百一、加賀の苦戦
朝倉家のうち朝倉景紀率いる兵八千と一向門徒衆一万が北上し、大聖寺城、山田光教寺を攻撃し、更に加賀に乱入するために出発したという事は既に述べた。
姉小路家日誌天文二十三年長月十六日(1554年10月20日)の項にこうある。
「後藤帯刀殿、金沢城の一鍬衆四千を連れ大聖寺城に入り候。早速長沢光国と軍議仕り候処、顕誓殿参り候て曰く、我らも身を守るため戦うとぞ。後藤帯刀殿、一鍬衆の装備一式を二千人分渡し候て曰く、山田光教寺を守り候え。ただ我ら一兵足りとも通さざる所存なれば、用心のためなり、とぞ申しける」
大混乱の始まりと言われる第一次姉小路包囲網、そのうちそれまで仇敵であった越前一向門徒衆と朝倉家が手を組み、加賀大聖寺城の攻撃に対応した動きであるとされる。姉小路家の諜報網はこの動きを事前に察知したからこそ後藤帯刀の軍が大聖寺城に入ったと考えられる。逆にいえば、それだけ姉小路家の諜報網が、同盟関係にあったはずの朝倉家にすら及んでいたことがこの資料から読み取れるのである。むしろ積極的に、朝倉家の裏切りを誘うために草太が若狭出兵を決めたと考える論者もいるが、そこまで考えるのは考えすぎであろう。
因みにこのころから高屋平助日記が底本ではなく、別の資料を用いることが多くなっていく傾向がある。これは姉小路家の活動範囲が広くなっていくにつれ、姉小路家日誌に書き留めるべき事象が草太の周辺以外で生起し始めたことに起因していると考えられている。
後藤帯刀は一鍬衆のうち千を金沢城に残し、中筒隊を含む四千二百を引き連れて長沢光国のいる大聖寺城に入った。朝倉家の裏切りについては服部保長により既に通報されていたためであった。
しかし、朝倉家、一向門徒衆連合軍一万八千に対して大聖寺城には鉄砲隊が五百いるとはいえ一鍬衆と合わせても五千五百しかいない。背後には山田光教寺があり、絶対に通すわけにはいかない。とはいえ、兵の数が違いすぎた。その質の違いは相当の差があるにしても、仮に朝倉家、一向門徒衆連合軍が大聖寺城攻略を考えず大回りに回避した場合には、それを何とかできるほどの数ではなかった。もし敵が戦いを徹底的に避けて山田光教寺攻撃のみを目的とした場合には、山田光教寺を攻撃させないことができない、という意味では、戦闘に勝つこと自体はできたとしても戦略的には敗北であり、山田光教寺が焼き討ちでもされ顕誓上人が無事で済まなかった場合には戦略的には大敗北となる可能性があった。
その意味では、敵次第という問題でもあった。
その時、軍議の最中失礼します、と使い番が入ってきた。顕誓上人が来たという。不思議に思いながらも早速に通させると果たして護衛の厳石を引き連れて顕誓上人が入ってきた。
「軍議の最中、済まぬな。だが、危急の折り故、許されよ」
それは良いですが、と後藤帯刀が言った。
「危急の折りとは、何をご存じでございますか」
顕誓は、独自の嗅覚を持っているらしかった。流石はかつて小一揆を率いた一方の大将であっただけあった。
「越前から兵が、山田光教寺を目標として進軍してくる、その際に途中にあるこの大聖寺城を攻撃するならよし、争いを避けて山田光教寺のみを攻撃されることを怖れている。違いますかな」
なぜそれを、と長沢光国が言ったのを微笑で軽く返し、
「その位、分からなければ小一揆を率いたりは出来はしませぬよ。一向門徒衆だけであればここまで深刻な顔もせぬでしょうし、朝倉家も敵に回りましたかな」
「よくご存じで。さすがでございますな」
後藤帯刀は既に驚かなくなっていた。この顕誓の洞察力に一々驚いていては、全く体が持たない。だがその次の言葉には後藤帯刀でさえ驚かざるを得なかった。
「なに、自分の身は自分で守ろうと思いましてな。一鍬衆の装備一式、あれを二千ばかり貸して頂けないかと思うての」
