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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百十、越前侵攻の準備

 姉小路水軍は商船隊を守りぬき、姉小路家若狭侵攻部隊に補給することに成功した次第については既に述べた。


 姉小路家日誌天文二十三年神無月十日(1554年11月6日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、九鬼嘉隆の働きを特に褒めて褒美に金十枚を渡されたり。また舟手方には特に臨時の褒賞を与えたり。さてその後軍議仕り、九鬼嘉隆献策して曰く、根拠地を陸より叩くべし、我ら沖にて逃げるものを捕らえん、と。公、ならばそうすべしと決し候」

 この当時の和船はほぼ全て地乗り航法であり、また根拠地を攻略して水軍を壊滅させるというのは日露戦争でも見られた光景である。そのため、この九鬼嘉隆の献策は理にかなっているし、その献策を快く受け入れた草太も褒めるべきであり、責められるべきではないといえよう。



 姉小路家若狭侵攻部隊は、補給を受けて活力を取り戻していた。無論、一部は木下藤吉郎の若狭三方郡残置部隊に送ったが、特に弾薬及び投げ槍の補給ができたのは大きかった。これらは現在の姉小路家の勝利の原動力ともいえる兵器であるが、どちらも使うとなくなる性質のものであるため、補給が困難な状況においては戦に不安材料を抱え込むことになった。逆にいえば、補給が困難になる状況では積極的には戦えない、という事でもあった。また、中筒の交換部品や火縄を補給できたのも大きかった。

 したがって今後越前に侵攻、突破して加賀姉小路領に戻るには、今後も継続して補給が続くことが大前提であった。今回は百余名の兵の損害で済んだが、何かの偶然により補給の為の船が攻撃された場合、船主が船を貸さなくなるという事態も当然にして考えられた。したがって補給路の確保という意味での朝倉家水軍対策は急務となってた。


 天文二十三年神無月十日(1554年11月6日)、九鬼嘉隆が到着した日の夜、金ケ崎城にいる諸将を集めて朝倉家水軍、いわゆる五幡水軍対策の軍議が行われた。

「軍議を行う」

 草太が宣言して軍議が始まった。

「軍議の前に、これを」

 九鬼嘉隆が言って一棹の長持と一通の書状を渡した。草太はその書状を受け取り、長持は後で、とまずは書状に目を通した。長持の中の報告書等の目録であった。その項目だけを拾えば次のようなものであった。

 一、飛騨吉城郡合戦次第

 一、加賀大聖寺城前合戦次第

 一、椎名家侵攻に対する合戦次第、越後長尾家との交渉次第及び建白書

 一、領内各地の治安維持に関する報告書並びに建白書

 無論、報告者名、日時、簡単な内容がそれぞれについてつけられていた。ただ、この目録を見て、草太は何が起こっているのかの全貌がある程度大掴みに掴むことができた。やはり下読みの制度は有効だな、と認識しながら、最優先で処理すべき問題であるという認識は持った。つまりは、多方面から同時に歩調を合わせるように姉小路家を攻撃してきている、という事であった。どこも戦場では撃退できていたものの、これらの報告書が示すものは少なくとも四つの戦国大名と石山本願寺が同時に姉小路家を攻撃している、という事実であった。

 裏で糸を引いている者がいる、国力からして石山本願寺、甲斐武田家又は朝倉家が最有力であったが、それ以外ということも当然考えられた。


 一読して全員に簡単に内容を報告し、更に九鬼嘉隆に補足させて共有した後、草太は言った。

「分かっただろうが、姉小路家と隣接する戦国大名、それが複数歩調を合わせて姉小路家を攻撃している。攻撃してきていないのは南の美濃斎藤家だけだ。後は全て敵に回ったと思え。もっとも、東越中の椎名家は既に打倒されつつあり、新たな隣国となった越後長尾家とは協調路線を取ることが今のところは出来ているがな」

 一同、気を引き締めて事に当たる様に、というと、黒瀬左近が言った。

「差し出がましいようですが、御屋形様、一度本国に戻ってはいかがでしょうか。この金ケ崎城で敵を防ぐのは、先の痛手もあって朝倉、浅井両家の力が落ちている現在であればさして難事ではございませぬ」

