百十六、興仙の狙いと金沢城での成果
金沢城に戻った草太はすぐに評定を行った次第については既に述べた。
姉小路家日誌天文二十三年霜月二十五日(1554年12月19日)の項にこうある。
「評定後、興仙僧正、姉小路房綱公をお叱りなされ候。足利将軍家の自立など以ての外という興仙僧正は申し候。公反論せしも、興仙僧正聞く耳持ち候わず。(略)そしてこの後、興仙僧正との縁は暫く疎遠になり候」
興味深いのは、底本である高屋平助日記の引き写しであるこの部分に「暫く」との文字が加えられていたことである。底本をそのまま引き写した部分が大部分を占めるこの時期の姉小路家日誌ではこのような加筆は非常に珍しく、後に親密な関係を築いたとされる根拠とされている。だが、この後、姉小路家日誌には興仙はほとんど出てこず、興仙自身が故郷に戻り安芸愛宕山に引き移りその地で没したという記述が他資料には見えることからも分かるように、その関係が密になったと考える何物も、少なくとも姉小路家日誌からは読み取れないのである。
評定が終わった後、興仙は草太に話があるという事であったため、応接室として使っている一室に興仙を誘った。ここであれば、多少の怒鳴り声は誰にも聞かれる心配はない。草太は平助だけを伴って応接室に入った。冬のこととて火鉢が部屋の真ん中に置いてあった。草太は上座は興仙に譲り、自身は昔からの一個人である草太に戻って話を聞くつもりであった。
席に着くなり、興仙は聞いてきた。
「なぜ我が忠告を無視したのだ」
草太には心当たりがなかった。
「と申されますと」
「将軍家だ。そうっとしておけ、と申し付けておいたはずだ。なぜ轡を並べて越前にいるのだ」
「いずれ私も中央政界に巻き込まれたでしょう。その時に足利将軍家の動向は大事でございますから」
そうではない、と興仙は言い、そして言った。
「もう一年かその位で、将軍家は京に戻れたはずなのだ。そのための下準備を、悉く無に帰させよって」
これは草太には初耳であった。だが、将軍家にそれほどの実力があるとは考えられなかったし、それほどの実力があるなら細川藤孝が知らないはずも、それを隠すはずもなかった。つまりは、現状として京を抑えている三好辺りの傀儡としての帰京であろうと思われた。そして草太は言った。
「ですが、傀儡では戻る意味がございませぬ」
「じゃが、傀儡でなければ滅ぶ。室町幕府が滅んでしまう。それを危惧して我が主細川政元様の出した答えが、天皇制に倣っての権威のみを持つという方策であった。だが、越前の国を治めるという事は、権威だけではなく権力も持つという事じゃ。権力を持つならば、いずれ他の力によって滅ぼされる。そういう運命になる」
ここで一息入れて、そして続けた。
「室町幕府が後世、どのように評価されるかはわからぬ。だが、権威のみを持つ存在であれば、半永久的に生き延びられる。天皇陛下でさえ権力も持った建武では三年しか持たなかったのだ。鎌倉幕府は将軍を権威化することにより二百五十年という命脈を保った。ならば室町幕府も権威化することにより命脈を保ち続ける、その方策を探り続けたのが我が主じゃ。なので、最低限度の生活費を賄うだけの御料地さえあれば、足利将軍家に領土など要らぬのじゃ」
しかし、と草太は言った。
「足利将軍家は自分の足で立ち自分の力で動こうと考えております。それを無碍にするのは、私にはできません。たとえそれが、足利将軍家の滅亡を早める結果に終わろうとも、です」
平行線じゃな、と興仙は言い、帰っていった。
将軍家の権威化、か。草太は少しだけ考えてみることにした。それをするという事は、権力は別の誰かが持つことを意味していた。では誰が持つのか、権力争いが結局は戦争の発端であるなら、権威化が正しい方策であるとは全く思えなかった。
金沢城に戻った草太は、多忙であった。だが、最終的な決定はともかくとして、草太のすべき仕事の範囲は徐々に変化していた。飛騨国司となった直後のように民を巡察して回る、というようなことはほとんどなくなり、代わりに書類に署名と花押を書き込む仕事が増えていた。視察といっても、事前に知らされているのか様々な手が止まっているのが目に見えていた。なので、よほどの顕彰なりでなければ、気軽には足を運ぶこともままならなかったというのが実情であった。
ところで。
草太が居なかった間に起こっていた様々な事象が草太の帰還によって一斉に活動を開始したのは戦国大名としては正しいのかもしれないが、組織として考えるのであれば弥次郎兵衛が居なくてもかなりの程度の内政が回るという意味で、組織としては弥次郎兵衛が、弥次郎兵衛という個人に依存しない組織作りに成功したとして望ましいことなのだと考えられる。この時期の草太の不在とその間に準備が完了し、草太の決裁を仰いで活動が開始された事例と、弥次郎兵衛が不在の間も粛々と内政の仕事が回り続けるような組織作りに成功した事例を比較すると、たしかに草太の決裁が必要なことというのは新規事業であることが多く、弥次郎兵衛がのそれは既存の事業であるという違いがあるにしろ、この時期の両者の違い、そして草太の決裁が必要な新規事業が減ってくるにつれて、国家経営が未だに草太や弥次郎兵衛という個人の才能に依拠したものからの脱却の萌芽、それが示唆されているのである。
