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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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九十九、大混乱の前の静けさ

 時間を少しばかり遡って、草太がこの半月間に行ったことを振り返っておかなければならない。そうでなければ、この後の展開の意味が分からなくなるためである。

 姉小路家日誌によれば、天文二十三年長月十一日(1554年10月8日)に国吉城落城、その戦後処理を行っている。そして、その後内政方の職務をこなした旨の記述の後、長月二十三日(1554年10月20日)にこうある。

「姉小路房綱公、将軍足利義輝公に謁見致し候。種々話をされ候処、足利義輝公よりご下問あり、さる時ならば如何せん、房綱公、さる時は仕方なし、火の粉を払うのみなりとぞ」

 この一文のみでは意味が通じない。前後にも、将軍足利義輝と話をした部分がないためである。ただし、「火の粉を払う」とあり、またその後の展開からすると、草太が朝倉家について報告したのではないかと推測される。その時はどうするのか、という質問に対し、火の粉を払うのみ、即ち対決すると答えている。これに対する将軍家の反応は記録されていないが、その後もほとんど変わらない付き合いが、少なくとも数年の間は続くため、将軍家の京奪還のために黙認された、というのが一般的な見方である。



「評定を始める」

 草太が言って評定が始まった、国吉城が落城した直後、まだ軍が残敵を、と言ってもほとんどが降伏した後で、ただ国吉城落城、三方郡が姉小路の手に置ちたという各村への通達のための兵を派兵した後であり、残敵の大部分は農民の小遣い稼ぎに使われた。いわゆる落ち武者狩りである。

 その上で、まずは内政を、と手配りをした後、服部保長が奇妙なことを報告した。朝倉家、そして朝倉家に従属する浅井家が兵を集めているという。その数が通常の一向一揆に対する数に比べてかなり多く、合計三万に迫る勢いであるという。

「まだ集結が終わっておりませんので正確な数は分かりかねますが、その向かう先は明らかかと」

 加賀か、若狭遠征軍か。或いはその両方か。

 現実に若狭遠征軍に朝倉、浅井連合軍が向かってくる場合には、両者とも精兵でなる家である、かなりの苦戦が予想された。合戦の地は国吉城の東、幅五町ほどの海岸沿いの平野部と定められ、ここの住民の疎開も決められた。勿論、補償は約束させようと決めた。そんな時、弥次郎兵衛が妙なことを言い出した。

「付近の庄屋にいくばくかの銭をを渡し、酒でも向こうに差し入れさせましょうか」

 油断を誘う策としては、順当な策といえた。ただ、差し入れるならば敦賀にまで出なければならない。それ故、今回はその策は見送られることになった。


 また、この時期に特筆すべきは、朝倉家は水軍を強化していることにあった。最初、奈佐日本介に話を持ち掛けたが、それは拒否されたため、自らの水軍を建軍すべく鋭意努力中とのことであった。これが今回の姉小路攻めに間に合うかどうかは、かなり微妙な情勢であった。船の数は確かにそろうかもしれなかったが、教練を含めた戦法については全く理解がされていかかった。これは海を通じて草太と加賀を切り離す、という意味でも重要な事であったが、同時に北回り航路の寸断も意味していたから、奈佐家が拒否するのは無理もなかった。

「揃いも揃って、外交感覚がないのかね」

と草太は内心思わないでもなかった。


 朝倉家と浅井家に不自然な兵が集まっていると聞いたがその詳細についての報告は、国吉城落城から数日後であった。その数は、朝倉、浅井家は合計約二万八千、そのうち朝倉家から加賀への侵攻部隊が八千の他一向門徒衆が一万を差し向けることとなっていた。当面の目標は大聖寺城、及び山田光教寺であることは明白であったが、その後、加賀を手当たり次第に攻略する、というのが基本方針であり朝倉景紀が主将となって北上することと予想された。

 草太たちと直接戦う部隊は兵二万と兵士数だけを見ればやや優勢であるが、姉小路家の軍勢は補給隊及び医療隊を含んでおり、しかも二正面作戦を余儀なくされることから、朝倉家および浅井家の方が相当に兵数からすると有利に立つことになっていた。

「防諜など考えもしない家柄ですからな、訳もありませんな」

とは服部保長の言であった。

 だが、朝倉家、浅野家連合軍が二万、それが若狭遠征軍に襲い掛かってくるというのは明白なことであり、更に加賀に一万八千の兵が向けられるのも間違いのないことのようであった。



 そして草太は将軍足利義輝に謁見した。

 まずは朝倉家、浅井家の現状について話し、場合によっては越前及び北近江を攻めなければならないと説明した。将軍足利義輝は、少し瞑目して考えたが、是非もないことよ、と言った後、逆に質問した。

「それで、実際のところ攻撃を受けた場合にはどうするつもりだ」

 草太は答えた。

「降りかかる火の粉は払うのみにございます。どうしてもとあれば、一戦に及び、越前及び北近江東岸を攻略せねばならぬやもしれませぬな」

 そうか、と将軍足利義輝は短く答えた。どうやら将軍足利義輝には、またぞろ一向一揆との戦いが再燃しただけであろう、と考えているだけのようであった。


 このことの他に、草太は足利義輝と若狭武田家について話をした。

「位にあらざれば、若狭武田家当主武田信豊殿には退いていただくことを考えております」

 足利義輝は、さもありなんという形で答えた。

「実権は、どうなろうと構わぬ。ただ若狭武田家が残るようにだけはしておけ。場合によっては、嫡男武田義統に家督を譲らせる、或いは誰かを武田信豊の養子に入れ乗っ取るという事でも構わぬ。若狭武田家が消えなければ、何もいう事はない」