 これに対して草太は言った。

「いや、逆だな。将を増員して越前を南北から攻める、これが常道であろう。この敵中の飛び地に身を置くというのは、やはり士気の面からも重要だろうよ。逃げられるようになったら真先に逃げる、そのような大将を、兵はどう思うかな」

 これには黒瀬左近も納得せざるを得なかった。差出た口を、と言った黒瀬左近に草太は言った。

「よい、軍議の場では身分に上下はない。思うことを遠慮なく申すように。……無論、その発言には責任が伴うべきだがな」


 そして軍議が始まった。草太が言った。

「まずは補給路の確保、即ち朝倉水軍である五幡水軍の完全な排除が必要だ。補給が困難になれば、我らは立ち枯れることになりかねない。何か策はないか」

 これに九鬼嘉隆が答えた。

「五幡水軍の根拠地は五幡、ここより一里ほど北にあり、ここを陸上から攻撃し、更に水軍にて海に逃げる敵船を撃破、鹵獲すればよいでしょう。どうやら彼らは急ごしらえの素人で船も民間船を購入し矢盾を巡らしただけのもの、潮目も分からぬ様子なれば、何とでもなりましょう」

 ふむ、と草太が言い、兵はどの程度いるか、と問うたところ、服部保長が物見の報告ですが、と抜かりなく調べていた。

「付近の敵兵の状況は、まず北へ海岸沿いに一里半ほど進んだところにある五幡、ここが水軍の根拠地のようです。兵は五百足らず、刻限からすると水軍が出撃中であったため、おそらく守備隊だけでございましょう。更に南に二里ほどの地、西近江街道の要所、五位川の西岸にある疋檀城に疋田景継が三百の兵で籠っております。ここを抑えれば敦賀の街は随分と安全になるかと。狭き盆地の北に位置する丘に築かれた城故、迎撃することを前提に二千も込めれば浅井家の兵五千やそこらは問題なく撃退できるかと愚考致します」

 確かに補給路の確保は大事ではあるが、それと同時に敦賀の街の防衛も重要な意味を持っていた。水上で補給物資を持ってきたとしてもそれを陸揚げする港がなければ話にならないという以上に、草太が民を戦に巻き込むことを極度に嫌っていたためであった。


 軍議の結果、南方の疋壇城は渡辺前綱に三林善四郎を与力に付け、一鍬衆二千をもって攻めさせそのまま三林善四郎を守将として入れることとした。その間に九鬼嘉隆に一度加賀に戻らせ、安宅船も含めて兵の補充を命じた。これは疋壇城に一鍬衆二千を割くと残りは五千程度でしかなく、今後の戦闘を考えた場合には不安が残るためであった。戦闘を考えずに船酔いをする兵まで満載した場合には、四千五百の兵を運ぶことができた。とはいえ、空船で行くわけにもいかないから、増派される兵は最大でも三千程度でしかなかったが。



 もう一つ、と渡辺前綱が言った。

「どうも忘れ去られているようですが、先の戦で捕らえた浅井家の重臣、磯野員昌はどういたしましょうか。尋問も終わりましたが」

 草太はその存在を完全に忘れていた。引見すらしていない。ただ捕らえたという報告は確かに受けた記憶があった。

「済まぬ、忘れておった。そうだな、一度も顔を見ぬというのも問題だな。会おう」


 軍議が終了した直後、すぐさま磯野員昌の引見を行うために捕らえてある部屋に入った。捕虜といえども将であるため、それなりの待遇で遇していたとはいえ、板の間に軟禁、という程度であった。無論食事は兵と同じものを給していた。見張りにご苦労といい中に入ると、流石に剃刀はその都度貸していたのであろう、ひげも月代もきちんと剃られており、この着物もこちらが与えたのであろう、平助の平服とさして違わない、上質とは言えないものの質が悪い訳ではない麻の着物を着て威儀を正して磯野員昌は座っていた。

