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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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百、大混戦の始まり

 姉小路房綱、その人生は様々な波乱があり危機も何度もあったが、その中でも屈指の危機が、いわゆる大混戦と呼ばれるこの第一次姉小路包囲網の最初期である。遠征軍として越前を挟んで自領と隔てられ、僅かに水軍により輸送が取れるとはいえ、その水軍もしばしば朝倉水軍の襲撃にあった。無論、水軍そのものが激突すれば問題はなかったが、水軍そのものではなく輸送船団を狙われるとやはり不利は免れない。しかも、危機は飛騨に甲斐武田家の軍が、西越中には東越中より椎名家が、加賀には朝倉家、一向門徒衆連合軍が侵入し、無事なのは他国領と国境を接しない能登と、そもそもの侵攻を行う余裕のなかった美濃国境だけという、まさに姉小路包囲網と呼ぶのにふさわしい危機的状況であった。

 しかも、同時進行で甲斐武田家と越後長尾家が北信濃でにらみ合い、ここに足利将軍家が絡み、若狭侵攻軍の西側、若狭武田家は一色家の侵略を受け始めるという、まさに大混戦と呼ぶにふさわしい戦が繰り広げられたのである。



 天文二十三年長月二十九日(1554年10月25日)に姉小路軍が倉見峠を越え遠敷郡おにゅうぐんへ侵攻を開始した次第については、既に述べた。

 ただし、倉見峠を越えたのは一鍬衆四千のみ、それも木下藤吉郎に与力として岸田常徳、岸田新四郎父子、坪坂新五郎の三名をつけての侵攻であり、どちらかと言えば誘いの侵攻であった。



 そして、同日、朝倉、浅井連合軍が敦賀より北国街道を経て三方郡に侵入し、これを姉小路軍が迎撃した。世にいう美浜の合戦である。



 国吉城の東の平野部の住民は一時疎開させ、一鍬衆が空堀を掘り、掘り出した土で土壁を作り、更にその上に逆茂木を植えて朝倉、浅井連合軍を待った。連合軍は果たして敦賀より北国街道を通じて侵入してきた。そして姉小路軍が防衛陣地を構築しているのを見て驚きつつも、主力は後瀬山城攻略に向かったものと考え、それゆえの防御陣地であると考えていた。滝川一益が敵軍との距離を予め二町図っていた地点を越え、一町半に侵入したところで打ち方を命じた。千五百の鉄砲隊を五つに分け、新型の中折れ銃隊と合わせて一度に五百発ずつ、十五数えるうちに一回の射撃を行った。二巡するところで一度打ち方を止めさせた。二町圏内の敵兵がほぼ全滅したためであった。


 驚いたのは朝倉義景、浅井久政の連合軍であった。

 両家にも鉄砲はあった。特に浅井家は国友村を領内に持ち、小筒ではあったが鉄砲隊がいたが、現状として一発発射から次弾発射まで七十から百数えるだけの時間がかかった。それが十五程度で、とは練度が違いすぎる。しかも一町半から二町でも十分な効果があったが、小筒は一町以下でなければそもそもの攻撃能力は低い。届かせるだけならまだしも、殺傷力という意味では弓でも二町ではかなり厳しい。それを、姉小路家は平気な顔をしてその外から一方的に鉄砲を撃ち、一度に二百からの脱落者が出ているようであり、十五程度で次弾を発射している。連合軍は一人を傷つけることも出来ずに一方的に二千程の兵力を失うという結果になった。一応撃った小筒も、ほとんどは届かないか、土壁に当たり小さな穴を開けただけであった。

 小筒では十分に効果があると認められた竹束も、中筒を装備する姉小路軍にはほとんどが一町まで接近できずに貫通し、ほとんど意味がなかった。それ以上の出兵を取りやめ、後方に残してきた部隊二千の合流を待ち、夜襲をかけるべく軍を休ませたのであった。


 草太は、一鍬衆をもっと木下藤吉郎につけてもよかったかと思いながらも、万全を期するためにはこの位でなければと考えていた。敵の攻勢が一度止んだのを見た滝川一益は、早合の合わせを指示し、併せて尾栓を開けないでできる整備を行うように指示を出した。といっても、ぼろ布で銃身内部を拭く程度でしかないが、中折れ銃隊はそれで充分であった。また薬莢を回収させ、再度早合として合わせさせた。七太郎の実験によれば十回程度は再使用が可能だというため、その半分の五回は再使用可能、という事としていた。勿論、変形したりしたものは回収したうえで使用済みの袋に入れ、後で溶かして再度薬莢として製造することとされていた。


