというそれだけで向こうが有利であった。城攻めにしろ、あまり手の内も見せられない。見せすぎれば対策を取られるのは自明のことであった。投槍器も模倣された場合に防ぐ手立てはまるで考え付かなかったが、弓兵を育成する程度の訓練が必要であるという点と投げる槍自体の数を揃えるのに財力がかかるという問題があるため、模倣は難しかろうと楽観的に考えてはいたが、さて本当にそうなのかといわれれば返答に困った。

 兵士数、練度、装備などが同じなら、数が多い方が通常は勝利するという、当たり前の事実に草太は今までは常に練度と装備、それから守勢であるという点を最大限に利用して戦場陣地を築くことで兵士数の差を補って勝利していた。もしこれらが、例えば練度で凌駕されるならば、今までのような楽な戦いは出来まい、と考えていた。


「陣割を申し渡す。与力その他は渡した表のとおりだ。まず、渡辺前綱、滝川一益、一鍬衆七千と中筒隊千、中折れ銃隊五百を預ける。先陣として丁野山城、中島城からの主力に向かえ。敵方に小筒隊がいると思われる故、ぬかるな」

 は、畏まりました、と両名は返答した。

「更に左翼、これは少し難しい役割をしてもらう。時期を見て敵陣の背後に回り込み、壊滅に追い込む役割であり、一つ間違えば自らが壊滅する。これは田中弥左衛門、そなたが頼りだ。一鍬衆二千と騎馬隊五百を預ける。また特に与力として吉田右衛門は連れていくが良い。……騎兵の本領が本当に敵陣を割ることかどうか、試す意味もある。平野右衛門尉に任せたかったのだが、平野右衛門尉は本陣で必要な人材故」

 承りました、と両名は言った。

「残り、一鍬衆七百と中筒隊千、馬回り五百は本陣であり、山本山城を正面に右翼を進む。といって、阿閉貞征は既に内応を約している。よって、山本山城は敵に非ず。阿閉貞征と合流した後、そのまま南進して宮部城を攻める。場合によっては南部より六角が更に増援を派兵する気配もあり、また佐和山城の磯野員昌も未だ兵を擁したまま動かず、いつ北上を開始してもおかしくない情勢である。ここは私自らが当たる」

 な、と反対するものがあった。平野右衛門尉であった。

「本隊が小さすぎます。せめて一鍬衆をあと千、いや二千増やしてもらいたい。御屋形様が危険すぎます」

「その本隊の一鍬衆を平野右衛門尉、そなたに裁量させようというのだがな。七百では不満か。もっとも木田八郎に中筒隊を裁量させるつもりではあるから、相方の位が低すぎるか」

 草太は言ったが、そういう問題ではございませぬ、と平野右衛門尉は言った。

「もし山本山城の阿閉貞征がお味方少数とて寝返りを止め野戦に出たらなんとします。御屋形様が危険すぎます」

 平助が珍しく口を開いた。

「心配はありがたいが、儂がお傍にいる間は御屋形様には指一本触れることは出来ぬ」

「という訳だ。野戦に出たなら、精々三千五百に対して二千二百、それも鉄砲隊が阿閉隊にはおらぬ。さほどの手間もなく山本山城は力押しに攻め潰せる。もっとも、阿閉隊三千五百は降る故、それを加えて雑兵三千五百、一鍬衆七百と中筒隊千、馬回り五百が本陣となる。危険はあるまい。最も危険なのは左翼の田中弥左衛門隊だろうよ」

 草太が言うと、田中弥左衛門が言った。

「御役目、命に代えてでも……」「ならぬ」

 田中弥左衛門の言葉をさえぎって草太が強く言った。

「戦場だ。命が失われるのはわかる。だが、それを前提としてはならぬ。第一の功は生きて帰ることぞ。死んでも役目を果たす、などとは考えるな。役目をこの度は果たせずとも次は果たせるやも知れぬ。だが死ねばそれまでだ。その役目は果たせてもそれ以降の全ての役目は果たせぬ。それでは意味がないのだ。わかるな。生きて戻ることこそ第一の功ぞ」



