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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百十七、天文二十三年の終わり

 草太が金沢城にて政務を行ってる次第については既に述べた。

 今までであれば、数か月という時間があれば上洛していたのであるが、元旦には岡前館にて年賀の挨拶を受けなければならず、また政務もたまっている関係上、上洛するほどの時間は年が改まるまで取れなかった。そのためか、この時期は金沢城及び増山城にて政務を行ったという記述が散見される。


 姉小路家日誌天文二十三年師走六日(1554年12月31日)及び八日の項にこうある。

「姉小路房綱公へ輪島塗の職人小弥太より重箱の献上之有。公曰く、技は巧みなれど、美しからんとして損ない候とぞ。また七太郎を賞して曰く、技は見事なり、されど少し用いて完成させる工夫も工夫のうちなり、とぞ(略)姉小路房綱公、田中与兵衛の訪問を受け候。金沢と放生津に支店を設けし事の挨拶と中筒千の納入他を話し候。また先日の輪島塗の重箱につき見せし処、技量素晴らしければ図案を工夫すれば高く値が付かん、とぞ」

 これまでに見てきたように、様々なことが天文二十三年に起こったが、初期の作品ではあるが沈金蒔絵の輪島塗が製造されはじめたのもこの時期である。華美過ぎるほどの華美と言われる最初期の作品群は天文二十三年から数年の間に製作されたことが、姉小路家日誌をはじめとしたいくつかの文献から読み取ることができる。また、沈金蒔絵に螺鈿の技術移転に七太郎がかかわっていたことも示唆されている。



 草太が報告書を読んでいると、七太郎が一人の男を連れて面会に来た。七太郎が面会とは珍しいものだ、と思いながらもすぐに面会を許可した。

 七太郎は、挨拶もそこそこに、一つの重箱を渡してきた。漆塗りで沈金蒔絵に螺鈿を施した美しい、というよりも美しくあろうとする努力の跡がありありと見え草太にはそれが少々うるさく見えたが、こういう品を作れる、という見本としては悪くないように思った。

「実は先日来、暇を持て余しているところに輪島塗の職人が来まして、沈金蒔絵に螺鈿の技術を教えてくれと、そう言いました。それで教えたわけです。その教えた結果がそれです」

 七太郎は沈金蒔絵に螺鈿などできたのか、などとは言わなかった。七太郎は元々は堺鉄砲の職人であり沈金蒔絵に螺鈿を施した豪華な装飾が堺鉄砲の一つの特徴であったためでもあった。七太郎が言ったところを見ると、後ろの男は輪島塗の職人らしい。評価を、と七太郎が促したので草太は言った。

「確かに見事な沈金蒔絵に螺鈿の重箱である。が、少々美しくあろうとする努力が表に出すぎている。実用には使えるだろうし、侘びさびの趣味のない者であれば好むだろうが、趣味のものには売れまいよ」

 そう言った後、草太は続けて言った。

「だが、先ほども言ったように沈金蒔絵に螺鈿の技術そのものは見事である。そうだな、派手好みのものには好まれるのではないかな」

「派手すぎ、でございますか」

 後ろに控えていた職人が言った。どうやらこの重箱を作った者らしかった。

「派手というよりも、技術を込めすぎであろう。もう少し抑え目に、そうだな、半分ほどにすれば逆に蒔絵は映えるだろう。おそらく七太郎が暴走したのであろうが、美術品に技術を込めすぎるのは良くない。少なくとも私はそう思う」

 肩を落としているその職人に対して同席していた平助が珍しく声をかけた。

「御屋形様の好みというよりも愛用の茶碗はな、そこらで五十文で一揃え揃えた膳部で木地がしっくりとしている椀だ。椀だけなら十文でも釣りがくるだろう。蒔絵よりも木地の美しさの方が好みなのだろうよ。美術品などは好みの問題だからな。……儂に美術品の目利きは出来ぬが、相当な技術が使われているのは分かる。図案を工夫すればよいだけだから、励むが良い」

 二人が退出した後、草太がぼそりといった。

「こういったものよりも、木地の美しさを生かす塗り方が好みなのだがな」

 平助は、我関せずという顔をしていた。

 草太は七太郎に九州行きを、情勢が落ち着き次第近いうちに許可するとともに、新型の中折れ銃については極秘にすることを改めて命じたのであった。



 その翌々日に田中与兵衛がやってきた。金沢と放生津に支店を設けて北国での商売を活性化させるとともに、かねてより命じていた武具弾薬の納入を行った報告であった。

「商売になるようなものがあるのか」

 草太が聞くと、田中与兵衛は意外なものを挙げた。荏胡麻であった。油が取れるのだという事であり、この油の需要がかなりの利益を生むのであった。それはそうとして、と田中与兵衛が言った。

「かねてより堺、国友で中筒以上の鉄砲が作られたら全て買い取る様に、とのことでございましたから、兵糧の売却益を充ててほぼすべて買い取ることが可能でござした。全部で千丁あります故、ご確認ください。小筒は無視して流通させましたが、それでもよかったのでしょうか」

