百七、越後の龍
遂に越後の龍が動いた。
瞬く間に越中の東から、既に魚津城を陥落させたが、予想以上に敵の反撃が弱いことを不審に思い、更に軍が松倉城に集結中との物見の報告に、上杉謙信は椎名康胤の西越中侵攻と逆襲を見抜き、物見を姉小路軍へ発した次第については既に述べた。
また、神通川流域で姉小路軍は椎名軍を防ぎ、反撃を始めた次第についても述べた。
姉小路家日誌天文二十三年神無月五日(1554年11月1日)の項にこうある。
「小島職鎮、寺島職定、内ケ島氏理殿、仏生寺城にて軍議仕り候。三隊とも大きな被害之無候事を確認したのち、越後長尾家への対応を協議す。軍使として小島職鎮、副使として内ケ島氏理が仕り、白岩川を国境とすべく、ただし条件次第では神通川まで戻るも可也、と相定め候」
ここで注目されるのは、草太が不在であっても外交交渉を事実上行っていた、という事実である。ただし、このような例は戦時に他国との交渉をしなければ合戦となる場合にのみ限られ、あまり積極的に行われていたとはいえなかった。対外的な交渉は、基本的には草太の裁可が必要、というのが姉小路家の大原則であり、今回のような場合は例外といえる。
「軍議を始める」
そう言ったのは、小島職鎮であった。小島職鎮、内ケ島氏理が前日に、神無月五日(11月1日)の夕方になって仏生寺城に入ったため、この日軍議となった。
軍議の前に、と内ケ島氏理が頭を下げた。
「手前、出過ぎた真似をして申し訳ございませぬ。ただ、越後長尾家が魚津城を攻めているとの報に、前進せねばなるまいと考えたのみにて」
小島職鎮は、お手をあげられよ、と宥めた。少し嫌味な顔をした寺島職定であったが、越後長尾家が接近しているという場合にどうするかを考えれば、この措置もやむを得なかったと理解はできた。もっとも感情として納得できたという訳ではなかったが。小島職鎮は続けて言った。
「物見の報告によれば、既に魚津城は越後長尾家が領有し、更に既に長尾景虎隊が松倉城を攻めており、斎藤朝信隊が有金館、堀江城を攻め落とし、弓木城を囲んでいる様子である。小出城が無視されたのは、大方降伏でもしたのであろう。それに、我らに対する物見も多数確認されている。既に動向は把握されていると考えなければなるまい」
ここまで言って、小島職鎮は一同の顔を見た。寺島職定には戦意があるように見えたが、内ケ島氏理には特に何もなかった。その内ケ島氏理が発言を求めて言った。
「我らの役割は西越中の防衛であり、その為の今回の前進です。越後長尾家と事を構える必要はありません。神通川以東は、放棄しても構わないのです」
だが、と寺島職定は言った。大村城には若干の兵が残っており、苦労させられたらしかった。また、特に舟橋は用意していなかったうえ、河口部分の川幅の広い場所で舟橋を架ける必要があったために時間をとられ、それが原因で一番最後に到着した。それが原因、という事でもないだろうが、余りにあっさりと苦労して獲得した土地を放棄しろというのは、かなり寺島職定の神経を逆なでした。
「占領した土地を手放せとは何事か」
声に怒気が籠っているのを隠しもせず、寺島職定は言った。それを宥めながら、小島職鎮は言った。
「我らの役割は西越中の守備。直接西越中に兵を入れようとした椎名家を攻めるのであればまだ話は通るだろう。だが越後長尾家と事を構えるのは、完全に越権行為である。そのことをどうお考えかな」
確かに、西越中に侵攻しようとしてさえいない越後長尾家と事を構えるとなれば、草太の裁可が必要な事案であった。
「越後長尾家と和議を結ぶ。その上で必要ならば、神通川以東の姉小路領は放棄しても構わぬ。……と、城生斎藤家の領土はそのまま残さなければなるまいが、まだ姉小路領ではないからな」
そう、現時点では城生斎藤家は臨時の措置として同盟軍のようになっているが、正式に国人衆となるか、あるいは武将衆に加わるかは別として、全て草太の決裁が必要であった。なので、単なる同盟国であるため、要求されても姉小路家の土地ではないということが可能であった。
「まずは和議の為に軍使を。それも将としての格がなければ話にもならぬだろう。なので某が行こうと思うのだが」
小島職鎮が言うと内ケ島氏理が言った。
「ならば、副使としては某が仕りましょう。なに、寺島職定殿は武将衆なれば、一鍬衆も鉄砲衆も指揮できますが、国人衆の某では指揮いたしかねますから」
三仏寺城から上杉謙信のいる松倉城前の陣は三里程度であった。翌神無月六日(11月2日)払暁に三仏寺城を出て朝のうちに上杉謙信の陣に着くことができた。その出迎えは、誰あろう唐人兵庫であった。面識のあった小島職鎮は、相変わらずこの変わり身の早さよ、とあきれただけであった。聞けば、常に優勢な方に鞍替えを繰り返しているらしかった。小島職鎮が唐人兵庫に、椎名家の軍役は、と聞くと、上手いことに一向門徒衆に身をひそめ、神通川で足止めされた直後に逃げたのだと言い、こう言った。
「椎名家は沈む船。逃げるのなら早いうち、さ」
内ケ島氏理が呆れていると、小島職鎮が言った。
「昔からあいつはああいうやつなのだ。鉄砲も使えるのだが、多分椎名家ではだれもそのことを知らんだろうな」
