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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百三、甲斐の虎

 天文二十三年長月二十九日(1554年10月25日)、姉小路軍が進軍を開始した。そしてその報は即座に伝えられ、天文二十三年神無月朔日(1554年10月27日)、信濃にいた武田信玄に伝えられ、山縣昌景に前進命令が下された次第については、既に述べた。

 実際の処では、既に述べたように神無月朔日(10月27日)以前から情報戦という意味での戦闘は行われていたのであるが、それを裏付ける資料は全くない。精々、甲州軍鑑に一行だけ書かれれるのみである。

「山縣昌景、夥しく物見を出し候えども、その実を得ず」

 実際の処として夥しく出された物見がその実を得なかった、という事は、既に情報戦という意味では敗北していたことを意味すると考えられるのである。少なくとも山縣昌景は敵情を把握することなく軍を進めざるを得なかった、という事は間違いのない事実のようである。


 姉小路家日誌天文二十三年神無月朔日(1554年10月27日)の項にこうある。

「甲斐武田家の軍勢、奥飛騨に乱入し、その後高原川沿いに北上仕り、洞城、石神城前にて合戦仕り候。牛丸重親殿、この戦にて大いに名を上げ候」

 正確な推移は不明ではあるが、奥飛騨方面の間道から侵入した甲斐武田の軍勢は、洞城、石神城の間の台地で迎撃を受け壊滅的な打撃を受けたのは、甲州軍鑑にも見える事実である。そしてこの敗北による甲斐武田家の退潮が武田信玄の信濃攻略にも足かせとなり暗い影を落とすことになるのであるが、それはまた別の話である。



 山縣昌景は麾下の木曽義康に先陣を命じ、奥飛騨に前進させたのは攻撃の合図が出た直後であった。奥飛騨で誰か人を雇い、高原川を下る道案内とする予定であった。しかし、草太の命令により、奥飛騨には誰一人残っていなかった。実のところ、戦場となるべき地域からの疎開は予め命じられていたのであり、前日に物見が通った際も、注意深く見れば子供が一人もいないなど奇妙な点を多く見つけることができたはずであった。実のところ、その時に奥飛騨にいたのは平野神右衛門が手のものであった。といって、彼らは忍びではない。単に平野神右衛門が行き場のない元村人を取りまとめていた、というだけの話であったから、村人に扮するのは元々が村人なのだから手慣れたものであった。

 後に服部保長がここでの情報戦に完全に勝利したことを賞して加増したのであるがそれはまた後の話であった。


 ともかくも奥飛騨の里に人一人いないのを見た木曽義康は高原川を河畔を下っていった。河原の水量は少なく、いくつもの支流が注いでいたとはいえこれで物見が惑わされていたとは考えにくかった。それ故、敵兵の待ち伏せがあるかと注意深く木曽義康は高原川を下り、特に敵兵もないまま一つの台地に出た。田畑は手入れがされてたが、全く村人が見えなかった。しかし、とにかく二万の兵が入るだけの広さのある台地であったため、ここに仮の陣を作り、本隊が追いつくのを待ったのであった。台地の端から川を渡った台地の上に石神城及び洞城のものと見られる櫓が見えた。昼間に攻めるには、全く適していないのは明らかであった。姉小路家には鉄砲隊が充実していると聞いていた。櫓からの攻撃にさらされ、無駄な被害が増えるだけであろうと思われた。そのため、兵を休ませ、夜襲をかけさせることとした。幸いにして、川の水量はさして深くはなかった。

 しかし、もし物見が注意深く見れば、更に多くの水量が流れているのが普通であったという証拠は、例えば河原の石や苔の生え方などから知ることができたはずであったが、それまでも要求するのは酷というものであろう。何しろ石神城の櫓から川は三町ほどであり、高低差を考えれば銃撃を受けてもおかしくない距離であったためであった。



