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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百十四、一乗谷城の兵糧攻めの裏で

 越前の大部分を姉小路家、足利将軍家連合軍が掌握した次第については既に述べた。越前で未だ残っているのは、越前南部にある木の芽峠付近の高地の他には一乗谷だけであった。しかし、時はもう神無月から霜月へと移り変わり、これから先は雪の季節が到来することもあり、草太も将軍足利義輝も早期解決を望んでいた。

 姉小路家、足利将軍家連合軍は一乗谷の入り口にある東郷槇山城に入り、物見の兵だけが一乗谷城に張り付く形で一乗谷の動きに対応すべく支度をしていたが、一乗谷は出陣の気配すらなく、一万数千という数の兵が一乗谷城に籠っていると見えた。



 姉小路家日誌天文二十三年霜月五日(1554年11月29日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、後藤帯刀隊と合流致せし事をことのほか喜び、各種報告を受けられたり。また全軍を東郷槇山城に入れ、一乗谷にはただ物見を張りつけたのみなり。一乗谷は動かず、雪の季節となれり」

 北陸は、豪雪地帯である。飛騨も加賀、越中もこの意味では負けてはいないが、本格的な冬季戦については、通常は雪に閉ざされる季節は自然休戦が成り立つ、ということが多い。だが、姉小路家はこの期間を有効に使うことに専念していたとともに、一乗谷城下の保護を考え一乗谷城からの朝倉軍の行動を待っていたとされる。この後も一乗谷は領主が朝倉家から足利将軍家へと変わったにせよ、小京都として発展し続けていたのがその証拠であろう。

 無論、更に豪雪地帯であり山岳地帯である飛騨において鰤街道を維持していた一鍬衆にとって、多少雪質が重くなっていたとしても平地での雪上輸送が容易なものであった事は想像に難くない。東郷槇山城に籠った姉小路家、足利将軍家連合軍は、東郷槇山城で一冬過ごすつもりで兵を動かさず、代わりに越前の内政について、万事姉小路流であったが、整えていたようである。




 顕誓は草太からの手紙を前に、考え込んでいた。手紙の内容は簡単なあいさつの後、越前の講組織を回る僧を派遣してもらいたい、という内容であった。つまりは越前を、今や一向宗加賀派を名乗る顕誓率いる派閥に組み込むようにという要請であった。教え自体は石山本願寺の一向宗とほとんど変わらない。違いがあるとすれば、上下関係の頂点が山田光教寺になったこと、それから領主への反抗を止めることであったが、この教えを説くこと自体は簡単であった。難しいのは、領主への反抗を止めるという一点であった。姉小路家が治める、少なくとも草太が治める限りにおいては、問題はなかった。草太以上に民を大切にする領主を顕誓は知らなかったためだ。だが足利将軍家はどうだろうか。苛性がないと信じる何物も顕誓にはなかった。一応は草太がしばらくは政務に関与するというから、ある程度の保険はあるにせよ、将来にわたってということになると確信が持てなかった。

 この手紙を主だった僧たち、照蓮寺善了、瑞泉寺証心、勝興寺玄宗、安国寺瑞円を招集して諮ると、瑞泉寺証心は言った。

「寺が要りますな。講を取りまとめる、それぞれの講を回るとしても、中核となる寺が。それから、吉崎御坊、あの地を再建してもらいましょう。この二件が成るならば、賛成でございます」

 照蓮寺善了は言った。

「寺、となれば、超越寺が越前の取りまとめを行っていた寺でしたな。他の寺院は朝倉家に排斥され、最後に超越寺が排斥されたのが、大小一揆の始まりだったはず。ならばやはり超越寺は再建してもらいましょう」