 渡辺前綱は膠着状態になったのを見て、夜襲があるべきと考え、今のうちに兵を休ませておくことと進言した。一鍬衆は休ませたが、渡辺前綱を中心として夜襲に対応して敵陣に切り込むことも視野に、作戦を練り直した。

「一鍬衆は現在も四千が山の南に展開しておりますから、これを前進させて南方より敵側面又は後方より突くことを考えております」

 しかしこれには草太が難色を示した。何よりも、数が違いすぎるためであった。二万のうち一万七千程度は確実に残っていると考えるべきであるから、おおよそ四倍を超える数の敵がいる計算であった。

 正面はと言えば

「鳴子がありますから、敵の侵入については迎撃は可能でございます」

とは滝川一益であった。ただし、確実ではない上、動物などでも反応するということであった。


 その時、ふと草太が思いついたのは、もし夜襲をするのであれば篝火などは焚かない、という点であった。焚けば位置が分かるためであるためであり、逆にいえば夜襲を考えているかどうかを篝火で判断できる、という事でもあった。そこで草太は決断した。

「滝川一益、篝火があれば夜襲はない。篝火の位置から一町半から二町離れて銃撃を加えよ。敵陣が崩れ次第、一鍬衆が側面より攻撃せよ。篝火がなければ夜襲を警戒せよ。いずれにせよ一鍬衆は前進せよ。そちらからの夜襲については物見を出し、発見次第攻撃に移れ。投槍器も擲弾筒も使用を許す。判断は任せる。……よい。まずは眼前の敵を破るのが最優先だ。その後の戦は、また補給の機会もあるだろう。夜襲なく敵陣を夜襲できるならば、敵後方側面より一撃し、痛撃した後は一撃離脱せよ。投槍器も擲弾筒も使い、混乱させよ。ただし味方の被害を抑えることを最優先にせよ。深入りするな」

 渡辺前綱が尋ねた。

「銃声がしたらどうすればよいので」

「向こうが夜襲をかけようとして逆襲されているならば今言ったとおりだ。こちらが前進して夜襲をかけるとしても、滝川一益、合流点が中筒隊の射程に入るほどには深入りするな」

 は、と滝川一益が答え、軍議が終わった。

 陽は既に沈もうとしてた。もうすぐ日没であり、夜である。長い夜になるはずであった。

 だが、草太は、そして軍議に参加していた諸将も致命的な間違いを犯していた。それは朝倉、浅井連合軍には銃がある、という点を全く見逃していたという点である。



 朝倉義景も浅井久政も様々な評価があるが、流石に一人の戦国大名であった。昼間の被害を見て夜襲、それも二手に分かれての夜襲をかけることとした。朝倉隊が海沿いの正面、無傷の浅井隊が山沿いの南回りの側面を進むこととした。無論、竹束は貫通するとはいえ一町までは接近できたため、全く無効ではないと判断し、両部隊とも竹束を持っての攻撃と決した。だが、朝倉、浅井両部隊とも致命的ともいえる失策を犯した。それは物見隊の練度の差であったと言えるかもしれない。陣があるからといってそこに閉じこもっているという先入観がなかったとは言わない。朝倉隊が正面を受け持ち、その間に浅井隊が、いるとしても少数の側面守備隊を蹴散らかし、敵陣の側面から攻撃をかけるという作戦自体は間違っていたとは言わない。だが、致命的な問題は、側面攻撃を受け持つべき浅井隊の規模や編成まで既に物見が把握し、その動向まで逐一報告されていた点にあった。更に竹束であるが、擲弾筒のような曲射砲には全く意味がないのである。

 なによりもそもそもの兵の練度が違いすぎた。朝倉、浅井連合軍の兵はほぼすべて多少の訓練を受けた農民でしかないが、一方の姉小路軍は集団戦闘に特化した教練を受けた常備兵であった。そのことを、朝倉家は朝倉領を通過している姉小路軍をみて気が付くべきであった、というのはさすがに酷であるだろうか。単に揃いの装備をつけているとだけしか見なかった朝倉家の見識を責めるのは酷だろうか。



