百二十一、浅井攻めへ
越前一乗谷城の兵糧攻めについて、雪もあって長期化していること、及び出陣評定をし、先に近江浅井家を攻める事については既に述べた。
しかし、姉小路家の行動に対応する浅井家の対応を見るためには、少し時を遡り草太が宗太に薪炭を売りに行かせた直後のころから見なければならない。
それは、天文二十三年も師走に差し掛かったころのことであった。このころになると薪炭の搬入は月に二回では追いつかず四回になり、また薪炭以外の食料その他も宗太の手によって一乗谷に供給されていた。勿論、人の流れがあるという事は、格好の調略の場でもあったわけなのだが、そのことは宗太は知らなかった。このころに数名の地侍が調略により寝返り、城内から内応する手筈を整えつつあった。この次第も既に述べた。
「人を、でございますか」
宗太は草太に聞き返した。
「そうだ。少しずつでいい。街から人を抜け。可能な限りに静かに、だが確実に、人を抜け。……一人十疋の支度金を渡し、移住させよ。移住先がない者は、坂井郡か敦賀の街に移らせよ」
「一人十疋、敦賀は分かりますが、坂井郡は何があるのですか」
「なに、吉崎御坊の立て直しをするのでな、門前町の一つもなければ格好がつくまいよ。それから、これからはお主以外の行商人は入れぬようにする故、元締めとして励むが良い」
これには宗太も驚かざるを得なかった。自分が元締めだというのだ。おもわず拒否しかける宗太に、草太は言った。
「なに、お主以外に一乗谷に行商人が何人入っていると思っている。この十日でお主より小商いのものが三人だけだ。大橇を押していたのはお主の行商団だけだからな。後は背負子に荷を担ったものばかりだ。お主の管轄としてもさして面倒はないはずだ」
それでも、と宗太は言いかけたが、草太は続けて言った。
「人を抜きながら、敵兵も抜け。徐々に物の売れる量も減るだろうが、置いてきて良い。それはこちらでもとう。帰りは空荷ではなく人や家財を載せてくるが良い」
宗太は分からなくなってきた。何がしたいのか、理解できなかった。兵糧攻めにするつもりなら物資を置いて来る必要は全く無かったためであった。そうした事をするくらいなら、持っていく必要は全くなかった。
「結局はな、人には欲があるのだ。朝倉家が関を作って人の出入りを制限しようとしたら、物資は入ってこなくなる。そうなれば、民の分までの食糧薪炭その他が必要になるが、今のままなら民が出ていくのを見ている代わりに逆に鹵獲分で食糧薪炭は増えるかもしれぬ。篭城できる期間も長くなるだろうよ。ただし、気が付いた時には……」
草太はその後は言わなかった。
それからな、と草太は言葉をつないだ。
「民が居なくなった時点で、行商は終了だ。兵にはそれとなくそれを伝えておけ」
師走も末に差し掛かると徐々に人も少なくなり、草太が一時帰国をした直後、事件が起こった。
城兵が城を抜けて来ても見て見ぬふりをする、というのが基本戦略であったが、名のあるものが出てきた場合には捕縛せざるを得なかった。即ち、真柄兄弟が城を抜け、数名の兵を連れて落ち延びようとしてきた。無論、服部保長の部下又兵衛が張り付いており、名のあるものは残らず見抜いていたため、二人がやってくるのはかなり早い段階で認識されていた。二人が降伏するのであればよし、さもなければ捕縛すべし、と渡辺前綱は穂のない三間槍を構えた一鍬衆を集め、関を通るのを待った。
関で渡辺前綱は名を尋ねた。すると変名も使わず、
「我こそは真柄直隆なり。押し通り候」
「我こそは真柄直隆が弟、真柄直澄なり。押し通り候」
と、従兵に持たせた槍に見えた太郎太刀、次郎太刀をぬいた。だが渡辺前綱は顔色も変えずに言った。
「通りたくば通れ。我は関知せぬ。ただしその後敵対するとなれば話は別ぞ。返答は如何に」
ふふ、と笑って真柄直隆は言った。
「芝居じみた台詞ではいかぬか」
「殺意がないからな。ただ見栄を張っただけ、とみたが、何をしに来たのだ。返答によっては捕らえねばならぬ」
渡辺前綱が言うと、真柄直隆が答えた。その答えは意外なものであった。
「退屈だからな、遊びに来たのだ。……すぐそこに将軍様がおいでだとか。ご挨拶をと思ってな」
苦笑しつつも渡辺前綱は、それだけではなかろう、というと真柄直隆は太刀を納めながら言った。
「退屈だからは本当だ。ただ、我らは朝倉の家臣ではなく被官でな。直臣と与力位の違いがある。よって、幕臣に戻りたいと直訴しにな」
要するに降伏に来たのか、と渡辺前綱がいうと、降伏ではない、元に戻るだけだと真柄直澄が言った。言葉の上は取り繕いたいのだろう。それに命を張ってでも。
事の次第を将軍足利義輝に報告すると、将軍足利義輝は大いに喜んで、武士たるものこうでなければ、と大いに機嫌を良くし、そして直ちに幕臣に加えることを許した。ただし、真柄の荘に戻るのは一乗谷城落城後とした。細川藤孝が背後を突かれることを警戒したためであった。だが渡辺前綱はそういったことは警戒していなかった。良くも悪くも傾いており、策を巡らすのは柄ではない、真柄兄弟の気質を感じ取っていたからであった。
