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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百十二、越前侵攻と足利将軍家の始動


 越前への姉小路家の侵攻のうち、北部よりの侵攻と九頭竜川以北の越前平野を掌握した次第については既に述べた。

 さてもう一方の南部からの侵攻、これについては既に敦賀周辺は草太の手により姉小路家の手に落ちたが、南部からの侵攻に際しては、問題が一つあった。それは冬の木の芽峠越えという問題であった。


 姉小路家日誌天文二十三年神無月十七日(1554年11月13日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、敦賀より出撃し馬借街道を確保すべく兵を出し候。雪に阻まれ候へども、(略)無事にこれを確保致し候。公、特に七太郎の功を高く称賛致し候」

 馬借街道というのは、今日の県道206号線とほぼ重なり、木の芽峠越えに比べて難所が少ないという利点がある。この後、将軍足利義輝とその配下の部隊を通さなければならない関係上、難所のより少ない馬借街道が選ばれたのであろうと推察されている。

 奇妙なのは、ここで七太郎の功が称賛されているという点である。七太郎は武将衆でもなく、まして戦いらしい戦いは記録されていないため、功というもの自体が何かも分からない。しかも、このように特に個人名を上げて称賛したという記述は、他には滅多に出てこないのである。

 何かをした、という事は分かるが、七太郎が何をしたのかは正確には分からない。むしろ、七太郎と見られる人物から輪島の衆がこの時期、蒔絵螺鈿の法の教えを受けているとされており、街道確保に直接かかわっておらず、誰か別の人物との混同があるか、あるいは筆写時の誤りであるという可能性が指摘されてる。しかし、その場合には誰と誤認されたのかが分からない。

 ともあれ、冬の馬借街道を越え、確保するために七太郎に何かの功があった事が分かる。そのためか、天文二十四年の夏過ぎには七太郎は堺より九州までの旅を許されたという記述が見える。



 時は五幡水軍を壊滅させ敦賀の津への海上補給路を万全にした直後にさかのぼる。

 天文二十三年神無月十五日(1554年11月11日)に五幡の地で五幡水軍を壊滅させた草太は、海上補給が万全に行われることとなったため、安心して歩を越前へ進めることができるようになった。敦賀から越前平野へ向かう際に、最良の道となるのはいわゆる馬借街道であった。しかし特に神無月も中旬となると雪が降り始める季節に入りかけていた。しかも、今すぐに通るだけではなく、一月ほど先の豪雪の季節の始まる師走の頃には将軍足利義輝の軍を通さなければならない。

 馬借街道は敦賀から北へ海沿いの山道を一日北上した地点から山越えし越前平野の南部につながる街道であり、この街道を抑えれば、さすがに除雪は必要なものの、冬でも通行は可能であった。


 豪雪地帯の街道確保については、鰤街道の街道整備で十分な経験が一鍬衆にあり、街道整備自体にはそこまで不安要素はなかった。問題は、朝倉家の妨害が入ることであり、街道整備にそれなりの人数を必要とするという点にあった。渡辺前綱、滝川一益率いる五幡水軍攻撃隊は、そのまま北上させ、海岸沿いの馬借街道への入り口付近で一泊した。折しも雪が舞い散る夜であったが、七太郎の天幕等が雪でも問題のない宿営を可能にした。

 翌朝、峠を越えようと物見を発したところ、峠には、朝倉景隆率いる兵千が詰めているということであった。ただし、まともな寒中装備は蓑笠草鞋程度であり、仮小屋からは煙が上がっているところを見ると仮小屋で暖を取りながらの防衛体制とみえた。しかしその仮小屋にも限りがあり、大多数の兵は吹きさらしの中、焚火の周りに身を寄せ合うようにして周辺の警戒に当たっていた。

 朝倉景隆隊は、戦う前から既に雪に充分に痛めつけられていたといっても過言ではなかった。


 この様子を見て渡辺前綱と滝川一益は夜襲を行うことを決めた。といっても、単に打撃を与えるだけで、本格的に攻略するつもりはなかった。どちらかといえば、嫌がらせの類であった。その夜、夜陰に乗じて油紙の火覆いを付けた中筒隊を接近させ、焚火、篝火の付近に一撃を打ち込み、離脱した。



