百五、続、椎名家の錯乱
椎名家の錯乱と呼ばれる一連の政変の内、椎名康胤と一向門徒衆が兵を集め、その対応として姉小路家の軍議が行われていた次第について既に述べた。その最中に一人の軍使が来たことも、述べた通りである。
姉小路家日誌天文二十三年長月二十六日(1554年10月22日)の項にこうある。
「小島職鎮、寺島職定、内ケ島氏理殿、増山城にて椎名家及び一向門徒衆の侵攻に対する対応の軍議仕り候処、城生斎藤家の軍使参り、城生斎藤家臣従致したしと述べ候。内ケ島氏理殿、仔細を聞き憐れに思召され、手のものにより城生城付近に陣を張り城生斎藤家を守ることと致し候」
この話を進める前に、城生斎藤家という存在について、述べておかなければならない。
椎名家の錯乱が発生した当時、この他にも国人衆は特に東越中には多数いたが、ほとんどは国人とは言いながらも椎名家に服属し椎名家家臣としての顔も持っていた。例えば土肥政繁も椎名家の家老という顔を持っているが、同時に中新川郡を治める越中国人衆としての顔も持っている。この辺りが、封建制下における勢力範囲を考える際に複雑になりがちになる原因ではあるのだが、更にこういった武家勢力と宗教による勢力も複層的に絡み合っていくのが、戦国末期の勢力図を更に複雑にしている原因である。
そしてその中には、どちらに着くかはその場その時次第で決めるという、立場をはっきりさせない、言ってみれば両天秤を使う強かな国人衆も多数存在する。或いは逆に、常に干渉を避け独立独歩を旨とし必要がある場合にのみどちらかにつく、そういう国人衆も存在する。勢力を拡大して国主を凌ぐ勢力を築く例も、下剋上を典型例として少なくない。だが、共通して言えるのは、どの国人衆もそれぞれで生き残りに必死であったという点である。なので、主家乗り換えることも、一門の半分ずつが両方の陣営に付くことも、決着がつくまで旗幟を鮮明にしないことも、独立した小領主として巻き込まれないように立ち回ることも、いずれも決して珍しくないことでありそうやって国人衆は生き残りを図っていたのである。
城生斎藤家は、一種の忘れ去られていた国人衆である。
城生斎藤家は神保家とは対立状態にあり、神保家が姉小路家に倒されたときに姉小路家に吸収された国人衆たちの中にはおらず、そして神保家が姉小路家に倒された時には椎名家に服属していない、一種の独立した勢力であった。更に姉小路家と椎名家の間で越中が分割された際、その国境は神通川とされたことが最大の原因である。城生斎藤家は領有している土地は神通川の東側に、そして城自体は神通川の西側に、それぞれ持っていたため、姉小路家、椎名家両者とも相手側の領有であると認識していたのである。その証拠に、姉小路家の検地は城生斎藤家領には及んでいないし、逆に椎名家の軍役指図書には城生斎藤家は見当たらない。
つまり、非常に特殊な事情が絡み合って、城生斎藤家は越中でただ一つ残った、純粋な意味での独立した国人衆であった。
その城生斎藤家から軍使が来た。軍使は斎藤利基の家臣豊島茂助であると言い、城生斎藤家は姉小路家に臣従したいという。
最初、小島職鎮は寝返りかと考えたが、どうにも話が食い違った。そして、上述のような事情で独立した国人衆として城生斎藤家が存在すると認識が改められた。姉小路家、城生斎藤家は双方独立勢力であり、その力関係を無視すれば対等の立場であった。なぜ今になって臣従の使者を寄こしたのか、と問うと豊島茂助は言った。
「一向門徒衆は南方を進む見込みであり、その標的の一つとして我ら城生斎藤家が含まれていると見ている。その為、その蹂躙を受けるよりは姉小路家に膝を屈する路を選んだのだ」
なぜ一向門徒衆は南方を進むのかと問えば、簡潔に、集合場所が栃津の地にある願海寺であるからだ、と答えた。
「奴らは瑞泉寺、勝興寺の奪回を第一に望んでいる。となれば、我が領は行き掛けの駄賃とばかりに攻撃される可能性が極めて高い。しかも我らでは領土を守り切れぬ。城だけならまだしも、領民も田畑も根こそぎにされればすぐに立ち枯れだ。守らねばならないが、それには残念ながら力が足らぬ。ならば椎名家と姉小路家、どちらかに着くことになる。どちらにと言われれば、間違いなく姉小路家以外に考えられぬ。それ故、膝を屈しに来た」