 軍議が終われば戦の時間であった。雪もほどほどには積もっていたが足を取られるほどでもなく、湿田も半ば凍り固まり、行軍の妨げにはならなかった。

 渡辺前綱、滝川一益率いる中央の先陣、が丁野山城の北五町程にある高取川の東岸に布陣したのは睦月二十一日(2月12日)の未明のことであった。これに対するは浅井、六角連合軍のうち丁野山城及び中島城に籠っていた足軽五千と鉄砲隊二百を率いた後藤賢豊、また雨森弥兵衛清貞が足軽三千と鉄砲隊三百を率いて出陣してきた。

 渡辺前綱、滝川一益の両名はさすがは歴戦のつわものであった。土を掘らせて空堀を掘り、土嚢を作らせて積み上げさせてその内側に籠っていたが、空堀は陣の内側に掘らせ、土嚢は二重に積ませていた、そして、内側の土嚢を外側の土嚢の更に外側に出し、ゆっくりと、確実に前進を開始した。一刻に一里を急進することのできる姉小路軍であったが、この方法では一刻に精々半町が精一杯であった。渡辺前綱はこの戦が終わり次第、鉄砲に対する盾の開発、制式採用の建白書を提出しようと心に決めて、土嚢を進める隊の中に入っていた。無論、土嚢を進める隊は全て一鍬衆であり、中筒隊及び中折れ銃隊は含まれていなかった。彼らは射程内に敵が入ってきたときに備えて発射体勢で待機をしていた。

 陽が高く上り朝もやも晴れてきたころ、両者の距離は一町半を切った。一つには浅井、六角連合軍が前進したという事もあった。だが一町半という距離が問題であった。中筒隊の射程内であり、小筒隊ではほとんど射程外となるこの距離をのがす滝川一益ではなかった。それまで土嚢の陰に隠れさせていた中筒隊千、中折れ銃隊三百に一斉射を命じ、様子を見た。前衛九百が脱落したようであった。そこに急進してくる部隊がいるのを滝川一益は見落とさなかった。中筒隊に五段打ちを命じ、中折れ銃隊と合わせる形で撃たせた。一度に七百の銃声が鳴り響き、三回目の銃撃が鳴り響くころには急進してきた部隊は全滅に近い状況に陥っていた。当然ながらこの急進してきた部隊は鉄砲隊であり、ついに実戦で一発も撃つことなく壊滅したのであった。


 この様子に大いに驚いたのは、六角家からの援軍、後藤賢豊であった。話には聞いていたがこれほどとは、と思いつつも、銃さえ何とかなれば勝機はある、と考えた。そして後方にいる蒲生定秀率いる足軽隊二千に、東の山際を回り込んでの攻撃を要請した。またこの苦戦に小谷城の浅井久政も出陣を決意し、奇しくも同じく赤尾清綱を将として足軽隊三千を山際より側面を全力で攻撃することを決意した。

 その山際を南下していたのは、田中弥左衛門率いる一鍬衆二千、騎馬隊五百の部隊であり、小谷城から充分に兵が離れたところで小谷城との隙間に入り込み、かき回し、乱戦をして再度城に入れないことを目的としていた。



 浅井家と六角家は共同戦線を張っていたが、その共同戦線はどうもあまり信頼関係によって成り立っていなかったのではないか、というのが現代の見方である。なぜならばこの一戦で、両軍の連携した攻撃というものが存在せず、むしろ功を争っているという印象さえ受けるためである。また、例えば側面攻撃のための軍がそれぞれに連携も取らずに移動し、単にそれぞれが田中隊と戦い、乱戦の中で統率を失った浅井、六角両家の軍が、数に勝っていたにもかかわらず多大な被害を出し、辛くも田中弥左衛門隊は退けたものの側面を突くという本来の戦略目的は全く果たせずに終わったという事実が、それを物語っているように思える。

 興味深いのは、浅井家、六角家は両者ともに小谷城落城後も姉小路家と戦い続けたのであるが、この一戦以降両者が同じ戦場で同じ側として戦うことは遂になかったという点である。やはり、従属関係に近い同盟であったとしても、信頼関係を醸成するのには時間がかかるといえるだろう。


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