 一方の朝倉景隆隊は、夜の寒さの中、雪に埋もれつつ警戒をしていたが、見張りも寒さのために等閑となり、篝火に当たっている始末であった。そのため、ほんのわずかな光を放っていたはずの油紙の火覆いに覆われた火縄の明かりは見えず、ただ一方的に焚火に当たっていた兵、見張りの兵に三百程度という大きな打撃を受けることになった。朝倉景隆は稜線の東側の仮小屋にいたため無事であった。焚火の周りの兵ばかり銃撃されていることから、敵が焚火を目当てに銃撃していることを知り、稜線の西側の兵に焚火の使用を禁じ、また見張りも篝火から離し、火縄の火を見落とさないように命じたのであった。同時に無事だった大部分の兵は稜線の東側に移し、稜線の西側には兵百が仮小屋の中に身を寄せ合ってその夜を過ごすだけであった。

 しかし、これによって兵は寒さの中互いに身を寄せ合う以外に暖を取る法もなく、手足は悴んで槍もろくに持てないような状況に陥った。


 そして、翌朝、渡辺前綱、滝川一益率いる一鍬衆四千及び中筒隊千は朝日の下にはい出てきた敵兵を文字通り駆逐した。まず中筒隊が一撃を加え、更に一鍬衆が殺到し、手足が悴んでろくに動けない兵たちを圧倒し、朝倉景隆はなすすべもなく敗退した。


 その夜、馬借街道の峠道を越えて丘陵地で本隊と合流した渡辺前綱、滝川一益らと対面した草太は、ほとんど被害らしいもなく峠に陣取った敵部隊を撃退した今回の戦についての戦訓を尋ねた。

「今回の戦でございますが、やはり防寒具の有無が勝敗を分けたといっても過言ではございませぬ」

と滝川一益が言えば、渡辺前綱も言った。

「敵は碌に防寒具もなく、手足も悴んで特に動きが鈍うございました。戦いは非常に楽であったかと」

 そうか、と草太は言い、

「ならば七太郎の防寒具に感謝せねばな」

 と言ったが、もう一つ、とばかりに滝川一益が懐から首から下げるように紐がつけられた一つの布包みを取り出した。

「先の補給の際に、冬の戦ならばこれを、と七太郎から渡されましてな。全兵衛辺りに頼んで集めさせたのでしょうが」

 草太にはそれが何かは分からなかった。手に取ると中に石が入っており、ほのかに暖かかった。

「御屋形様はご存じないかもしれませんが、温石おんじゃくと言いまして、寒き時にそれを熱してこのような袋に入れて懐に入れると、体中に暖かさが広がるのでございますよ。防寒具があっても、やはり冬の山で戦うのであれば、一つでもこういったものが多いのに越したことはありませんからな」

 意外に気が利くやつですな、と滝川一益が褒めていった。それを聞いて草太が言った。

「防寒具といい、今回の温石のことといい、七太郎の働き、まことに見事である。……やはり褒美は九州行きを許すくらいしかなさそうだな」

「御意」

 滝川一益が苦笑しながら言った。嫁と二人、行かせるのも悪くはありますまい、と渡辺前綱も同意した。




 さて、ところ変わって同じころ、近江朽木谷御所の将軍足利義輝は兵を集め、また兵糧その他の援助を頼むため、付近の地侍に声をかけさせていた。意識的に六角家は避けさせたが、これはこれ以上の借りを作ってはその後の越前国の経営に支障が出るという判断からであった。

 三淵藤英、細川藤孝、和田惟政らが足を運び、数十人単位で集めていくが、いかんせん数が集まらなかった。少なくとも二千、と考えていたため、埒が明かぬと細川藤孝は考えていた。

 そのような細川藤孝のもとに、一人の男が連絡を取ってきた。沖島牛太郎であった。細川藤孝は草太からその名を聞いていた。その誘いに細川藤孝は興味を持ち、即座に会おうと待ち合わせとして指定された高島の街の宿に行った。

