表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
112/291

百九、海上補給作戦


 草太が朝倉、浅井両家を攻撃する名分を手に入れた次第については既に述べ、この外交により、敦賀の津への進出が多少遅れた次第については既に述べた。


 既に述べたように姉小路家日誌天文二十三年神無月六日(1554年11月2日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、国吉城を出発し敦賀の津を制圧致し候。また金ケ崎城を攻め落とし候故、水軍による補給之有」

 これが神無月五日までに行われたと推定される、という点についても、既に述べたとおりである。



 神無月六日(11月2日)払暁、姉小路軍は遂に国吉城を発し、丹後街道を通って敦賀に入った。目指すは金ケ崎城であり、ここを抑えれば敦賀の津を使っての海上補給が可能になると目されていた。草太率いる姉小路軍は整然と進み金ヶ崎城を囲んだ。軍規の厳しい姉小路軍であり、敦賀の街を通ったからといって乱暴狼藉をするものなど一人もいなかった。ただ整然と敦賀の街を通り過ぎ、金ケ崎城を包囲し、降伏勧告を行った。

 金ケ崎城の守将は朝倉景紀であったがまだ加賀攻めから帰国せず、嫡男朝倉景光が代わって守備をしていた。だが朝倉景光は先の大敗戦を知っており、姉小路軍を金ヶ崎城で迎え撃ったとしても到底撃退は出来ない上、朝倉家本隊の救援も望めなかった。その為、降伏勧告を受け入れ城兵以下の撤退を条件に開城することとなり、朝倉景光及び兵八百は一乗谷城へ向けて落ちていった。そして金ヶ崎城に入った草太は船便にて使いを出した。

 だが、この時の姉小路軍も、物資がかなり危険な水準にまで落ち込んでいた。特に投げ槍については、回収して再度使えるとはいえ、やはり全てが回収できるわけでもなく、また回収できたからといって使えない状態になっている物も少なくはかった。また鉄砲も弾や火薬が底をつき始めていた。もう一度、朝倉家との決戦があれば確実に底をつくだろう、とは滝川一益の報告であった。無論、弾も火薬も堺の商人から買うこともできないではなかったが、それは非常手段として取っておくことにした。その情報が洩れれば、姉小路軍の強みである鉄砲の存在、その弾が残り少ないと相手に教えているようなものであるためであった。

 兵糧も心許なかったが、こちらは国吉城落城時に接収した分があるため、まだしばらくは何とかなりそうであった。

 だが、やはりどうしても補給が必要であった。陸路は不可能であるが、海上輸送であれば、金沢の津から敦賀の津まで輸送すれば何とかなる、そのはずであった。


 翌神無月七日(11月3日)、草太が無事であり金ケ崎城にいる、という報が金沢城に入ると、一同大いに喜ぶとともに、九鬼嘉隆はすぐさま兵の編成を命じた。副官は矢島玄番という、士官学校の一期生であった。士官学校では陸戦のことは習ったが船戦ふないくさについては全く知らないといい、単に船に一番強かったからという理由だけで舟手方に配属された男であった。聞けば両親は畑を耕しつつ渡し船の船頭もやっていたという事であり、川船はお手の物であったが海となると潮の流れの読み方から教えなければならなかった。それでも勘が良いのか、毎日船に載せているのが良いのか、最近は何とか形になってきた。録太郎が、その内に陸で酔うようになるぞ、とからかう程であったが、それでも本人は必死で喰らいついていった。

 そんな中でこの一報であった。

 すぐにでも物資を積み込んだ船団を編成し、物資を輸送しなければならなかった。だが、中途で朝倉家水軍の妨害が予想された。矢島玄番は陸戦はともかく、船戦は初めての経験であった。九鬼嘉隆も久々の実戦であった。録太郎は非戦闘員であり、奈佐家からのいわば借り物であるため、戦闘には出すなどという危険に晒すことはできなかった。その為、物資を満載した傭船の一団を指揮することとなった。