「どこが買ったのだ」

 同席していた弥次郎兵衛が聞くと、やはりという名が挙がった。

「最近の大口はやはり浅井様でございますな」

 聞けば、この二か月で八百丁近くの小筒が流れていた。硝石もそれなりに流れており、訓練を考えても二三回の戦には耐えられる程度には火薬があるはずであった。

「他には六角様がやはりご執心のようでして、こちらには六百丁ばかりでございますな」

 疋壇城には鉄砲隊を込めていないが、込めさせるべきかとちらりと草太は考えた。だが小筒ならば壁を打ち抜くほどの威力はない、と考えてそこは置いておいた。


 そして雑談の後、草太は先日の重箱を見せた。田中与兵衛は驚いて言った。

「これは豪奢な。いかがなさいました」

 なに、領民からの献上品だ、とさらりと言った後、

「して、これを買うとしたらいくら出す」

 田中与兵衛は難しい顔をして、おそらく売りつける先がいくら出すかを考えていたのであろう、そうですな、と前置きして言った。

「手前には値がつけられませぬが、おそらく銀三十匁、というところでございますか」

 草太は、して誰に売るのだ、と言ってその重箱は持って帰る様に命じた。田中与兵衛は答えなかった。ここまで派手であればおそらくは売れないだろう、だがあまり安い値を付けるのは草太の機嫌を損ねる可能性がある、そう判断しての銀三十匁であった。しかしこれが後に出雲阿国に銀五十匁で売れ、派手が高じて日本中に蒔絵漆器の一大流行を巻き起こしたのであった。

 とはいうものの、輪島塗の漆器自体はこの後、華美にならない程度に抑えた蒔絵に螺鈿の趣味の良い景色を身に着けていくのだが、それはまた別の話である。

 因みに、これを見た田中与四郎の反応は、品のないものですな、というものであった。



 年師走二十日(1月14日)、僅かな馬回りを伴って草太は金沢城を発し、安養寺越えで西越中へ、更に南下して越中の守備に当たっている内ケ島氏理の居城、上見城へ泊り、師走二十一日、岡前館に戻ってきた。つうは草太の馬に乗り、行動を共にした。上見城では内ケ島氏理にも挨拶させた。少し羨望の目で見られたが、つう自身は客観的にはそれほど美人という訳ではない。とはいえ、内ケ島氏理も年賀の宴には出席する予定であり、年賀の宴ではつうを紹介する予定であったため、一足早く紹介した形になっただけであった。


 翌師走二十一日(1月15日)の夕方、岡前館にほぼ一年ぶりに帰還した草太は、夕餉に蕎麦と大根の田楽、蕎麦掻と茸の吸い物、イノシシの炙り肉と香の物を食べ、食後にここ数日できなかった剣の修業を平助と共に一刻ほど練った後、自室に引き上げてきて、つうをただ待たせたことに罪悪感を感じつつも、火鉢に火を入れて部屋を暖めて待っていたつうを可愛く思った。

 剣の修業中、つうにとっては岡前館は初めてであったから、一回り見て回っていたらしかった。こういった点で抜け目がないのもつうらしかった。


 天文二十三年の最後の十日ばかりは、例えば乾田の法をはじめとする諸報告書を片付け、上手く行くようであれば来年の秋から飛騨全土で、それでも問題がなければ更に他の地域への拡大も徐々に行っていくように策を巡らせていった。

 また、この時期に特筆すべき内政上の問題としては、白川郷以外の飛騨全土で絹の製造が本格化したことが挙げられた。これは、単に絹が取れるだけではなく、綿の製造でもあり、硝石の生産が始まる事をも意味している、ある意味で姉小路家の財政上、および軍事上の柱であった。鉄砲など、火薬がなければただのこん棒でしかない為であった。



 この十日ばかりは草太にとっては久々に休養の時期でもあった。

 天文二十三年は正に激動の年であり、それこそ席の温まる時間もないほどあちらに顔を出しこちらで戦をし、必要な手配りをし、文を書いた。結局、臨時以外には祐筆もおかず、必要な場合には内政方の手すきのものを借りて祐筆として用いていた。これも、特定の祐筆を置こうとは思うのではあるが、中々人選に苦慮していた。富樫家俊を、と思わないでもなかったが、本人に祐筆ではなく将となる希望があるため強制する訳にもいかず、といって公家連中ではなかなか従軍そのものがむつかしかった。

 祐筆一つとってもそうであるように、姉小路家は急激な膨張をした戦国大名に共通の欠点、即ち人材不足に苦しんでいた。特にこの天文二十三年は綱渡りであった。もし美濃斎藤家が飛騨侵攻を許諾していたら、情勢は大きく変わっていたに違いなかった。草太はこの十日間に、一年間を振り返って様々な内省をじっくりと行う時間を取れた。やはり人材不足という問題は根が深く、軍学校が始まったとはいえ、武将というよりも暫くは将校であるため、与力としてでは使えたとしても将として使うとなればまだまだ不安も多かった。

 だが、当初の大戦略グランドデザインについてはおおむね達成できたため、今後についてもじっくりと考える時間があった。足利将軍家に命じられている北近江、若狭、丹波、丹後を攻略することとしても、その後の支配をどうするかについては考えどころであった。若狭と北近江は直轄地として欲しいが、丹波となればその隣国が京のある山城国である。今まで意識的に避けてきた中央政界への介入ということも視野に入れる必要が出てくると思われた。だがいずれはどこかの時点で中央政界についても否応なしに巻き込まれるに違いがなかった。


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