十一、鞍馬寺での日々
春、雪解けの季節である。
草太は平助を伴い、鞍馬山を下りて鞍馬川に沿って北へ向かっていた。興仙の指示である。川の上流へ、そして雪の残る峠を、二人は、いや実のところ少し遅れて興仙がついているので三人は進み、小さな盆地を見降ろせる場所に来た。このころになると興仙も追い付き、三人連れだって歩いていた。流石に峠には雪が残っていたが、それもそれほど多くはない。
峠を越えた頃には春の匂いがするとでも表現するのがよいのだろう、菜の花のものらしい花の匂いがしていた。
「さて、見えてきましたな。あれが花脊の里ですじゃ」
峠を下って見えてきた里は、山と山に囲まれた狭い盆地であり、花の都京を背にする山里、という意味で、確かに花脊という名が丁度良いように思えた。このような谷底の村へ、興仙が連れてきたのは理由があるのだろう。
そう思って村に近付くにつれて、村人たちもはっきりと見えてきた。何やら耕している。その周囲の畝から水田のように見えた。が、水も張っていない田を耕すのを、草太は不思議そうな顔で見ていた。
実際、水田は、ただ水を張ればよいというものではない。稲を刈った後は水を抜き、春に田を耕す(起こす)必要がある。この時期の多くの田は湿田、つまり一年中水を張っていた。明治期になって秋に水を抜く乾田が主流になる。しかし、草太たちが見ているのは乾田である。
「あれが何か、お分かりになりますかな?」興仙が草太に尋ねた。
「田を耕しているように見えますが、水が張っておりません」
「なぜ田だと思う? 畑かも知れぬぞ」
「畦で区切られております。畑ならば畔は必要ありませんから、田だと」
「よく見たの。あれはな、乾田といっての、秋には水を抜くのだよ。それに、裏作といってな、稲を取った後には麦や稗や蕎麦、野菜類などを植えておるのじゃ。稲だけでは食えぬからの」
いわゆる二毛作である。二毛作も、湿田で行われるものも多かったが、このように乾田で行われることもある。余談になるが、乾田が一般的になるのは明治期であり、この時代は圧倒的に湿田、つまり一年中水を張っておく田が普通であった。
「この辺りでは、珍しく、と言うべきかの。大抵は一年中水を張ったままにするのだが、この里ではな、それをするには少しばかり水が足らぬのだよ」
興仙の説明では、今の時期は良いが、秋になると棚田の上の辺りには水が足らず、それを防ぐために水門を閉めると下のものが水が足らず、といういわゆる水利権の争いが絶えなかったという。そこで、水田の水を抜く、いわゆる乾田の法が行われているのだという。
「面白いことにな、乾田の方が米が多く取れる。麦や蕎麦も、手入れが楽だ。雑草も少ない。いわゆる乾田の法じゃの」
他の地域には教えないのですか、という平助の質問に、興仙は答えた。
「教えておらんのぅ。教えたくないという訳でも、相手が受け入れないという訳でもない。単に行き来がないだけじゃ」
その夜、庄屋の家に泊った草太が、乾田の法について詳しく説明を受けたのは、言うまでもない。
時は移って夏の頃である。
このころになると、庵に隣接するように小屋が一つ建てられた。馬小屋である。中には二頭の木曽馬がいた。当然、一条公が人を介して贈ってきたもので、鞍からなにから馬具一揃えも揃っている。馬丁も一人、交代ではあるようだが寝泊りすることとなった。草太は、しかし、馬に乗るどころか馬をこのように間近で見ること自体が初めてであった。この時代の馬は現代のサラブレッドよりも馬体は小さいが、一般に気性が荒い。平助も今まで、言ってみれば雑兵である。徒歩であり馬になど乗る必要もない。草太がこわごわ馬に触ろうとすると噛みつこうとする始末である。
この状況を、興味深げに見ていたのは、やはり興仙である。
「何でも同じじゃ。こわがると、相手が、今回なら馬がつよくなる。怖がらずに平常心で撫でてみよ」
そうして、朝夕に馬の訓練も加わることとなった。
因みに、馬は草太が栗毛の馬を選び「秋雨」と、平助が青毛の「クロ」と呼ばれていた。このころになると午後の鍛錬は体術を中心としたものに変更されてきており、馬も毎日一刻ほどかけさせる練習をした。といって馬場まであるわけもないから山道である。晴れていれば、木曽馬は草太たちを乗せて、鞍馬街道を北へ、南へと走らせていった。馬をひとしきり責めると小屋に戻り、馬体を丁寧にすき、飼料をやる。毎日自分の手で丁寧にやるのが馬と仲良くする、引いては馬に巧く乗るコツだということを、馬丁から教えられてから毎日、世話はしている。
また、興仙の修業も少し様相が変わってきた。朝からの六韜三略も大略は大体講義を終え、既に草太は読み書きは自由に出来るようになっていた。時折意味が通じないものがあるにはあるが、住職の教えなど元々の素養もあり、その都度興仙に聞けば詳しく事例を交えて回答を貰えることもあり、随分と読みこなせるようになった。平助もこの夏には仮名文字は完全に読み書きでき、簡単な文でああれば読むことができるようになっていた。そこで文の修業は一度そこまでとして、後は武の鍛錬とばかり、外で木刀を振っている。興仙が時々、手のうちから指導しているようである。