 一方の朝倉家水軍、根拠地が敦賀湾中部の五幡にあったために五幡水軍ともよばれたが、まだ関船が数隻と小早船多数で成り立っており、大型の安宅船はなしという編成であった。とはいえ新造船はなく、中古商船に矢盾を巡らせた程度の、元々は軍船いくさぶねではないものがほとんどであった。朝倉景鏡が将とされていたが、船戦は全く仕方を知らず、壇ノ浦の戦いなどを軍記物で読んだ程度であった。潮目が大事というのは何となくわかったが、朝倉景鏡に潮目を見る目はなく、また元来それほど船に強い訳でもないため、関船で半日も乗るていどでも船酔いになりまともに動くことも難しかった。水夫は近隣の漁民であり船には酔わず潮目も読めるものの、弓どころか刀も振るったことはほとんどないものが多かった。それでも素人であっても一向一揆との戦闘を行い続けた国柄もあり、全員陸戦ではあるが初陣は済ませてるものばかりであったが。

 要するに、まるで使い物にならない水軍であったが数だけはそれなりに揃えただけ、というものであった。


 だが、金ケ崎城を占領され敦賀の津が占拠されると、五幡水軍が俄然、重要度を増した。敦賀の津を使った海上補給を許さなければ、姉小路軍を立ち枯れにすることも可能であるためであった。しかも、水軍においては姉小路軍の方に一日の長があるとはいえ、敦賀湾において、商船隊だけを襲撃するのであれば、現在の五幡水軍でも用が足りた。おそらく傭船であろうと思われる商船隊を襲うのは気が引けたが、朝倉景鏡はこれも戦であると割り切ることにした。



 ところで、ここで和船というものについて、少し解説をしなければならない。

 戦国時代、船は大きく軍船と民間船の二つに分けられるが、基本的には外洋を航行することは想定されておらず、沿岸沿いを航行する地乗り航法が発達している。外洋を渡るのに適した外航船の技術も、例えば遣唐使船のようにないではなかったが、国内での物資の輸送という役割が大きい日本の海運事情からこのような船が要請され、明治期に至るまでこのような地乗り航法に適した船が多数建造されていたのである。これは全ての船に当てはまることであり、軍船も民間船も、外見上の違いはあるが、構造上の違いは非常に少なかったといえる。

 西洋船の技術もこの時期に入ってきてはいるものの、外洋を航行する必要のない日本国内の海運事情では、特に開発が要請されなかった、という事情がある。日本における戦国時代が終わり、外国との交易が盛んにおこなわれるようになっても、国内での海運という需要はやはり圧倒的に大きく、和船は和船としての技術的な進歩を進めていったのである。

 これが明治期に一変するのは、蒸気機関を用いての高速な外洋航行が可能になったためである。

 とりあえず、ここで抑えておいてほしいのは、軍船も民間船も、構造上の違いはほとんどなかった、という点である。ほとんど、というからには違いがある。それは大きく分けて三つある。

 第一に、外見上の問題にもなるが、軍船には乗員を守る盾が四方に巡らされていることである。重心が船の上部に来るため、船の底に重石を置いているのが普通である。また乗り移り攻撃するという戦術をとるために、鉤が付いている例が多い。

 二番目として、軍船は商用の民間船に比べて多くの櫂が設置されており、速度が速かったことである。草太がかつて早船に乗って敦賀から尾山御坊までを半日足らずで移動したが、この早船と同じくらいの速度を出すことができるのが通常の軍船である。例外としては、大型の安宅船であるとされる鉄甲船などがあるが、このような船が本当にあったのかどうかすら定かではない。記録を忠実に再現すると、自走できずに曳航してもらい、更に止まることも曲がることもできないで直進し続けるため、常に数隻の関船などで曳航する必要があったためである。おそらくはかなり誇張した大きさで記録がなされたのであろうと思われる。

 三番目としては、水密区画が細かく存在している点である。このため一旦船殻の一部に穴が開いても、すぐにその区画だけを閉鎖すれば航行が可能であったとされる。民間船でも水密区画は存在しているが、かなり大きな割り方になっているため、暗礁などで一か所が大きく損壊しても航行不能まではいかないものの、かなり危険な状況に陥る可能性は高い。

 現存している和船の最古の設計図と言われる七尾丸は関船に相当するが、全長50メートル程、全幅25メートル程で300程の水密区画を持っていたとされる。更に、櫂は片側50丁、2丁の舵を有し、四方を板で囲う押し廻し造りと呼ばれる構造になっている。前後に櫓があり、まさに「浮かべる城」であった。ただし火力は相変わらず弓、鉄砲の類であり、あるいは接近、接舷しての乗り込み、斬り込みが主であったとされる。ただし、文献によっては七太郎の棒火矢のような、大砲を用いない大火力を使ってると思われる記述もあり注意が必要である。