 宿で名乗ると、通されたのは奥の離れであった。離れに入ると、床の間の前が開けてありそれに相対する形で中年の男が一人座っていた。この男こそが沖島牛太郎であろうと直感した細川藤孝は、草太が後から来るのであろうと推察して床の間を右に座ろうとすると、沖島牛太郎は言った。

「上座へお座り下され。今宵は他には誰も参りませぬ故」

 そうして平伏して動かなかった。仕方なしに上座へ、床の間を背に座り、取次もなき故直答を許す、面を上げよ、と言った。

 沖島牛太郎は面を上げ、そして言った。

「手前、沖島牛太郎と申し、琵琶湖周辺の人足、水夫の元締めをやらせてもらっております。本日は商談に参りました。何やら、将軍様は兵がご入用だとか」

 今更隠すこともなかろうと、細川藤孝は確かに集めておるが、と言った。すると沖島牛太郎は続けて言った。

「我らから兵を買いませんか。いわゆる傭兵ですが」

 それを聞いて、苦笑しながら細川藤孝は言った。

「残念だが、先立つものは何もない」

「いえ、後金で、というよりもお代は結構ですので」

 どういうわけだ、と細川藤孝が尋ねると、実は、と沖島牛太郎は答えた。

「土地を失った地侍崩れが、幕臣になりたがっているのを纏めて面倒を見てもらいたい、というだけの話でございまして。ただ今は手前どもに仲介を頼んでおります。その数、それらの配下を含めれば千八百程でございます」

 千八百の兵が、とふと考えた。

「統率は取れておるのか」

「今のところは某が食を給しております故。なに、ほんの一月前までは用心棒として働いていたものも少なくありません。それが幕臣になりたいといってきておりますので」

 ふと、足利将軍家というのがそれほどの威光を未だに持っているのか、疑問に思いながらも、それでも信じざるを得なかった。千八百という兵士数。それだけあれば出陣の格好がついた。

「腹を割って本当のことを言え。それは誰ぞの策か」

 沖島牛太郎はこともなげに言った。

「実は、ほとんどが食い詰め者でございまして、こちらでも持て余している者がほとんどでございます。なにしろ用心棒になりたがる人間は多かれども、用心棒が必要な口は少のうございましてな。大抵は決まったものを用心棒として雇います故、地侍崩れが新たに用心棒としてやっていくのは、ちと難しきことにございます。といって頼られたものを断るのもならず、うちと、今日は来ておりませんが畿内を仕切る城井弥太郎という男が、借金の棒引きと引き換えに集めましてございます。置いておいても借金が増えるだけにございますから、幕臣となることができるのであればそれに越したことはないのでございますよ」

 このとき、沖島牛太郎は草太の策だとは絶対に言わぬよう、くぎを刺されていた。であるから、半分くらいは本当であったが、幕臣になりたい云々は嘘であった。ただ、彼らは食い詰めていた。それの面倒を見ていた。それだけであった。本当に地侍崩れかどうかはわからなかったが、大部分は貧民街で、武士になりたいもの、といって集めてきただけの存在であった。古い胴丸を付けさせ、素槍を持たせ、頭だったものに太刀を佩かせると、中々に立派な兵になった。

 細川藤孝は少し考えたのち、分かった、とこの兵を受け入れることに決めた。いずれにしろ、ただでこれだけの兵が手に入る、という機会はないだろう。あるとすれば六角家辺りから借りるくらいしか思いつかなかった。

 それでは翌日にも朽木谷御所前に彼らを向かわせますので、よろしくお願いいたします、と言って商談は終わりになった。


 果たして翌日夕方、千八百の兵が朽木谷御所の前に整列していた。主将は石川長高という男であった。

「元信濃国人、村上義清が家臣、石川長高にございます。縁あって義により、我ら足利将軍家の幕臣となり申すべく推参仕りました」

 将軍足利義輝は満足げに頷き、越前を取ったら恩に報いようと約束した。


 そして翌日、二千を超えるまでになった義勇兵を率いて、将軍足利義輝は自ら出陣した。副将は細川藤孝、石川長高の両名であり、目指すは越前であった。

 時に天文二十三年神無月十七日(1554年11月13日)のことであった。

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