「御坊、戦事からは身を引く、そうだったのではありませんか。その禁を、自ら破られるおつもりですか」
これには護衛の厳石が答えた。
「じ、自分の、みみ、身を、自分で、ま、守る位、す、するべき、なんだな」
というわけだ、と顕誓は言い、門徒衆を集めて寺を守ると言った。
「それとも、かつての敗将に兵を預けるのは不安かの」
後藤帯刀も之には折れざるを得ず、金沢城に集めてある物資の中から一鍬衆の装備一式のうち投槍器関係以外を二千、山田光教寺に移動させる命令書を書き、使い番に急ぎ金沢城に届けるように命じた。投槍器を外したのは、別段機密保持という訳ではなく、使うのにはある程度の訓練が必要だからであった。
「ただし、一つだけ約束してくだされ。あくまでも、山田光教寺の防衛のみに使う事、可能な限り山田光教寺からでないこと、そして戦が終われば装備一式は返還いただくことを」
顕誓は、一つではなく三つじゃの、と笑いながら了解し、後は大聖寺城の防衛でございます故、退散いたしましょうと言って帰っていった。
顕誓が帰った後も軍議は続いた。結論からすれば、籠城策に極めて近い迎撃策であった。中筒隊が東丸より銃撃を加え、大手門前で一鍬衆が迎え撃つ、という作戦を基本戦略とし、もし北側などですり抜けようという場合には大聖寺城には最低限の抑えだけを残して迎撃に当たる、とされた。複数の道に分かれて進軍された場合には苦しい戦いを強いられそうだ、と後藤帯刀は考えていた。
天文二十三年長月二十二日(1554年10月25日)、姉小路軍が進軍を開始した。
その一報を受け取ったと同時に朝倉家、一向門徒衆も加賀の境を越え、進軍を開始した。しかし越前一向門徒衆と朝倉家も、一揆を起こしては武力により鎮圧してきた仲である。一枚板であるわけがない。一向門徒衆は吉崎御坊跡に集結、朝倉家は一乗谷より進出し、加賀国江沼郡朝倉駅(現在の加賀市橘町)で合流、北上して大聖寺城を攻略することとされていた。合流した夜に軍議が行われ、大聖寺城攻略についての方法を考える際も、両者ともやはり犬猿の仲であった。大手門前から攻めるのが常道とは分かっていながら、つい先年も朝倉宗滴が大手門より力攻めに一日で攻め落としたことも記憶にあったが、先に一向門徒衆が大手門からと言ったために朝倉勢はならば我らは裏手から攻めると言い出し、いや裏門は我ら一向門徒衆の方が良いと言い出しはじめ、軍議は紛糾した。
だが、朝倉景紀は紛糾した議論を纏めるすべを知っていた。最初から総大将として朝倉景紀が推された理由は、この辺りにあったのかもしれない。
「ならば全軍をもって宗滴様の方法と同じく大手門より攻める。先陣は」
と言って永楽銭を一枚出した。
「表が出れば一向門徒衆が、裏が出れば朝倉家が仕ることとする。異存は……ないな。では」
と永楽銭を投げた。結果は表、つまり一向門徒衆が先陣であった。一向門徒衆の中心人物、富田長繁が率いる一向門徒衆一万が先陣として、朝倉勢は後詰として大手門を攻めたてることとなった。
一向門徒衆の中心人物という事になってはいたが、富田長繁は歴とした朝倉家の家臣であった。ただ、一向門徒衆を纏めるものが庄屋程度しかおらず、それではどうにもならないという事で、一向門徒衆が選んだのが富田長繁だったに過ぎない。富田長繁自身は一向門徒ではなかったが、一向門徒衆にはそれはどうでもよかったのであろう。ただ、奉行として何度か民の調停を行っており、その裁定が民に評価されただけだったのかもしれない。
その富田長繁はこの度の出兵には、内心では反対であった。特に一向門徒衆は扱い方がよくわからない一団であったためであるが、それ以前に兵の練度、武装の類を考えるとどう考えても数で押し包む以外に勝ち目はなかったが、数で押し包めるだけの広さが大聖寺城前にはなかった。一向門徒衆の持っている粗末な槍や錆びた脇差、胴丸を付けているものも稀にはいたが、多くのものは普段来ている着物であり、どう見ても単なる布であったから、防具としては全く期待できない代物であった。また、鉢金をしているものも稀にはいたが、陣笠一つ持っているものもいなかった。ただ、やたらと人数がいるだけであり、最もひどいのは普段着に竹やりや鍬といったいでたちのものさえいた。