 また、後には大砲を搭載した砲艦も登場している。ただし、砲艦については和船ではなく西洋船の流れをくむ外洋船に積まれることが多かったようである。これは、国内は静謐を取り戻した後に外洋に出る際に積まれたためであると分析されている。

 後の話は別としても、民間船転用の軍船よりも最初から軍船として建造された軍船は速く、そして頑丈に作られていたことは明白である。



 九鬼嘉隆率いる姉小路水軍は傭船である商船隊を両脇に挟むように二隊に分け、おそらく敵が潜んでいるであろう越前側、つまり東側を九鬼嘉隆が、西側を矢島玄番が担当し、商船隊の速度に合わせて南下を始めた。出航前の軍議では、この商船隊を無事に敦賀の津に送り込むことができれば勝利であり、戦術的に勝利しても商船隊に被害が及んだ場合には戦略的には敗北である、という事を改めて確認した九鬼嘉隆、矢島玄番の両名であった。船団は安宅船は商船隊と速度を合わせるのが難しいため金沢の津に残し、関船を先頭に二列縦隊を九鬼隊、矢島隊それぞれが作り、その間を三列縦隊を組んだ商船隊が進んだ。兵士数は二千五百名であった。

 敵船団が発見された場合には、発見した側の外側の船団が攻撃に移り、内側の船団がその側の、逆側の船団が前後の防衛に当たる、と定められた。

「両側から来たらどうしますか」

 矢島玄番は心配そうに尋ねた。

「そん時は、両側とも防衛に徹しろ。俺たちの今回の役割は敵船団を倒すことではなく商船隊を守ることだ。それを忘れるな」

 九鬼嘉隆はそういうと、ポンと肩を叩いて

「肩に力を入れすぎるな。訓練通りやれば必ず勝てる。そういう風に訓練したのだからな。ただ、守れ」

 そういうと出港準備を終えた船から順に出港させ、金沢沖で船団を組ませ、南下を開始したのであった。


「敵船団発見、整然と隊列を組み航行している様子とのことです」

 報告が朝倉景鏡の下に飛び込んできた。五幡水軍に出動を命じ、自らも関船の一艘に乗り込み、出撃した。だが姉小路水軍は商船隊と合わせているとはいえそれなりの速度であり、出撃した時には姉小路水軍は既に五幡を越えていた。だが、これが逆に良かったかもしれなかった。五幡水軍は姉小路水軍の横腹を突くような格好となった。


 五幡水軍出撃とほぼ同時に、九鬼嘉隆にも敵発見の報告がなされた。左わき腹を突くように進軍してくるというその報告に、かなりの戦巧者かと考えつつ、事前の取り決め通り九鬼側左列が舵を切り単横陣となって五幡水軍を包み込むように、と黄旗を上げさせた。これは船団は左に回頭し単横陣を作れ、という意味であった。同時に矢島隊の前半は速度を上げて商船隊の前に、後半は速度を落として後ろに付いた。


 急ごしらえではあったが、五幡水軍は水軍でありその船は軍船であった。矢盾は姉小路水軍の弓を防ぎ、弓はほとんど効果がなかった。そのため、九鬼嘉隆は青旗を上げさせた。接近し、接舷の上斬り込め、という命令であった。多数の関船が、小早船が、敵船に接舷し乗り込み、中の乗組員を撃破し無力化させていった。乗り込む兵は一鍬衆のうち船に酔わないものであるから、平時は一鍬衆と同様に小太刀を富田勢源およびその弟子たちから習い覚えていた。一方の五幡水軍は船は矢を防いだとはいえ、乗組員は所詮は近所の漁民に過ぎず、次々に撃破されていった。水夫のみは助けられたのであろう、陸に向かって進み始めた。無論、関船や小早船が接舷し乗り込んで出てくると数名が手傷を追い、あるいは欠けていた。

 だが、戦闘の趨勢は既に決した。姉小路水軍は五幡水軍を商船隊に近付けもせずに撃破し、全ての商船が敦賀の津に入ったのを見届け、九鬼嘉隆は関船を敦賀の津に入れた。


 戦後、人員点呼をすると、二千五百名のうち手傷を負い戦列に復帰できぬもの及び戦死者は百余名であった。といっても、実際に戦闘に参加したものは六百名余りだから、戦闘に参加したものの実に六人に一人が失われたこととなった。報告を聞き、やはり接近戦は被害が大きい、と再認識した草太であった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