百六、東越中の攻略と越後の龍
椎名家の錯乱、その挙兵と姉小路家による迎撃については、既に述べた。だが、椎名家の錯乱はこの後の戦国大名としての椎名家の滅亡まで続くのであるが、そこに至るまでにはもう一波乱あったのである。
時は少し遡る。
椎名康胤が家督を継ぎ、その後すぐに越後長尾家に縁切り状を叩きつけた次第は既に述べたが、その縁切り状を手に春日山城で上杉謙信は、静かに怒りを募らせていた。実際、椎名家が又守護代として東越中の支配ができていたのは、越後長尾家が後押ししているからに他ならない。代替わりしたのを期に別のものを又守護代として任じることも、越後長尾家が東越中の守護代であるから当然にしてすることのできる立場であった。そこに代襲挨拶ではなく縁切り状というのは、又守護代としての地位を与えられずとも実力をもって東越中を治める、更に言えば室町幕府の支配体制からの武力による脱却するという宣言に他ならなかった。
上杉謙信は激怒していたが、では今すぐに派兵できるか、といえば出来なかった。何よりも、北信濃の情勢がそれを許さなかった。縁切り状が北信濃への遠征に対して派兵を命じた手紙の返書であった事からも明らかなように、上杉謙信は北信濃への派兵準備に追われていた。
「時期が悪いか」
上杉謙信は怒りをこらえて北信濃への派兵について思いを馳せていた。
その北信濃には宿敵が、武田信玄がいた。中信濃を制圧し、三万ほどの軍勢を中信濃に入れて北信濃の国人衆に圧力をかけていた。当然ながら、優先すべきはこちらであった。北信濃を失うことは、そのまま越後に、春日山城をはじめとした越後平野に武田信玄の手が伸びる、その可能性が非常に濃かった。更に、季節が悪かった。既に長月であり、農家は刈り入れの末期であり、年貢を納めさせる時期であった。更に越後から越中へは親不知の難所のように道が悪く、最低でも越中平野入りまで四日、その後松倉城まで二日程度は必要であった。更に越中への入り口には宮崎城及び横尾城があり、それぞれ宮崎長康及びその配下の舟羽権平が詰めているとされていた。
上杉謙信は瞑目して考えた後、一言呟いた。
「一月、というところか」
これは、春日山城を開けていても無事な日数、その見積もりであった。その短期間に東越中への往復と椎名家の討伐を行わなければならなかった。春日山城から椎名家の居城、松倉城の往復だけで半月近い日数が必要であったことを考えると、この日数はかなり厳しいものであった。松倉城に籠城されればいかに上杉謙信といえども松倉城を半月で落とすのは難しかった。まして、上述した二城の他にも魚津城、富山城などいくつかの城を落とす必要があることを考えると、今この時点では動けない、という結論に達せざるを得なかった。
誰か家臣に、例えば斎藤朝信に兵を付けて、と思わないでもないが、甲斐武田家の軍勢に対する抑えとして、越後の動員兵力を減らすわけにはいかなかった。
とその時、報告が入った。信濃にいる甲斐武田家の軍勢の大半が飛騨へ出兵し、残りは八千ばかりである、とのことであった。武田信玄自身は信濃より動かないが、それはもうどうでもよかった。調略と守備だけであれば、春日山城に上杉謙信自身が居なくてもどうにかなる、或いは、自身が居てもどうにもならない、そういう戦いになるはずであった。ならば雪で道が閉ざされるまで、即ち三月弱。それならばなんとかなろう、と上杉謙信は腹を括った。至急柿崎景家を召して春日山城の留守を任せ、謀略戦は直江景綱に当たらせて、上杉謙信自身が将兵を引き連れて東越中の椎名家を攻略する、と陣触れを出した。
上杉家の陣触れは、一種独特であった。出陣する将兵は前日に集められ、いわゆるお立ち飯と呼ばれる豪勢な食事がふるまわれ宴が行われ、その翌日に陣割を上杉謙信自らが命じ、出陣となるのであった。
したがって、出陣する当日まで、出陣する将兵もその陣割も行き先も分からない。知っているのは軍神とも越後の龍とも呼ばれる上杉謙信ただ一人であった。逆にいえば、上杉謙信だけの力で越後長尾家は成り立っていた、といっても過言ではないように思われるのだが、実はそうでもなかった。上杉謙信と共に行動し、その戦術の仔細をいわば生きた教科書として、越後長尾家の家臣団は戦い方を覚えた。上杉謙信と同等とは言わないものの、その軍略のいくばくかを、特に近臣ほどよく吸収し、上杉謙信のいない戦場においても無類の強さを発揮したのであった。
さて。戦国時代の最強の武将は誰か、という議論で必ず候補として挙げられる上杉謙信は、ある意味では草太のアンチテーゼである。草太はどこまでも集団の力であり、武将の持つ力ではなく予め勝利する状況を作っておき平押しに勝つ。基本的な戦略は防衛線を構築し敵に攻撃させて反撃して勝つ、というものである。将が兵をよく訓練しておき、事前の準備により情況を将がよく把握していなければ成り立たない。
一方で上杉謙信は、どこまでも武将の個の力であり、戦術として攻めて勝つことを基本としている。兵がよくその武将の采配に従って動く、ということはもちろんであるが、それ以前に将がその兵をよく知っていなければ成り立たない。始終の勝ちなどという事は知らず場を外さぬ所ばかり仕覚えたり、と葉隠聞書にあるように、事前の準備も大事であるがそれよりもその場その場での兵の使い方の妙技を突き詰めていったのが上杉謙信である。
草太は、勝つ状況を作って戦い当たり前に勝つが、上杉謙信はその場その場で変幻自在の戦術を組み立てて将の力で勝ちを引き寄せる。