 一方の姉小路軍、その石神城の鉄砲櫓には平野右衛門尉が詰めていた。ここと洞城の鉄砲櫓、土肥但馬守が守将を務めていたが、この二つが最も激戦区となるであろうことは予想されていた。平野右衛門尉は、鉄砲隊の指揮はそういえば初めてだな、と思いながらも、この櫓が最も激戦が予想されたため、実戦経験の数から平野右衛門尉が入ることとなったのであった。出入りは梯子のみ、物資は滑車を使って釣り上げるというだけあって、力押しでは落ちるような櫓ではなかったものの、幅十間、奥行き五間の広間に入ることのできる人数は限られていた。鉄砲の運用を考れば櫓にはそれぞれ二十の中筒隊が五段、即ち百の中筒隊が詰め、残りは牛丸重親率いる部隊に編入することとした。ただし、替えの鉄砲として百をそれぞれに配備したので、整備なしでもそれぞれ四十発、四千発を撃つ体制が整っていた。整備の訓練も行い、三百数えるうちに整備を終えることができるようにした。といって、元々尾栓を開けてぼろ布で拭くだけであるから、最初からその位でできるものも少なくなかった。そのため、今度は二百数えるうちに整備を終えることを目標に鋭意訓練中であった。つまり、一発撃って整備して次弾発射までを二百数えるうちに終える、という事であったから、全員中々うまくはいかぬようであった。だが、この訓練次第で戦の明暗が決まるかもしれないと思うと、手は抜けなかった。

 土肥但馬守も同じような訓練をさせていた。


 また、牛丸重親は久々の実戦であり、しかも火縄銃を大規模に使った戦の指揮はこれが初めてであった。とはいえ、散々戦の始末については報告書で詳細に確認しており、各隊の隊長も、軍学校の第一期生であり歴戦の強者であった。既に洞城向かいの丘に作られた鉄砲櫓、その北西に幅一間、深さ二尺の空堀とその土を使っての土壁を作成済みであり、見かけの高さは四尺近くとなっていた。そしてもう一つの策についても、順調に準備ができているという報告を受けていた。ただし、その真中に高原川があるため、そこが途切れている構造にはなっていたが。


 そして、木曽義康が仮設の陣を築き終わるころ、本隊が到着し、石神城、洞城を攻略して吉城郡になだれ込む構えを見せていた。物見隊の報告では、洞城向かいの丘の上にある鉄砲櫓、その奥にいる兵は馬印から牛丸重親が主将と知れた。ただしその数は、足軽二千余りで、鉄砲隊もいる模様、とのことであった。この報告は概ね正しかった。土城の田中隊から二百、桜洞城から二百を抽出したため、一鍬衆千九百、鉄砲隊四百の合計二千三百が籠っていたためであった。鉄砲隊は、中筒だけでは足らず、小筒も含めて四百であった。小筒は中筒に比べ中距離以上の威力は大きく劣るが、接近しての使用を考えればそれほど劣らない。操作もほぼ同じであるから、近距離であれば小筒だからといってそれほど戦力が劣るという訳ではなかった。



 山縣昌景は、木曽義康を呼び、まずは対岸にある櫓を落とすべく命令を発した。順当に、対岸にある櫓、石神城、洞城、洞城向かいの丘の櫓を攻め落とし、更に牛丸重親が詰める陣を踏みつぶせば話は済む。そのはずであった。多少小高い丘の上に石垣があるとはいえ、対岸の櫓は所詮は小さな櫓であった。正に火も出んばかりに攻め立てれば落ちる、そう考えていた。

 こうして、木曽隊八千の石神城前櫓攻撃を端緒として、甲斐武田家の飛騨攻略戦が開始されたのであった。


 平野右衛門尉は甲斐武田軍が川を渡ったところで号令を発した。

「打ち方始め」

 五段打ちであった。十数えるうちに次の隊の銃撃が開始され、これが延々と続いた。といっても一度に出る弾は二十発でしかない。だが、確実に十数人が脱落し、それが十数えるうちに次々に倒れるのであった。兵の士気は徐々に鈍りつつあったが、だがまだまだ戦意が衰えたとはいえなかった。遂に鉄砲櫓の直前の石垣前に到達する者が出始めたのは、二十発を撃って半分が替えの鉄砲で撃ち続け、残り半分に一回目の整備命令を出した直後であった。だが平野右衛門尉は石垣を完全に信用しており、落ち着いてこぶし下がりに打たせ続けた。


