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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百十三、将軍の出陣


 姉小路家若狭侵攻部隊による越前馬借街道の確保、及び将軍足利義輝の出陣については既に述べた。

 敦賀には徳田小次郎に一鍬衆千を付けて残し、冬の間はないと思うが、木の芽峠越えの敵が侵入した場合に備えさせ、既に全軍が馬借街道を渡り終え、南条郡及び丹生郡の支配を確立させつつあった。そんな折、将軍足利義輝の出陣の報が届いたのであった。


 姉小路家日誌天文二十三年神無月二十日(1554年11月16日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、敦賀よりの急報により将軍足利義輝公の出陣を知り、遂に来らん、と喜びなさり候。その陣容は二千と聞き候が、その中に六角の軍勢無きを知り、安堵致し候」

 興味深いのは、六角家の影響の排除に心を配っている点である。よく言えば足利将軍家を自立させる、悪く言えば足利将軍家を囲い込む態勢を模索していたことがうかがえる、貴重な文献史料であるといえよう。ともあれ、この時の挙兵した軍の大部分は国人衆並びに信濃村上家が戦国大名としての地位を失った後の旧家臣で占められていたと言われている。少なくともこの挙に参加した傭兵団の首領、石川長高を中心に副首領丸山貞政の名がみえることから、北信濃国人衆のうち越後長尾家に頼らなかった者たちが中心となっていたのは、間違いのない事実であろうと思われる。

 もっとも、末端の足軽については記録もなく、畿内や南近江で集められたと考えても強ち間違いとは言えないだろう。

 しかし、彼らが将軍家の挙兵を知ってから人を集めたとしたら間に合わなかった可能性も高く、彼らは当初は傭兵団を作る予定であったが、丁度良く足利将軍家の挙兵を聞きつけてそれに便乗したと考えるのが妥当かもしれない。ただし、彼らの軍規の厳しさ、特に姉小路家と共通の三禁が徹底されていたことを指して、姉小路家との関係を指摘するものもいる。真実は藪の中と言いたいところであるが、先日、沖島文書と呼ばれる初代沖島牛太郎以後の各代の沖島家(正確には代々沖島を名乗っていただけで血縁関係はなかったとされるが)の文書の研究を行っている者から、この傭兵団は草太の差し金であり当初は草太が資金を提供していたという事が分かって注目を浴びたばかりである。

 ともあれ、将軍足利義輝がこの時期に挙兵し、越前入りしたことは、間違いのない事実であろう。




 将軍足利義輝とその率いる兵二千数百が敦賀は金ケ崎城に着いたのは、天文二十三年神無月十九日(1554年11月15日)のことであった。早速使い番が走り、翌日には草太のもとにその報が届いた。霜月まで十日余りあり、意外に行動が早い事を草太は喜んだ。

「遂に来たか。今ならばさして除雪も不要であるが、今一度街道を整備せよ」

 草太は命を発し、そして二千数百という数から草太が沖島牛太郎に用意させた兵から勘案して数百の兵をどこかから都合したものかと考えていた。といって、六角ではありえなかった。六角であれば最低でも数千単位で兵を出すと見込まれるためであった。草太たち姉小路軍の本陣は織田の荘におき、後続の将軍足利義輝隊が追いつくのを待った。


 折よく天候も安定し、翌々日、将軍足利義輝隊は織田の荘に着いた。

「少し早いが、兵も集まったでな。着陣致した」

 将軍足利義輝は機嫌よくそう言い、迎え出た草太をご苦労であるとねぎらった。

「ようこそおいで下さいました。早速ですが、今後のこともあります。軍議を行いましょう」

「うむ。よろしく頼むぞ」

 そう言って本陣の一角として借りている庄屋の屋敷の離れに将軍足利義輝を連れて入った。無論、その後ろには細川藤孝と石川長高が付き従っていた。草太は細川藤孝はよく知っていたが、石川長高は初見であったので、簡単に紹介してもらった。

「北信濃の国人衆でございましたか。なるほど。我らも今甲斐武田と交戦中でございますから、後でお話を聞かせていただきたいものです」

 というと、将軍足利義輝は聞いた。

「なんじゃ、他にも敵対している場所があるのか。どこじゃ」

「東越中は椎名家、これは越後長尾家が介入して情勢は既に落ち着きました。更に、飛騨へ甲斐武田家が侵入したのを撃退したと聞いております」

 将軍足利義輝は驚いたというよりも呆れたように答えた。

「なんともまぁ、忙しないことよ」

「朝倉家は我が隊を襲った隊の他、加賀に侵入した隊がおりましたが、こちらも撃退しております。船戦もございましたので、都合六つの戦が同時に起こっております。なに、東越中の椎名家は越後長尾家が受け持ってくれました故、一つは我らの戦ではございませんでしたし、防衛戦であれば支度も策も巡らせられます故、早々食い破られたりは致しませんよ」

 こうこともなげに言っていたが、その実、草太は弥次郎兵衛から聞かされた今回の戦にかかった戦費を思い出した。特に投げ槍は甲斐武田に対して使った分が水計で流されてしまったこともあり、もう一度同じ規模の軍団が来た場合には多大な被害を強いられる可能性が高い、と聞いていた。また、越前を北から攻めている後藤帯刀隊に対する謎の銃撃についても、被害の大きさもさることながら、その銃撃を行った相手の正体をつかめていないという点で不気味であった。対策としては物見を強化する、位しかないのであるが、物見は後藤帯刀隊も出していたはずであったから、まさに謎であった。また、見張りを付けていたのにもかかわらず全員が火縄の明かりを見逃していたという点も不気味さに拍車をかけていた。