 このようなことを言う一同に対し、顕誓は言った。

「いやな、儂自信、行こうと思ってな」

「どこへ、でございますか」

「越前に決まっておろう」

 これには一同は困ってしまった。今、顕誓が居なくなると、大変に困る。だが、言い出したら聞かないだろうというのは重々分かっていた。それでも言った。

「御立場、お分かりでございますか」

 とは照蓮寺善了の発言であった。

「無論、分かっているとも。それでも、儂が居なくても教団は残る。……正しいことをするのにためらってはならぬ。儂自身が行くことが、やはり良いだろうよ。……なに、どうせ姉小路家の護衛もつくだろうから、安全だろうよ。それにわしには子がおらぬ。そうさな、指名せよというのであれば、もしものことがあれば照蓮寺善了、そなたが継げ」

 もっとも、もしものことはないだろうがな、と笑って言った。

 越前の講組織を丹念に一つずつ回った顕誓は、それぞれを一向宗加賀派に組み込んでいき、雪解けを待たずして越前平野の全ての講組織は一向宗加賀派の手に落ちたのであった。

 また、吉崎御坊と超越寺は姉小路家の手により再建され、更に末寺が福井、府中、大野の各地に置かれることも約束され、雪解けを待ってこれらの地にそれぞれの末寺が作られることが決まったのであった。これらの末寺は足利将軍家の寄進によるものとされ、その実姉小路家の手によるものではあったが、住民一同にとっては足利将軍家が直々に建立した寺として尊敬を集めたのであった。



 草太もこの時期、遊んでいたわけではない。一乗谷は封鎖している上、雪が多く兵が出せないのは分かっていたが、それでも土嚢を詰み逆茂木を高く結い、封鎖をより完全に行っていた。正確には、人一人通ることのできる隙間があり、民間人に限り通ることを許可していた。手荷物であれば没収等せぬという布告を出したため、一乗谷城下の民間人で逃げられるものは逃げ、逃げられないものも食料その他の調達に行ったり、中には一乗谷の城下町に行商に行くたくましい行商人さえいた。そういった行商人の一人を、草太が話を聞くと連れてこさせ、話を聞くと、食料よりも薪炭の類が最も不足しているが手荷物では持ち込めないため、専ら食料と酒を持ち込んでいるとのことであった。

 これを聞いて草太は、それは寒かろうと隙間を少し広げさせ、薪炭を姉小路家で用意させて売りに行かせた。この商人は宗太という、読み方が草太と同じであった事も何かの縁であろうと、この薪炭の行商の指揮をさせ、月に二回この薪炭の行商を行うことを条件に草太のお伽衆に加えることとした。給金は出さぬが、姉小路領内では通行料は免除とし、また身分証として草太直々の通行手形を春に渡すことで合意した。とりあえずこの冬は、薪炭の行商に専念させ、それ以外の行商は片手間となったが、そこは宗太のことである、中に入るだけの危険は冒したくない行商仲間を通じての食糧、酒などを日々売り歩きに行っているようであった。


 また、足利将軍家とも今後の朝倉家についての処遇を決定した。将軍足利義輝との数度の協議により決定した結論だけ述べるならば、朝倉家側から降伏の申し入れがあった場合には降伏を認める、ただし一国人として適当な地を、例えば勝山盆地に一郷を用意し、それ以外は領有を認めないことで合意していた。無論、足利将軍家が戦国大名として越前を治めるための策であった。

 同時期に行われていたのは、大量の文官の育成であった。元々文字が読めるものを中心に、越前を治めるに足るだけの文官を育成した。これは、現在は姉小路家がやっている越前の内政を、足利将軍家が自ら行うことができるための下準備ともなっていた。大多数は庄屋たちであり、彼らは朝倉家と一向衆との戦いに嫌気がさしていたため、その両者を排除して平和を取り戻した足利将軍家、ひいては姉小路家をかなり好意的に見ており、全般にかなり協力的であった。

 とはいえ、少数の地侍ともつかない者たちにとっては、武官になれないことを嘆く声があった。石川長高を通じてこのことを相談された草太は、それならば武官にすればよいでしょう、と簡単に言った。

「姉小路家の軍学校に通わせ、その後は将校として任官させる形にすればよいでしょう。本人にその気があれば、ですが。今からなら第三期生の募集に間に合うはずです。あまり多数なら考えますが、十人やその位なら引き受けますよ」