「鉄砲隊除けの肉の壁、か」
尾山御坊前合戦の話は、富田長繁も聞いていた。接近するために農民兵を撃たせて僧兵を温存し、そうして接近戦に持ち込んだのだということであった。勿論、そのような非情な手は取りたくはないが、物見一つ満足にできない一向門徒衆にあっては、単純な突撃以外に方策がないのであった。鉄砲隊がいるに決まっているのに、ただ無駄に殺すだけか。
そう富田長繁は考えていたとき、あることを思いついた。
隊を二つに分け、一つはまっすぐに城門前へ、もう一つは津葉城の南を回らせる。これならば、まだ被害が減らせるはずだ、と。
そして、必要な連絡をするのであった。もう一方の大将には、大庄屋の午五郎というものを充てた。
翌日払暁をもって野営地を引き払った朝倉、一向門徒衆連合軍は、一向門徒衆を先頭に進軍を開始した。
物見の報告によりその目的地が大聖寺城を大きく回避する道ではないことを確認した後藤帯刀は、一人胸を撫で下ろしたのであった。大聖寺城付近で戦うならば、戦いに勝ちさえすれば山田光教寺が襲われる心配はまずなかった。それならば、目の前の戦いにのみ集中すれば良かった。
だが、第二の物見の報告はこの後藤帯刀の考えを裏切るものであった。一向門徒衆の一部が津葉城の南を抜ける道に分かれた、という。後藤帯刀は新たな物見を派遣し、その分かれた一向門徒衆が津葉城南の丘を越える道を通るのか、それとも大聖寺城へ二手に分かれて向かうだけなのかを確認させたのであった。大聖寺城に向かうのであれば、特に問題はない。中筒隊の支援もなく一鍬衆の戦いは厳しいものになるが、それでも投槍器による攻撃を加味すれば苦戦はするだろうが負けることはないだろう。
問題は朝倉家の軍がその後に控えているという事であった。同じように津葉城の南を通るのであれば、大聖寺城内に引くことも考慮に入れる必要があった。
長沢光国にも物見の報告は入っていた。長沢光国は鉄砲隊全軍を預かり、大聖寺城の東丸に詰めていた。五千の一向門徒衆を中筒隊だけで止めるとなれば一人十発。その後八千の朝倉隊を叩くとなれば、更に一人十六発。早合は二十。整備が不要なのは三十まで。無理をすれば五十までは打てると言われているが、整備なしでは三十を過ぎたあたりから不発が急激に増加すると言われていた。早合を撃ち尽くして更に発射速度は落ちるがその場で装弾させてなんとか足りるかどうかという辺りか、朝倉隊まで半分に分かれるならば早合だけでもなんとかなるかと考えていた。だが、その分の一鍬衆の負担が増え、結局は苦戦は免れないであろうと考えていた。もっとも、後陣は朝倉家だから、最後の一兵まで立ち向かってくるなどという事はないだろうが、それでもそこまで考えざるを得なかった。
そして、長沢光国の目に東丸から二町の線を一向門徒衆が越えたのが映った。考え事をする時間は終わり、ここからは戦の時間であった。
「打ち方用意、……はじめ」
後藤帯刀は東丸からの銃撃が開始されたのを見て、その方面の一鍬衆は千とし、もう一方向の一鍬衆の指揮に集中することにした。一向門徒衆は目視できる位置には既におり、突撃しか知らない。今回は逆茂木も空堀もない、平地であった。付近の住人は逃がしてあるとはいえ、多少の人家は残っていた。その人家に入るものも見えた。おそらくは略奪を考えていたのだとおもうと、一向宗という宗教は何を教えている宗教なのか、よくわからなくなった。もっとも、考え事をする時間は後藤帯刀にはほとんどなかった。もうすぐ一町の線を越える。投げ槍は、投槍器を使って、人によってはかなり差があるものの一町から二町に概ねは突き刺さる、それゆえ、一町を超えた時点で号令を発した。