こう言い換えてもいいかもしれない。草太は勝つための情況を作るが、上杉謙信は勝つために武将を鍛えた、と。
内ケ島氏理は、草太の背後を守る将としての名や盟友として名の他に、猛将として名将としての名も高い。しかしそれは、草太の鍛えた姉小路家の軍制によるところが大きいとされている。また草太一流の、どこまでも集団の力を使い、将としてはほとんど何も特別な采配をしないで当たり前のように勝つ、という方法を、守勢ではなく攻勢に用いたのが内ケ島氏理という武将であった、と言えるかもしれない。
勝つ状況を、という意味において、例えば謀略によって勝つ形を作っていく典型が毛利元就であったり、個の強さを兵にまで徹底して求めたのが島津家であったりと、戦国時代最強の武将というだけでも、様々な種類の強さがある。また、勝てる機会を極限まで待ち、勝てる機会を逃さないという意味では徳川家康がその代表であろう。最終的に物量で勝つ、という近現代における米軍のような戦い方も、織田信長がある意味において成しているのである。
単純に合戦に勝つ、というだけでも、様々な種類の方策があり、いずれが最強かは議論が尽きないところであろう。
話が逸れた。本題に戻ろう。
お立ち飯が出て宴になり、翌朝陣割が上杉謙信から言い渡された。先陣、斎藤朝信隊六千、本隊上杉謙信隊八千、後詰長尾政景四千、総計一万八千にて越中椎名家を攻め落とす、と命が下った。行く先は越中、目的は椎名家の討伐。
そして、春日山城を出た越後の龍は、四日目の夜には国境を守るべき二城、宮崎城及び横尾城を落城させ、更に西進して魚津城を攻撃、宮崎城落城から三日目の夜にはこの城は既に上杉謙信の手にあった。それまでの被害は兵千に届くかどうか、という辺りであり、魚津城に上杉謙信は入城し、物見を発した。反撃が少なすぎる、そう感じたからであった。
この日は奇しくも前日に西越中侵攻軍を叩くべく出撃した椎名家の三隊及び一向門徒衆と西越中側の姉小路軍及び内ケ島軍の迎撃戦が行われた日でもあった。そのため、物見には松倉城に向かって集結しているように見えた。物見は戻って報告した。
「椎名方は松倉城に向かって集結中の模様。その数、椎名康胤隊三千、土肥政繁隊四千、一向門徒衆と見られる兵もあれども、これは松倉城ではなくそれぞれの在所に散っていく模様」
ご苦労、と一言言ってなるほどと考えた。椎名家は一向門徒衆と手を結び西越中に手を伸ばしたが迎撃された、というところか。問題は姉小路がどこまで進軍しているか、その点であった。
「物見を。今度は姉小路の動向を探るのだ。急げ」
椎名康胤隊の渡河を撃退した小島職鎮は、そのままほど近い富山城を制圧した後、戦場の後処理に追われていた。戦場で死者を荼毘に付し、戦傷者は見込みがあれば治療し、見込みがなければ楽にし、また鎧や刀剣類などは残らず回収した。その中に武田菱の旗指物があると報告があり、検めてみると確かに武田菱であった。武田家の軍勢が含まれていたとは考えにくいため、川の上流、飛騨国吉城郡でも戦闘があったと知れた。同時に攻め込んできた、ということは、両者を取り持つ何者かがいるのか、それとも甲斐武田家の調略があったのかは分からないが、草太のいない時期を見計らって、同時に攻撃してくるというのは、少なくとも両家のつながりができている、或いは両家を動かしうる存在がいる、と考えざるを得なかった。
小島職鎮は、これ以上考えるのは自分の仕事ではない、戦場の後処理ももうすぐ終わりが近付いていた。この後東越中に進行してよいのかどうかは分からないが、物見は出してあった。その結果次第では椎名康胤の居城である松倉城をはじめ、魚津城などの城を攻略することになるだろうと考えていた。
と、その時使い番が来た。
「内ケ島氏理より小島職鎮様への使いにございます。……は、内容はこれより津毛城を攻略し、更に太田本郷城へ北進する、小島職鎮様は新庄城及び仏生寺城を攻め候へ、とのことでございます。こちらが書状にて」
書状にも同様の内容が書かれていた。合流するつもりなのであろう、ただし仏生寺城にて止まるように、とあった。
「相分かったと伝えよ」
小島職鎮は戦後処理を終えると、舟橋を渡ると新庄城へと兵を進めた。
同じ頃、河口付近に展開していた寺島職定へ使い番が来た。
「内ケ島氏理より寺島職定様への使いにございます。……は、内容はこれより舟橋をかけて東進し大村城を攻め候い、その後仏生寺城に集い候へ、とのことにございます。こちらが書状にて」
書状にも同様の内容が書かれていた。何様だ、と反感を覚えつつも、言っている内容は至極まともであり、何より東越中に内ケ島隊だけに名を成さしめるのは癪であった。
「相分かったと伝えよ」
寺島職定隊は至急舟橋をかけ東進を始めた。
内ケ島氏理には、他の二人よりも少しだけ多くものが見えていた。これは優秀であった、などという事ではなく、単に内ケ島隊は神通川の増水前に川を渡っていたからというだけの理由であるが、その分だけ物見が北までよく届いていた。その最北端、距離にして約八里のところに、魚津城があった。魚津城が正に攻撃されている、その様子を物見が報告してきた。その旗指物には毘の一文字、つまり上杉謙信、乃至はその配下の部隊であることを示していた。
上杉家との衝突は、草太の決断なくして避けるべきであった。だが、少しでも前進しておけばその地を譲るだけで西越中は無事に済む、そう考えられた。とりあえずほぼ空城となっている城の接収、および仏生寺城の合流を急がせた。