 これは、まだまだ軍を発足させるどころか越前の内政全般もまだまだ姉小路家に頼らざるを得ない足利将軍家にとってはありがたい申し出であった。

「ただし、入学は許可しますが、卒業できるかどうかは本人次第です。第一期生は百人が入学しましたが卒業できたのは二十人に足りません。このことを忘れないでください」

 この時の入学生は八人であったが、七人が卒業したところを見ると相当に全員努力したに違いないがそれはまだ後の話であった。もっとも、もっとも第一期生に比べ第三期生は卒業させることを目的としたものに変わっていたという事情もあったが。この残りの一人は川崎鑰之助という男であり幕臣ではなく剣を志し、後に姉小路家の剣術指南役になるのであるが、今はまだ単に富田勢源の弟子となったと理解するだけでよい。志次第では幕臣以外になることも許された当たり、姉小路家は自由な家風であったし、足利幕府もこの時期は姉小路家の尽力により成り立っていたため、家風はかなり自由であった。


 また、同時期には出入りする行商人に交じって服部保長の手により一乗谷城に籠った国人衆の懐柔も行われていたため、池田隼人、正蓮華景継、堀江景実ら数名の国人衆もこの冬の間に一乗谷から密かに内通の文書を送ってきており、それぞれに本貫のみであったが所領安堵の書状を渡すと約束した密書を送り返していた。


 そして雪も深くなってきた霜月の頃から草太が東郷槇山城でできることはなくなってきた。何より、天神山城より将軍足利義輝が直々に東郷槇山城に入ったため、東郷槇山城の本丸を御所と呼び、二の丸に草太が起居することとなっていた。別段それは問題ではないが、御所に行く人間よりも明らかに二の丸に出入りする人間が多いというのは、異常と言えば異常な光景であった。確かに二の丸には草太の他、実務を司る細川藤孝と三淵藤英がおり、本丸には将軍家の警護を兼ねた石川長高と千秋因幡守が詰めているだけにせよ、であった。霜月二十日(12月14日)、既に雪も深く草太自身のできることもなくなってきていたため、という名目で草太は国元に一度戻ることとした。国元ではすべきことが沢山あるが、報告書だけではなく、本格的な評定を行う必要のあることもいくつかあることもあったうえ、草太は気が付くと数か月間つうの顔を見ていないことに気が付いてしまったからだ。こうなると、何をしていてもつうのことが忘れられなかった。頭の片隅に常につうがいたといっても良かった。

 そして、すぐに将軍足利義輝に拝謁し、一時帰国を願い出て即刻許された。雪深ければさして動きもあるまい、というのがその理由であった。


 一時帰国の期間は雪解けの前まで、即ち如月には戻る必要ががあったが、それはそれとして、草太の一時帰国は認められ、即刻荷物を纏めて諸将のうち渡辺前綱、滝川一益の二人に小野田次郎三郎という軍学校一期生で補給、内政畑の武将候補をつけ、木田八郎というこれも軍学校一期生で一鍬衆畑のものを与力として残し、草太は平助と共に帰国の途に就いた。既に安全であると考えて居たが、馬回り五百は共に戻ることとなり、代わって吉田右衛門というやはり軍学校の一期生で騎兵畑のものを騎兵隊の隊長とした。因みに軍学校一期生はほぼ全員が庄屋や商家の次男、三男であったが、吉田右衛門だけが馬借の息子であった。馬借の息子だから馬の扱いになれていたというだけで騎兵畑に配属するのは、いささか乱暴でもあるのだが、船に酔わないからという理由で矢島玄番を舟手方に配属する位、この時期は判断基準が無いに等しかった。


 こうして草太たちが金沢城に着いたのは霜月二十五日(12月19日)のことであった。

 奥の間に入ると、つうがいた。草太は言った。つうは返した。

「ただいま」

「おかえりなさいませ」

 そういうと、草太の心の中に明るい灯るような、そんな気になった。


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