「何となれば一つずつ片付けていけば良いだけの話です。幸いなことに越後長尾家とは何とか良い関係を結べそうです。朝倉家を落とせば加賀が安全になり、戦場が限定できます。残る大敵は甲斐武田、そして浅井、若狭、丹後、丹波の攻略ですか。とにかく、越前の攻略に集中いたしましょう」

 草太はばさり、と絵図を広げた。

「ただ今いる織田の荘はここ、まずはここより三里ほどにある天神山城を目指しましょう。千秋因幡守が兵五百と籠っていると物見の報告がございます。我らと将軍家の兵数を合わせれば七千を越えます」

「そうか、攻め落とすのだな」

 将軍足利義輝は言ったが、草太は首を振った。

「いいえ、まずは包囲し城外退去を条件に降伏勧告しましょう。上手く朝倉本隊が釣り上げられればそのまま一乗谷城まで押し込めますし、退去してもらえるならそのまま北上して九頭竜川までを占拠しましょう。力攻めは退去しないと決まったその後という事で」

 なんじゃ、という顔になった将軍足利義輝であったが、そんな将軍足利義輝に草太は言った。

「城攻めにせよ野戦にせよ、しなくてもよいのであればしないに越したことはありませんよ。戦となればたくさんの人が傷つき死にますが、本来死んで良い人などいないのです。無論、向かってくるなら仕方がありません。容赦はしませんが」


 そして翌払暁に移動を開始し、天神山城を包囲した姉小路軍若狭侵攻部隊であったが、滝川一益が言った。

「あの城は水の手が弱いようですな。そこさえ押さえてしまえば、何とでもなりましょう」

「物見から朝倉本隊が動いたという連絡はあったか」

 草太が聞いたが、全く動きがないようであった。やはりか、と草太は言って、降伏勧告の使者に渡辺前綱を指名した。足利将軍家からは細川藤孝が出て、細川藤孝が正使、渡辺前綱が副使と決まった。

 意外なことに天神山城の返答は、降る、であった。つまり、城外退去ではなく所領を安堵してもらえるのであれば足利幕府の幕臣になる、とのことであった。将軍足利義輝はこれを容れ、所領安堵と共に天神山城と雑兵ではあったが兵五百、そして千秋因幡守という幕臣を手に入れた。


 天神山城降伏の翌日には九頭竜川北部の青蓮華館に陣を張った後藤帯刀隊とも連絡がつき、陸路での補給路も確保することができた。朝倉家の兵は不気味なほどいなかった。後藤帯刀は人心掌握に努めながら、異常なほど濃密な物見を出していた。先日の鉄砲隊が未だ正体不明であるというのも気になったが、草太はおそらく一乗谷城にいるものと考えていた。


 この結果を受けて草太は、越前平野の大部分を占拠すべく行動を開始した。天神山城に将軍足利義輝を入れ、更に荒川市介、黒瀬左近の二将に各五百の兵を付けて村々を占拠させ、自身は一鍬衆五千、中筒隊千、馬回り及び騎馬隊千を率いて渡辺前綱、滝川一益の二将と共に自身は東郷槇山城を包囲した。このとき東郷槇山城には朝倉景紀とその養子の朝倉景光が兵千五百を率いて籠っており、容易には落ちない形をとっていた。この城を抜かれれば、一乗谷城に王手がかかるため、当然であった。また足利将軍家の兵のうち千五百を細川藤孝が指揮して後詰に当たった。


 こうする一方で、草太は同時に一人の使い番を青蓮華館に出していた。相手は後藤帯刀であり、後藤帯刀隊に鰐淵城、藤巻城を落としながら九頭竜川を遡上し、勝山盆地及び大野盆地を制圧、その後羽生川、足羽川沿いに川を下って一乗谷へ入る様に、という命令であった。草太の読みでは、兵はほとんどが一乗谷近辺に集められており、じっと機を待っているように思えた。これは他の諸将も同じように感じていた。むしろ、五百の兵を擁して天神山城に籠っていた千秋因幡守が命令を聞かなかったのでは、と考えていた。この種の国人衆は、利がある方に簡単に寝返るため、飛騨にもいる国人衆は反乱を防ぐべく様々な仕事の手伝い、例えば築城手伝いや街道整備手伝いなどによって賦役を課し、搾り取る形をとっていた。実際にどうなのか本人に確認することはできないが、そう考えなければ天神山城に五百の兵を込めておく理由が分からなかった。

 無論、今回の戦での内応を警戒しているため、天神山城に石川長高と五百の兵を将軍足利義輝の護衛として残していた。


 草太が東郷槇山城を囲んで二日目、鰐淵城及び藤巻城を接収したとの使い番が来、更に三日目には勝山盆地を、その二日後には大野盆地の各城を接収し、人心掌握に努めてると使い番が来た。そして後藤帯刀隊が川沿いに一乗谷へ向けて下ってきたため、東郷槇山城より軍使が来た。城主以下の撤退を許す代わりに開城するというものであった。

 草太はこれを許し、越前の国は一乗谷及び木の芽峠などごく一部の山地を除いて全て足利将軍家の領土となった。即ち、後藤帯刀隊が各所に配した四百を除く一鍬衆二千五百、中筒隊三百五十と合流すると、越前では残るは一乗谷城の攻略だけとなってた。


 だが、一乗谷城は堅城であり、また兵も一万程度まで回復していたため、力押しで落ちるとは思えなかった。しかも草太たち攻撃側は雪の季節に野営する必要がであった。七太郎の天幕があればこそ雪でも野営ができるが、それなしでは東郷槇山城を包囲することも出来なかったであろう。

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