 そして長い夜が始まった。


 まず海沿いの正面、滝川一益隊であった。篝火が焚かれないのを見て夜襲があると判断した滝川一益率いる鉄砲衆は陣を捨て、前進を開始した。夜目の利く物見を出し、戻って敵が二町に迫ったとの報告を受けた直後、探り打ちをさせた。この方は砺波郡合戦で用いられているので覚えておられる読者もいるかもしれないが、時間差をつけていくつかの方角へ撃たせ、その反応により敵を発見する方法であり、果たして三番目と四番目が命中と思われる手ごたえがあった。昼間は五段撃ちであったが、今回は三番、四番を挟む二番から五番までの範囲に対して三段に打った。一斉射七百発の鉛玉が、三十を数える間隔で発射された。各員が四発撃った時点で一旦打ち方を止め、また探り打ちをした。今回は反応がなかったため、物見を再度出し、全部隊に前進命令を出した。途中一度山中に隠れていた小部隊の突入があったが、両脇を固める一鍬衆の槍により即座に排除された。


 物見がまた帰って来て、四町の処で部隊の立て直しをしている模様とのことであった。即座に滝川一益は途中山際から出てきた小部隊は全て一鍬衆が対応しながら二町の前進を行い、三段打ちにより各員一斉射を行い、手ごたえがないのを見てもう一町前進して再度三段打ちをしようとしたところで、朝倉景隆の鉄砲隊三十が火を噴いた。その銃口からの火を見て鉄砲隊の存在に気付き、その周辺を中心に銃撃を行った。だがこの銃撃により十名が負傷、三名が死亡とういう被害を出してしまった。

 だが、朝倉家の反撃はここまでであった。小部隊による何度かの山影からの切込みも全て一鍬衆が対応して被害も特になく撃退し、正面の火縄銃隊も火縄の光を見ただけで集中攻撃を加えているという事情も手伝い、朝倉家にとっては朝倉景隆の鉄砲隊の銃撃が成功しただけでも奇跡に近い出来事であった。既に小筒をもった鉄砲隊も全滅し、朝倉隊は若狭に入ったときの軍勢一万二千のうち一万を失い、本陣に逃げ込んでいた。


 滝川一益は味方を撃つ危険性を考慮して本陣付近への銃撃を控えたので、漸く朝倉隊は休めたのであった。



 もう一方の浅井隊は山際、谷になっている部分を、明かりもなく進んでいた。竹束は肩に担ぎ、火縄の光を見たら前に構える、という事で先を急いでいた。だが、二十二日の月は彼らを照らし、夜目の利く物見はそのような浅井隊を見逃さなかった。距離一町を切ったところで、渡辺前綱は投槍器による投げ槍を命じた。一度に五百の投げ槍が飛び、全員が投げ終わるまでに八回、これで浅井家の前衛は完全に大混乱に陥った。八千の兵のうち約三千がこれで行動不能となった。

「打矢か、射程は数間先程度のはずだが見えぬ。どこだ」

浅井隊前衛の武将、磯野員昌は見回したが見えなかった。槍を投げたのは一町も先にいたのだから当然であった。ただし、槍の刺さり方を注意深く見ればやや斜め上から刺さっていることから、打矢のそれとは違うと気が付くことができたかもしれなかったが、そこまでの観察眼はさすがの磯野員昌も持ち合わせていなかった。

「竹束を立てよ。敵兵が近い。槍を構えよ」

絶叫に近い磯野員昌の命令も、混乱した兵には届かなかった。渡辺前綱率いる一鍬衆は夜の平野で一町の距離を三十を数えぬうちに詰め、両翼に配した与力の三林善四郎、黒瀬左近の二人の隊と協力して鶴翼の形に包み込むように浅井隊を包囲殲滅していった。混乱し、兵数もそれほど変わらなくなった浅井隊に、組織的な反撃など望むべくもない。ただ浅井久政の後退の声を背に撤退戦を戦い続けるだけであった。本陣に逃げ込めたのは、浅井久政を含む約千五百の兵で、磯野員昌は気絶しているところを捕縛された。


 そして、朝倉隊、浅井隊の両部隊とも惨敗したことにより、両家は若狭からの撤退、立て直しを図ることで合意したのであった。



 こうして、この日の合戦、後世にいう美浜の合戦は、姉小路家の一方的な勝利により幕を閉じた。

 被害は、朝倉家は一万二千の兵のうち二千が残っただけ、浅井家は八千の兵のうち千五百が残っただけであり、特に重臣磯野員昌を捕らえられるという大きな被害を出した。この後、浅井家は力を失った朝倉家を見限り六角家に近付き臣従に近い形をとっていくのだが、それはまた後に語る機会があるだろう。

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