 一目見てひとかどの人物と見た草太は、磯野員昌を勧誘したが、にべもなくはねつけられた。

「浅井家の臣であり、そのことを誇りに思っている。佐和山城周辺に領土もある。それらを捨てて姉小路家に仕えることなど、出来ぬ」

 この物言いに、草太は勧誘の無理を悟り、ならば解放する故、領国に帰るが良い、とその場で解放を決め、更に路銀だと言って銭百文を押し付けて金ケ崎城からすぐに出した。

 解放の時には既に疋壇城攻略部隊は出発していた。


 渡辺前綱は軍議が終わると同時に兵を出し、その日のうちに疋壇城を包囲し降伏勧告を行い、城主以下の場外退去を条件に降伏させた。聞けば兵はほとんどが近在の農民という事であったため帰農させ、城主疋田景継およびその一族郎党のみを渡辺前綱とその手のもの五十が敦賀に戻る際に連れて戻り、敦賀で解放した。



 さて、九鬼嘉隆が一度戻り、新兵を含む一鍬衆二千を連れてきたのは神無月十四日(11月10日)のことであった。この他に姉小路家水軍三千が敦賀の津に集っており、出撃の時を待っていた。最新の物見の報告では、五幡水軍は千八百ほどが五幡の地におり、ただしこの中には舟手方も含む、とされていた。この四日間を無為に使っていた草太ではなかった。録太郎を通じて奈佐日本介に一言詫び状を送っていた。その詫び状には、最近の敦賀湾での船戦など静謐を破ったことを詫びた後、近日中に朝倉家水軍を覆滅した後再び静謐を取り戻す予定であることが書かれていた。

 姉小路家の実力からすれば、奈佐家から縄張りを奪ってもおかしくはないが、草太はまだそこまでの実力が姉小路家水軍にはないことも知っていた。何しろ、地乗り航法が主だといっても金沢から渤海まで地乗り航法ではなく沖乗り航法を既に使っているのを見ているため、地乗り航法の水路を抑えられるからといって縄張りを主張すると、渤海までの広大な海域を管理する必要が出てくる可能性があるためであった。

 返書は丁度九鬼嘉隆が戻ってくるのと前後して受け取った。野卑な文章ではあったが、縄張りを荒らさないのであれば問題はない、という程の意味のことが書かれていた。つまり、敦賀の津から越前沖を通る船からのみかじめ料を課したり無差別な海賊行為を行わないならば、奈佐家は関与しない、という事であった。



 神無月十五日(11月11日)払暁、秋晴れの空の下、草太は九鬼嘉隆に五幡沖に船を出撃させ、一刻遅れて渡辺前綱を主将、副将として滝川一益、与力として荒川市介、黒瀬左近とする一鍬衆三千、中筒隊千を出発させた。草太自身は後詰として臨戦態勢で待機することとした。兵のわりに将が多いのは、与力とした将にも経験を積ませるためであった。

 この辺りから、草太も将を育てるということを意識し始めていた。


 戦いはかなり一方的に終わった。夜明けからさほど時間もたたず朝餉の用意をしていた五幡の陣にまずは中筒隊が千の兵で鉄砲を撃ち、驚き慌てている朝倉景鏡隊に一鍬衆が突入し、ほとんどの軍船は舟も出せずに鹵獲することができた。朝倉景鏡自身は取り逃がしたものの、ほぼ手向かいするものもおらず、出航できた二艘を除いてほぼ全員を捕虜とした。聞けばほとんどが脇差一本持たない船の漕ぎ手であり、近隣の漁村から無理やりに集められていたものであった。

 出航できた二艘も、すぐに九鬼嘉隆配下の水軍が接舷し、降伏させた。

 舟はとりあえず敦賀の津まで運ばせ、矢盾などを外して民間船と戻した後、適当な金額で払い下げるか、姉小路家の海上補給のために使う事とされた。水夫となっていた近隣の漁民は、この敦賀の津でいくばくかの銭を渡して解放し、ここに朝倉家水軍はほとんど何の戦果もないまま壊滅したのであった。


 こうして、補給に不安要素がなくなった姉小路家は、越前攻略を本格的に行うべく行動を開始したのであった。

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