 木曽義康率いる甲斐武田軍は鉄砲櫓に到達した。あとは入り口を発見して破壊し、そこからなだれ込めば占拠できる、そのはずであった。しかし、多大な被害を出しながらも裏側まで回った兵が見たのは、入り口などない、という事実であった。内側から縄梯子を下して出入りする構造となっていたため、入り口そのものが存在しない。このような櫓を、木曽義康は初めて見た。既に兵の半数近くが手傷を追い、或いは死亡して脱落している現状から、使い番を出した。

「かの櫓は出入りできる構造ではございません、捨て置き、河原沿いに北へ、牛丸重親が陣をこそ攻めるべき」

 この言葉に、山縣昌景は状況を悟ったのであろう、分かったと言って本隊が河原沿いに牛丸重親の陣を攻め立てるよう命じるとともに、木曽義康はその後ろから陣を纏め次第続くように命じ、使い番を出した。


 牛丸重親は実戦経験こそ劣るが、軍学校第一期生、その教範を作る際に参画していたほど、草太が安心して西越中、能登、加賀と兵を進める間に飛騨を任せられるほどの将であった。一町まで近付くのをじっと待ち、鉄砲隊による銃撃を行わせた。四百の銃弾が飛び、三百近くの兵が脱落した。だが鉄砲は一度打つと弾込めに多少の時間がかかるものだと知っている山縣昌景は、構わず軍を前に進めてきた。

 得たりと牛丸重親は一鍬衆に投げ槍の投げ方を命じた。ここには一つ、工夫があった。投槍器は材料さえあれば、少し器用な人間ならば半刻もあれば作れる程度の、非常に簡単に出来る道具であった。そして材料の木材も革も余っていた。留め輪だけは鍛冶方が作るが、これもそう難しいものではなかった。したがって、最初から全ての投げ槍に投槍器を巻きつけておき、命令一下、五本用意させた投げ槍を全て投げることができるよう、準備させていた。二本投げたところで一度止め、弾込めの終わった鉄砲隊を出してまた撃たせた。千九百の投げ槍が二度、計三千八百の投げ槍が突き刺さり、鉄砲隊の攻撃と合わせて三千名近い脱落者を出したところに、更に鉄砲の追い打ちであった。その時一発の火矢が合図のように飛んだのが見えた。


 四度目の投げ槍が飛び、投げ槍はそれで打ち止めであるらしかった。既に七千超える脱落者を出しつつも、山縣昌景は高原川付近で途切れている空堀と土壁、そこに兵力を押し込めれば勝てると考えていた。幸いなことに洞城の鉄砲櫓からの銃撃は高原川河川敷までは届かぬようであったため、河川敷に圧力をかけるべく殺到していった。後方より更に木曽義康率いる四千が更に殺到してた。このまま押し込む、それだけを考えていた山縣昌景は、水位が急激に上昇していることに気が付かなかった。


 ところ変わって、上流、奥飛騨で合流するもう一方の川である、蒲田川の上流に作られた堰では、火矢の合図、無論間に何人もの合図を上げる者がいたのであるが、その合図を見て堰を切った。その流れは奥飛騨で高原川に合流し、通常の川の水位に戻し、更に水位を増した濁流となって高原川を下って行った。その下流では、甲斐武田軍が展開し、河川敷付近の空堀の切れ目、そこを目指して殺到していたのであった。



 姉小路家日誌天文二十三年神無月朔日(1554年10月27日)の項はこう続けられている。

「かねてより支度せし濁流の計により甲斐武田方は僅か千数百まで数を減らし、撤退致し候」



 勿論、この後の追撃も行われなかったが、川から三々五々命からがら上がった甲斐武田軍の兵を待っていたのは一鍬衆の槍であり、大部分は濁流で命を落とした。いっそのことそこまで体力が持てば、であるが、越中まで流されたものの方が助かったかもしれない。無論、濁流から這い上がったところで投降したものは助け、鰤街道を通じて甲斐武田家に送り返したのは言うまでもない。


 三日もたたずに水位は戻り、普段通り水をたたえた高原川を横目に、一鍬衆の一部は空堀を埋め戻す作業に追われたのであった。 


 こうして、甲斐武田家の飛騨侵攻は二万の兵うち一万八千を超える兵力を失い、何ら得るところもなく撤退する、という結果に終わった。甲斐武田家にとって幸いだったのは、生き残った中に山縣昌景と木曽義康が含まれていたことだけであった。

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