午後の鍛錬も少し変わってきた。足腰がそろそろ練られてきた、と修業内容もただ山の中を走るだけではなく、或いは荷を背負い、或いは興仙が護身の術の基礎として足さばきを教えはじめたのもこのころである。剣には一度も触れない。ただ足さばきだけを草太は興仙から習い覚えた。
「肝心なのはな、足さばき、体さばきで刀の刃筋に身を置かぬ事だ。鎧武者とて同じことで、斬ろうとすれば当然刃筋を通さねば切れぬ。力任せに斬ろうとしても、切れぬよ。そして極意はな、体の芯をしっかり持ち続けることじゃ……なに、素振りはしないのか、と? 暇な時に平助にでも習うが良いわ」
この足さばきは草太だけでなく平助も共に行っている。といって、型自体は基本の八法と言い一歩前後左右斜めを含めて八方向に踏み出すだけである。
「一歩踏み出すだけ、というのが型というのも変に思うかもしれぬがな、なかなかこれが完全には出来ぬ。泥であろうと脂がまかれておろうと、体の芯をぶれさせずに一歩を確実に踏み出し踏み込む。これができてはじめて八方の足さばきの完成じゃ。ただ踏み出して終わりではない」
平助の剣の修業は、ただ素振りをするだけであり、午後になって足さばきを草太とともに修練するだけである。平助は興仙に、これで良いのか聞いたことがある。これで一剣客として名を立てられるか、と。すると
「できぬ。最初から言っておろう。剣の道で生きようと志を立てているならいざ知らず、そうでないなら、そこまで大成はせぬよ」
いつか秋の風が吹き始めていた。
既に六韜三略も折に触れて読み返す以外に読むほどのことはなく、天台宗の仏典を読むことが増えてきた。興仙曰く、臨機応変、仏典もよく読んでおくことじゃ、と。
ふと気になったことを興仙に質問してみた。天台宗は良いが、飛騨の国で盛んなのは浄土真宗、その北、越中で盛んなのは一向宗ではないか、と。すると興仙は笑っていった。
「一向宗は浄土真宗の一派じゃ。浄土真宗は浄土宗を元にしたもので、その基は天台宗じゃ。だから、天台宗の孫、位が浄土真宗であり一向宗じゃよ」
そんなある日、いつものように下人が食事を運んできた。見ると弥次郎兵衛である。
「だから前にも言いましたね。どこにでもいると。旦那、今日はちょっとばかり見てもらいたいものがあるので」
そういうが、修業は、というと興仙は何かを悟ったのだろう、言って来いという。平助を伴って行くことにした。紅葉の季節には少し早く、木々の葉は少し色づいているものが所々にある程度である。今日が何月何日かを聞けば、長月十日|(10月20日)だという。
「旦那が土佐に流れ着いて、大体一年が過ぎておりますが、慣れましたか?」
歩きながらふと振り返る。確かにこの一年、随分色々なことがあった。が、それ以前の現代に戻りたいかといえば、戻りたくなというのが本心であった。色々と不便はあるが、例えば大抵は干飯と菜が一品だけの簡単な食事ではあるが、この山では三食が間違いなく給されていた。衣服もあり、勉学も六韜三略を中心としたものを学んでいる。寝床だけは藁にくるまって寝るというだけなのでそれだけは現代の布団が恋しかったが、それ以外は現代よりもこの戦国時代の方がはるかに良かった。
「慣れた、というよりも、目まぐるしく変わって何とも言い難い。が、この一年は丁寧に扱われている。それだけは確実に言えるし、感謝しているよ」
そう言って草太は歩を進めた。向かう先は大原の里だという。
九十九折りを下りて仁王門を出、薬王坂を通って静原の里へ出る。その里を越えて山を一つ越えると大原の里に出る。
大原の里は高野川沿いの盆地であり、今まさに取り入れが終わり、収穫を祝う祭りの日であった。この日ばかりは村人も晴れ着を着、どこからか笛の音も聞こえてきた。
「年に何度か、収穫を祝う日だったリ、正月だったり、盆だったり、ハレの日、というんですがね。いわゆる祭りの日があります。今日は、そのうちの収穫を祝う秋祭りですな。……とはいえ、収穫の半分は年貢で持って行かれますし、この後裏作で麦だって踏まなきゃならない。浮かれ騒げるのは今日だけですがね。それでも、いやそれだからこそ、今日という日を浮かれ騒ぐのです」
そう言って、その辺から草を一本千切って器用に草笛にして吹き始めた。
「ねぇ旦那、旦那はまだ酒は飲めないでしょうけれども、多分庄屋の家では今日は酒をふるまってますし、混ぜ物なしの米を食べる家も多いでしょう。晴れ着を着るのも年に何回かです。多分、夜は神社の裏で……とこれはまだ早いか」
一旦言葉を切って、ひとしきり草笛を吹いた後、
「誰にだって、楽しみは必要ですよ。民だって、これがあるから苦しい作業をして、取り入れするのです」
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活動報告にも書きました通り、現在、日曜日と木曜日の午前0時に公開していますが、思った以上に反響が大きく、また書きため分が溜まってきたため、8月から当分の間、火曜日の午前0時を増やすことにしました。
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