なぜ知っているのかと聞くと、意外な人物の名が出てきた。
「最近召し抱えになった九鬼殿、あの男の放蕩仲間なのだそうだ。滝川一益とは時期がずれているので滝川一益は知らなかったようだがな。その九鬼殿から唐人兵庫も滝川一益と同じように鉄砲を使える、と聞いた」
世の中、広いようで狭いものだ、と内ケ島氏理は思った。
そして、上杉謙信との対面であった。
真正面に上杉謙信、両脇にずらりと宇佐美定満、甘粕景持、千坂景親、山本寺定長らの武将が並び、一度隙を見せるとそのまま平らげられるような、威圧していないのが既に威圧しているという、草太と諸将が並んだ中に座ったときとは全く別の空気であった。草太と諸将のように気を抜けば取り込まれそうな、空気とは全く正反対である、と内ケ島氏理は感じた。
まずは正使の小島職鎮が口を開いた。
「和議を結んでいただきたい。我らに反撃以上の意図はなし、その証拠に、白岩川以東には兵を進めて居り申さず。それよりも、椎名家は越後長尾家に従属してあったと記憶しております。何故椎名家を攻撃していらっしゃるのですか」
上杉謙信は答えた。優しい声であった。一見し声を聴くと女性かとも思ったが、その声に籠る威圧感は性別などどうでもよいと思えるほどのものであった。
「そう、ですか。椎名家は当家に対して縁切り状を叩きつけ、甲斐武田家に従属すると申しております。ならば飛騨が落ちたかと探らせたのですが、姉小路家は無事なご様子。安心いたしました。縁切り状を叩きつけた故、又守護代ではないものが東越中を治めるのは適当ではございません。ですから、椎名家を討伐した後、新たな又守護代を置くか、当家の直轄地とし家臣を配することになります」
脇から内ケ島氏理が言った。
「副使の内ケ島氏理と申します。姉小路家は切り取り次第に越中の守護代になるように、というお墨付きを頂いております。先日までは国境は神通川でございましたが、現在は反攻作戦もあり白岩川になっております。国境をどういたしましょうか」
上杉謙信は領土には興味がないように答えた。いや、別のものに興味が移ったとでも言うべき口調であった。
「だったら白岩川が国境。それでよろしいです。今後とも敵意なく行きたいものです。……いえ、内ケ島氏理殿とは戦場であってみたいですね。先日の一向門徒衆との一戦、聞きましたよ。それほどの猛将、うふふ、戦ってみたいものですね」
内ケ島氏理は内心、絶対に御免だ、と思いながらも、冷や汗を流しながらなんとか答えただけであった。
「我らは味方にあれば、戦わぬが良いかと」
残念ですね、と上杉謙信は言って会見は終わった。
何となくではあるが、内ケ島氏理は上杉謙信とは、単なる戦好きであり、戦が出来さえすればなんでもよいのではないかと思った。
それはともかく、結果として姉小路家は神通川から白岩川までを領土として新たに加え、新川郡の約半分、約七万石相当を加え、越中の八割ほどを領土として治める形になった。内政方は開墾すべき土地が大量にあることを喜んだのと同時に、開墾する人口や治水といった問題に頭を悩ませることになったが、それはまた別の話であった。
また、後の話になるが草太が帰ってきた後、城西斎藤家は国人衆として所領を安堵され、以後は鰤街道の整備と補修を命じられたのであった。とはいえ、大きな補修が必要な場合などは姉小路家自身の問題として対応もしたため、それほど負担が大きかったわけでもなかった。
上杉家の松倉城攻めはしかし、成功しなかった。完全に包囲され、白岩川以東の所領は全て斎藤朝信が預かる形で全てを喪ったが、松倉城は流石は越中三大山城であり、上杉謙信の指揮をもってしても一月半では落ちきらず、本丸から三ノ丸までに五千程度の兵が詰められていると見られていた。
上杉謙信は降雪と共に主力は越後へと戻さざるを得なかった。それ以上は冬の雪に阻まれるため、上杉謙信としても春日山城を開けすぎるのは問題であった。特に中信濃に甲斐武田家の軍勢がおり武田信玄がいる現状では、春まで戻らないというのは危険すぎた。そのため、一足違いで上杉謙信とは草太は会うことができず、斎藤朝信を介して和議の書面を交換したのであった。
この後、斎藤朝信が指揮を引き継ぐ形で松倉城を包囲し、力押しから兵糧攻めに切り替えて半年、遂に兵糧が切れたために落城した。落城時に椎名康胤は着の身着のままで追放され、武田信玄の配下となったとされるが、その後の武田家の軍役指図書に椎名康胤の名はない。一説には落ち武者狩りにあい百姓に殺されたとも、帰農したとも言われているが、定かに示す資料は見つからない。
だが、全ては草太が帰ってきた後の話である。
その草太であるが、このころ、若狭三方郡の掌握をほぼ終え、足元も固め終わったところで木下藤吉郎ほか四千の一鍬衆を付け遠敷郡からの若狭武田家の侵攻を防がせつつ、まずは敦賀の津を確保し、船による補給を開始できるように手を打っていた。さすがに遠征軍で補給もなしでは限界が見えてきていた。どうにもならなくなる前に敦賀の津、出来れば金ケ崎城を手に入れることを目的として、草太率いる姉小路軍は国吉城より進出を開始した。時に、天文二十三年無月六日(1554年11月2日)のことであった。