「して、その太郎太刀、次郎太刀を見せよ」
将軍足利義輝は、さすがに座敷では狭かろうと庭先で太郎太刀、次郎太刀を引き抜かせ振り回させた。だが、将軍足利義輝の顔は次第に興味を失っていくようであった。いかがなさいました、とは細川藤孝は聞かなかった。そのつもりになれば将軍足利義輝が三尺の太刀をもって望んでもたやすく打ち込める、そのように見えたためであった。
「もうよい、大儀であった。追って沙汰をする故、そうさな、当面は石川長高の与力とする。励むが良い」
な、という顔になったのは真柄直隆、直澄の双方であった。
「興が冷めたと仰せならば、我らと仕合うてはいただけませぬか。それとも我らが剣技には用がないとでも仰せか」
将軍足利義輝は無言で木刀を細川藤孝から受け取り、正眼に構えた。そして、ふらりと前に出たかと思うと真柄直隆の懐に入り小手を撃った。
「加減した故、骨は砕けておらぬはずじゃ」
そういった後、す、と離れて真柄直澄と対峙した。真柄直澄は相手が将軍足利義輝であることも忘れて前に出て上段より次郎太刀を振り下ろした。鉄兜さえ容易に割るはずのその次郎太刀を、将軍足利義輝は容易に木刀で受け止めた。そうして驚く真柄直澄を次郎太刀伝いに内懐に入り鳩尾を掌底で撃った。これには真柄直澄もよろめき腰を落とさざるを得なかった。
まったく、最近の武士はなっておらぬ、とこぼしながら木刀を乱暴に細川藤孝に返したが、次郎太刀を受けた時の傷はほんのわずか木刀がへこんでいるだけであり、日頃の鍛錬の傷に紛れて木刀は無傷だったと信じそうになる程度でしかなかった。細川藤孝は、上様が強すぎるのだがな、と思わざるを得なかった。実際、真柄兄弟と対峙して無事でいられるものは相当少ないと思われたが、それをまるで子供をあしらうかのようにあしらうことのできる将軍足利義輝は、やはり将軍よりも剣客の方が向いているのかもしれないな、とちらと思った。
ふと、この将軍足利義輝と戦って、そして引き分けた、いや実質的には勝利した草太のことを、細川藤孝は思った。あの草太であればどうしたであろうか、勝負自体が起らなかったに違いない、そこまで思い至ったときに草太と将軍足利義輝の違いについて考えざるを得なかった。それと同時に、未だ引くという事を将軍足利義輝に教えられていない自身の力のなさを思ったのであった。
一方の朝倉義景は一乗谷城で閉塞感に苛まれていた。兵は既に六割以上一乗谷城を抜けて逃げ出していた。民も八割以上は一乗谷城下の小京都から姿を消したと報告されていた。そして、豪勇で鳴る真柄兄弟までも下ったとの報が入った。やはり将軍家と、いやあの草太と戦ったこと自体が間違いであったか、と思わないではなかったが、では、というといずれ部下として膝を屈する、朝倉義景自身ではなく自分の次の代かもしれないが、膝を屈することとなるのはどう考えても許容できなかった。
だが、なぜだ。
野戦で敗北したため、というのは分からないではない。勝てるはずの戦であったが、敗北した。戦に勝敗は常である以上、敗北する可能性は常にあった。だが、一乗谷城の籠城に至るまで一度の大きな敗北と何度かの小さい敗北が詰みあがった結果、こうなった、というわけではなかった。そう、戦で敗北したからこうなったのではなかった。戦で敗北した結果であれば、受け入れられたはずであった。
だが、一乗谷城下では一戦たりとも行われていなかった。それなのに、こうなのだ。今になって朝倉宗滴の言葉が思い出されていた。
「相対する以前のところで既に勝敗を決することのできる相手、か。正に言いえて妙だな」
兵に対する兵糧は、薪炭は確かに豊富にあった。だが、その兵が減っていた。
「ま、よい。浅井が背後を突けば、まだ巻き返すことができよう。このままなら来年の秋まででも籠ることができるが故にな」
さて、草太が東郷槇山城で宗太の報告を聞き、同じように一乗谷の様子を窺っていた又兵衛の報告も聞き、頃合いかと考えていた。草太は後藤帯刀と宗太を前に言った。
「宗太、次の行商で、出来るだけの民を抜け。そして今後一切の立ち入りを禁ずる。……後藤帯刀、意味は分かるな」
は、と後藤帯刀が返事をした。冬の間に城を落とす、その策の要である一乗谷城周辺の民の疎開がほぼ終わったという事であった。また逃亡兵も多く、既に城兵は四千を切っていたが、その内千五百近くは既に調略による内応を約束した者たちとその配下であった。
「これで、我らが浅井攻めのために兵を動かしたのを機に動いてくれれば楽なんだがな。……そうなった場合でもならなかった場合でも、後藤帯刀、よろしく頼むぞ」
草太の期待に応えるべく、後藤帯刀が大きく頷いた。
翌日には馬回りも到着し、当初の予定通り一鍬衆八千、中筒隊五百を残して兵が東郷槇山城から馬借街道を抜けて敦賀へ、そして疋壇城で馬揃えをして刀根越えで北近江へと兵を進めたのであった。