この発言に、小島職鎮は我らでは決められぬ、と言ったが、内ケ島氏理がそれを制して言った。
「臣従云々はともかくとして、一向門徒衆は我らがどうせ戦わなければならぬ相手。場所を少しばかり移し、ついでに将兵を少しばかり増やしたところで御屋形様は何も言わぬでしょう。……処遇は後のこととする。だが、城生斎藤家の治める婦負郡南部に我が姉小路家内ケ島隊が展開する故、安心するがいい。ただし、兵は出してもらう。また民は山などに避難してもらうことになる」
そのようなことを勝手に決めてよいのか、寺島職定が問うと、内ケ島氏理は言った。
「よい。御屋形様の処罰ならこの内ケ島氏理が引き受ける。……なに、ただ民を守りたいだけだ」
準一門衆である、という事を言えば、おそらくはこの場は収まるであろうが、それは言わなかった。ただ民を守りたい、草太ならばそう考えて行動するに違いない、そう考えて言っただけであった。
まだ何か言いたげな寺島職定に小島職鎮は言った。
「なに、戦の前に味方が増えるのは良いことではないか。少しばかり内ケ島氏理殿の戦場が東に移動しただけだ。問題あるまい。それよりも、そうなれば急ぎ兵を移動させねば。井波城から城生城までであれば大体一日は移動にかかるからな。上見城からならば十里弱、二日程度だろう」
この発言で決まりであった。改めて、まず能登留守隊より守山城に寺島職定が一鍬衆二千を率いて入り、西越中留守隊は増山城には一鍬衆百を残し、富崎城には小島職鎮が一鍬衆四千九百と中筒隊五百を率いて入り、更に上見城を居城としている内ケ島氏理が自らの一鍬衆四千と中筒隊三百を率いて城生城付近に展開し、また城生斎藤家も兵を出して合流することが決められ、軍議は終了した。
そして、準備が終わって椎名家の出兵の日となった。
姉小路家日誌天文二十三年神無月朔日(1554年10月27日)及び神無月二日(10月28日)の項に、こうある。
「椎名家の軍勢、突如一向門徒衆と歩調を合わせ合計四隊に分かれて侵攻を開始致し候。物見あり、陣を展開するも、夕刻より俄かに神通川水量を増し、夜半に及び候。下流に陣を張りし小島職鎮、寺島職定は椎名家と神通川を挟んで睨み合い、椎名側は舟橋をかけしも流され候。川の上流城生斎藤家領に陣を張りし内ケ島氏理殿に斎藤利基も参陣致し、合戦に及び候」
「夜半に水引きたるを見し小島職鎮隊、一里下がり兵を伏せ、舟橋をかけ渡らんとする椎名康胤隊を散々に破り候。また寺島職定隊と対峙せし土肥政繁隊、舟橋をかけ候事もせず去り候」
ところでこの増水は、甲斐武田軍との戦いで使われた水計、その水であった。といっても、この程度の増水は神通川にはよくあることで、流れてくる死体を仔細に検めれば、泥にまみれた武田菱など甲斐武田家が敗北したことが分かったはずである。
戦は物見の時点で既に差がついていた。
椎名家の出兵を告げ、その進路を告げる物見が神通川を渡って守山城、富崎城に入る時と前後して、椎名家の物見も神通川を渡っていた。といっても、両者とも渡し船で渡ったのである。決定的な違いは、神通川を渡り報告すれば姉小路側は任務完遂であったのに対し、椎名側は神通川を戻らなければ任務が完遂されないという点にあった。椎名側の物見が戻ろうとしたところで神通川の増水が始まっており、物見の一人が船を出せと暴れた結果、その場にいた一鍬衆らに取り押さえられた。取り押さえた際には単に暴れた侍を鎮圧した、という程度としか考えていなかったが、その口から椎名家云々という言葉が出た結果、尋問され、椎名軍の陣容及び進路が全て明らかになり、直ちに報告された。
しかも、増水時には舟橋もかけることは難しいため、結局は物見が戻らないままで椎名軍は神通川河畔まで進出せざるを得ず、その時には既に姉小路軍が展開していた。
土肥政繁隊は、対岸に既に姉小路軍が展開しているのを見て、増水が治まり舟橋を架けても渡り次第に槍のさびにされるため、渡河を諦めてさっさと松倉城に兵を引いた。いかに家老といえども、勝手に陣を解散する訳にはいかないためであった。
椎名康胤は椎名長常が、姉小路は常にこちらの一枚上を行く、と言っていた言葉を今更ながらにかみしめながら、増水が治まるのを待つよりほかはなかった。川幅は五町以上あり、矢も鉄砲も届く距離ではないためであった。椎名康胤隊は神前和泉守隊と共に水が引き次第舟橋を架けて渡河する、という方針を立ててその場で一夜を明かすこととした。