「投げ方はじめ」
南方を向いていた兵はこのとき三千であった。つまり、三千本の槍が飛び、一向門徒衆に突き刺さった。この攻撃で二千名近い一向門徒衆が脱落したが、一種の宗教的な熱狂によりそれで止まるような一向門徒衆ではない。三千名と数を減らした一向門徒衆が突撃を続けていた。しかし、同程度の数であれば一鍬衆と一向門徒衆では勝負は目に見えていた。激突前から、後藤帯刀はこの方面の一向門徒衆との戦いを心配することはなかった。
西から迫ってきた一向門徒衆も、東丸からの銃撃により五千のうち四千近い脱落者を出し、こちらも残りは一鍬衆の仕事であった。とはいえ、早合は残り十、この後の朝倉隊との戦いを考えるとかなり弾丸の数が心許なかった。急ぎ今の空の早合を合わせさせ、それを撃ち尽くしたところで三十、何とか凌げるか、と長沢光国は考えていた。
何とか離脱に成功したのは、富田長繁を含む数十人の一向門徒衆のみであった。
もう一方の朝倉景紀は、東丸からの鉄砲がかなり厳しいことを知り、全てを津葉城の南方から攻撃させることとした。これにより接近戦のみ、八千で姉小路軍足軽とどれだけ戦えるかは不安であったが、鉄砲で数を大きく減らすよりは相当にましな戦いができる、そのはずであった。
後藤帯刀が一向門徒衆を掃討し終えたころ、津葉城方面の一向門徒衆後方より朝倉隊が接近中との報が入ってきた。鉄砲の支援は望めず、東丸側には後続する朝倉隊は見当たらず、ということであった。後藤帯刀は後方の予備隊千も含めて全部隊を津葉城に向け、投槍器の用意をさせた。そして、一町の線を踏み越えたあたりでまた号令をかけた。
「投げ方、はじめ」
今度は五千の投げ槍が飛び、四千近い朝倉隊が脱落した。
朝倉隊にとって不幸なことに、この脱落者の中には馬に乗った朝倉景紀、その馬も含まれていた。朝倉景紀自身も右足を貫かれた。それでも気丈に、朝倉景紀は「弓か、強弓だな」と言っただけであった。だが兵の半数近くがこの攻撃により喪われたのを見て、即座に撤退を決めた。
「一乗谷まで撤収する。急ぎ兵を纏めよ」
だが、兵を纏めているのを見てまだ戦意ありと見た後藤帯刀は容赦なく用意させていた第二の投げ槍の用意を投げさせた。これによりまた半数近い二千の兵が失われつつも、朝倉隊は撤退を開始した。朝倉隊が撤退を開始したのを受けて、何とか勝てた、と感じた後藤帯刀であった。
こうして、大聖寺城下の戦いは終わりを告げた。
戦闘が終われば、後方部隊の出番である。あるものはまだ望みのあるものを治療し、あるものは望みのないものを楽にし、死体を荼毘に付し、錆び槍や脇差の類の回収すべきものは回収していった。
しかし、と後藤帯刀は考えていた。もし朝倉隊と一向門徒衆が別行動をとり、一方が大聖寺城を、もう一方が山田光教寺を攻撃するという戦いに出た場合には、大聖寺城を捨てざるを得なかった。戦いの結果だけを見れば圧倒的な勝利であったが、その勝因の多くは敵失によるものであり、辛くも勝利した、というのが後藤帯刀の実感であったとともに、山田光教寺を攻撃されずに済んだという安堵感があった。
やはり顕誓には僧衣以外は着てほしくない、と後藤帯刀は思ったのであった。
姉小路家日誌天文二十三年長月二十三日(1554年10月26日)の項にこうある。
「後藤帯刀殿、長沢光国と共に大聖寺城に籠り、朝倉景紀、一向門徒衆の一万八千ばかりと対戦、そのうち一万六千ばかりを討ち取り候。これにて朝倉家の加賀侵攻は止み候」
朝倉家の加賀侵攻は止み、と書かれているが、朝倉家に外征をするだけの力がなくなったというのが本当の処であると、近年の研究は告げているが、その次第についてはまた別の項で語る機会もあるだろう。