例えば、この数か月間で特筆すべき新規の内政政策として、孤児院の創設が挙げられる。戦争で親を失った子の他、間引くしかない子を預かるという触れ込みであり、後には労働力にならないうちは孤児院に預け、労働力として期待できる年齢になると請け出しに来る、という事例が多発したのだが、草太はそれを了としたようである。その場合には、親元に戻るか、独立するか、誰か別の引き取り手があればそちらに養子に入るかを本人に選ばせた。
育てられるものまで預けている現実を見ても、草太自身の子供時代を思い出すと、孤児院でも良いからきちんと育てる方が良かろうと判断したためもあるのかもしれない。最初は試験的に飛騨一国だけで導入されたのが領内一円に広がり、飛騨でも隣国の信濃から預けに来るものまで出てくるような有様であったとされる。やはり民は苦しかったが、子供はやはり間引きたくはなかったのであろう。
この孤児院は、後には大部分の経費を寄付によって賄うようになっていったが、その出所は不明であった。伝説によれば、全兵衛が寄付して回っていたという事であったが、定かではない。
草太が金沢城に戻って数日後のある日の夕方、草太は平助、弥次郎兵衛、つうを呼んで言った。
「つうを我が側室にする。異存があれば申すが良い」
弥次郎兵衛は思わずつうを見た。つうも初耳だったらしく、耳まで真っ赤になりながら、それでも拒絶はしていないようであった。
「異存の前に御屋形様、側室と何をするのか、ご存じでございますか」
草太は膝枕だ、とは言えずにこういった。
「だから、それを経験するために側室にするのだ」
平助は言った。
「つう殿であれば別段構わぬのではないか。例の計画の筆頭でもあった事だしな」
「例の計画、とはなにか」
草太が聞き出すと、要するに草太に女性を近づけ、子を産ませて次の代を早めに育てようという計画であり、弥次郎兵衛や平助だけではなく一門衆や武将衆の主だった者は大抵一枚かんでいる、というかなり大掛かりなものであった。
「つう殿ならば、御屋形様との仲も上々、年齢も近く、更に外戚となって余計な力を振るう者もいない。ならばこその筆頭でございます」
草太は聞いた。
「念のために聞くが、二番目、三番目の候補は誰だ」
「二番目は内ケ島氏理殿の妹君、三番目は一条家に頼んで公家の娘と考えておりました。また領内の適当な娘を、とも考えておりましたが、中々これが。御用商のとと屋より娘をもらい受ける案もありましたが、すぐに外戚の問題があり断念いたしました。かといって遊女ではならず、また御屋形様のお眼鏡も分からず、中々に難航いたしましてございます」
弥次郎兵衛が白状に及び、しかし、と続けて言った。
「まだ素案の段階でございまして、つう殿を近づけたというのは単に奥向きの仕事以外の仕事が平助に出てきたこと、夜分まで護衛が必要ではなくなったことによるものにございまして、つう殿をどう、と具体的な話は何も出ておりませんでした」
平助が引き取っていった。
「護衛として、剣は誰にも簡単に負けてはなりませぬ。が、富田勢源殿には良いようにあしらわれ、少し剣を練らねばならぬと思い、その時間を捻出するために奥女中のつう殿と側仕えを代わっていただいただけにございます。さすがに座禅だけでは限界があると見えましたからな」
聞けば、富田勢源に直々に小太刀の指導を受けていたということであった。
「小太刀は不可思議な武器でございまして、狭きところでは刀よりも取り回しのきく小太刀の方が向いている、というのも分かります。……それはおくとして、つう殿を側付きにしたのは某が一存。計画とは無関係でございます」
そういえば草太は小姓を置いたことがない、と妙なことを考えながらも、側室の件の是非を聞いたのであった。
「側室の件ならば、つう殿さえ良ければ家中一同、反対するものなどおりますまい」
こうして、つうが側室となることとなった。とはいえ、既に側室と見られていることもあり、それを公けにしただけという見方が大半であった。
そしてその夜、つうの膝枕を思う存分に楽しんだ後、就寝の時間となった。
「祝言さえ挙げてやれぬ。すまんな」
ぼそりと草太はつうに謝った。そして床入りであった。つうは知識だけはあったが、実際にするのは初めてであった。草太は、その知識すらかなり怪しかった。草太は普段通りに床を動かして部屋の隅に寄せようとして、今更襲撃もなかろう、と苦笑してしまった。そして部屋の中央に床を延べて薄絹一枚になったつうが床に入ってきた。そのつうに口づけをし、ぬくもりを感じ、つうの匂いに包まれながら草太はそのまま寝た。
肩透かしを食らった形となったつうは、これは子が生まれるまでは道が長そうだと一人思いながらも、草太を抱きしめてそのぬくもりを確かめながら眠った。
体を重ねるという事を草太が経験したのは、これから更に十日ばかりかかり暦は師走となっていた。その様子を覗くのは、野暮というものであろう。
とにもかくにも、草太は女性を知った。草太は十三才。現代の感覚では早いが、この当時としてはもう元服も済んでいるうえ、年齢としてもそれほど早すぎるほど早い訳でもなかった。つうが懐妊したことが判明するのは翌年の夏頃であり、第一子が生まれたのが秋から冬になるころであるから、この初夜から程なくして懐妊した事となるわけであるが、それはまた項を改めることにしよう。
だが草太は子供を作るために帰還したのではない。多数の問題が山積していた。