小島職鎮は戦い慣れていたため、軍を一里下げて伏せさせ、撤兵したかに見せかけ、敵が渡河を開始するのを待った。
翌朝、水が引いた神通川を、舟橋を架けた椎名康胤隊及び神前和泉守隊合計八千が渡河しようとしていた、そして、先端が渡河を終え二千数百が既に渡河し、今更渡河を止められない状況になったときに小島職鎮は伏せていた一鍬衆に、まずは一鍬衆五千の投槍器による投げ槍による攻撃をかけ、更に一鍬衆を突入させて二千数百を一度に破り、更に渡河中の敵部隊に向け鉄砲隊を二隊に分けて上流側と下流側から鉄砲を撃ちかけた。舟橋は精々二人が並ぶ程度の幅しかなく、鉄砲隊から身を守るすべは椎名軍には全くなかった。運よく舟橋を渡り切った兵も一鍬衆により即座に殲滅された。こうして序戦で四千近い被害を出し、更に千近い被害が出るまで渡河を試みたが、結局は三千二百を切るまでになった兵を纏めて空しく引くしかなかった。
椎名康胤隊及び神前和泉守隊にとって幸運だったのは、小島職鎮隊も渡河が難しかったため、追撃の心配をしなくてよいことだけであった。
しかし、この増水とは全く無関係に激突せざるを得なかったのが内ケ島氏理隊の一向門徒衆との戦いであった。そして、内ケ島氏理が大いに猛将としての名を上げたのは、この戦が最初であった。
内ケ島家の特徴としては、軍の装備そのものはほとんど姉小路家と違いがない。後に中折れ銃隊も登場するため、その意味では姉小路軍と全く変わらないとっても良く、投槍器も当然にして装備にくわえられていたが、大きな違いはその軍装の内の防具、特に胴丸など漆塗りの色にある。姉小路家は溜り漆に墨を混ぜた黒いものを使うのに対し、内ケ島家は朱を混ぜた、俗にいう赤備えと呼ばれるものである。といっても、現代に残されている鎧を見ると、赤というよりも暗い柿渋色であり、一説には夜明け、夕方には漆黒より夜により溶けやすいために内ケ島家が工夫したと言われているが、単に識別のためだったかもしれない。
その赤備えで統一された内ケ島家一鍬衆四千、中筒隊三百に、城生斎藤家斎藤利基隊が八百加わった。城生斎藤家はほとんどが雑兵であったが軍装も統一されておらず練度も正に桁が違っていた。それでも戦意だけは自領防衛というだけあって、内ケ島氏理隊に負けず劣らず高かった。
物見によれば、一向門徒衆は城生斎藤家を攻撃せず素通りする見込みであった。そのため、城生斎藤家を後詰として城生斎藤領の守備に専念するように命じ、内ケ島氏理隊は一向門徒衆一万五千を横殴りに殴りつける形で攻撃した。
城生斎藤領は神通川の上流にあるため、河川の増水は昼過ぎには始まっていた。そのために一向門徒衆は川岸で進軍を止めざるを得ず、自然に水が治まるまで休息、とばかりに三々五々休息に入っていた。こういうところが、一向門徒衆の致命的な弱点である、少し戦に慣れただけで集団としての訓練をしていない素人の集団としての欠陥を露呈していた。
そこに、内ケ島氏理隊が攻撃を仕掛けた。一町半まで距離を詰め、中筒隊が一撃を加えた後、一鍬衆が更に前に出て一町の地点から投槍器を使っての投げ槍を一本、更にもう半町距離を詰めてもう二本投げた。この時点で一向門徒数は大混乱に陥り、戦闘どころの騒ぎではなくなっていた。しかも、九千近い兵力が既に失われていた。混乱している一向門徒衆に対して、更に追いついてきた中筒隊三百が銃撃を加え、一鍬衆が突入した。この最後の一鍬衆の突入時だけが一向門徒衆がまともに戦闘をする最初で最後の機会であったのだが、大混乱の中であり、更に既に組織的な戦闘能力は完全に失われた一向門徒衆が有効な反撃は出来なかった。潰走する一向門徒衆を追い、ほとんどの一向門徒衆が戦闘能力を失って降伏した一向門徒衆を集めると二千程が降伏したようであった。武装を解除し、戦場の後処理を城生斎藤家の斎藤利基隊にも手伝わせた。戦場の後処理の前に人員点呼をしたが、浅手を負ったものは数名居るものの、戦闘能力を失うような深手を負ったものさえおらず、まさに完勝であった。
それでも唐人兵庫とその郎党はしっかりと逃げ切っていた辺り、この者の曲者ぶりが分かるというものであるが、それはまた別の話である。