 は、ありがとうございます、と草太が礼を述べると、足利義輝はあきらめたように言った。

「力なき、位のみの将軍家よ。追認すること以外、それほどできることも少ないわ。……丹波まで落とした後は、京に戻る、その手伝いを頼もうと思うておったが、さてどうしたものかな」

 草太は、意外な気がした。さてどうしたもかなのとは。否応なしに手伝いを命じられるものだと思っていたからであった。続けて足利義輝は言った。

「京へ帰還の手伝いをするという事は、中央の政界へと入れることになる。それが、姉小路房綱、そなたのためになるのかの」

 確かに中央政界への進出は、可能なら避けたい事の一つではあった。だがそれを足利義輝が気にもんでいるとは、意外な気がした。



 さて一方の若狭武田家当主武田信豊は軍をとりあえず集めたがその数は三千程度であったため、後瀬山城に入れるのが精一杯であり、更に迎撃体制など思いもよらかなった。ただ、戦がある可能性が高いという通達自体は行っていたから、更に千近くは即座に集められると、かなり楽に考えていた。また朝倉家からの密書によれば、背後を朝倉、浅井の兵、およそ二万が突くと書かれており、そのうち浅井家は一万に届かぬというが、全て若狭の姉小路軍攻撃に宛てられると書かれてていた。

 朝倉家、浅井家の兵力を合計すると姉小路家の総兵力とそれほど大きな差はなく、更に背後を脅かす兵力という意味で挟撃という形となり、武田信豊はかなり楽観視していた。上手くすれば粟屋氏が治めていた土地まで自国の直轄領に組み込める、とさえ思っていた。実際には、精々粟屋氏が治めていた三方郡を朝倉家に奪われるのがおちであるのだが。



 もう一つ、これは一年以上も前に大幅に時を遡らなければならない。草太は栗田彦八郎に二つの城の改修を命じていた。正確に言えば、二つの砦であった。これは、太江孫八郎の手控えによる推定であるが、少なからぬ財を傾けての改修であった事が判明している。その遺構は、一国一城令により破却された支城の例外として、今も堂々たる威容を見せている。

 ただし、現状としては姉小路家の事実上最後の砦として機能していたと言われさえもして居る。何より本城より大きな鉄砲櫓が張り出しており、それも二城が連携する形で補完しあうという、この時代としては画期的な城郭であり、草太がこれを作った意図について様々な憶測が飛び交っている、だがとかくにも、築城は間に合い、一町、二町を知らせる目印もさりげなく配置されたことは、間違いのない事実であった。


 草太は報告書を読んで服部保長を召した。服部保長は来て早々、何の用か分かっていたらしかった。

「間道の件にございますな」

 そうだ、と草太が言い、実際どこにつながっているのかを聞くと、

「信濃より西に行き、安房峠の道なき道を越えると、すぐに奥飛騨に着きます。あとは川沿いに奥飛騨を下れば自然に本郷の里に出ます」


 ならば、と草太は言った。

「鉄砲櫓、でございますか」

 栗田彦八郎は思わず聞き返した。今までに聞いたことのない櫓であったからだ。だが草太はこともなげに言った。

「鉄砲櫓だ。矢間のように穴を開けるより、最初から吹き抜けにしておいた方が楽だろうからな。当然、屋根はつけよ。火をかけられても問題ないように漆喰、瓦屋根は勿論の事、石垣にて高さも三間以上にせよ」

 場所は、と聞くと草太は地図を開いた。

「まずはここ、石神城の縁に一つ。それから洞城と高野川の中央、この高台に一つ。この二つだ。出入りは三つ折り屏風と同じ形式で行え。広さは、そうだな、幅十間と奥行き五間もあれば充分だろう」

 ふむ、と少し考えたが、周囲は山地であるが川岸だけは開けていた。つまり何万人いようが狭い川岸を通らざるを得ない。敵は数の利を生かすことができないのだ。確かに、利にかなっていた。


 因みに労役、建設費用の大部分は塩谷氏をはじめとする国人衆に手伝いを命じたので、姉小路家としての出費はそれほどでもなかった。むしろ、これを使う場合には飛騨への侵攻が開始された後であり、国人衆の転び方によっては戦況が大きく変わりかねない、そういう危険性さえはらんでた。

 こうして作られた鉄砲櫓は、石垣の上に幅十間、奥行き五間の広間を持ち、というよりもその広間しかなく、中央に石垣の中への梯子段が一つあるだけのものであった。壁は漆喰塗であるが胸までの高さしかなく、柱が屋根を支える構造となっていた。といって屋根はかなり突き出ていたから、風雨の中でも鉄砲の使用には問題ないようには工夫されていたが。


 この櫓は加賀侵攻の直前に完成しこの鉄砲櫓を視察した草太が、よし、と頷いたのは勿論であったが、問題はあった。それは、ここに詰めるべき将であった。

 おそらく、加賀侵攻中に甲斐武田家が飛騨に来襲していたら、櫓そのものが出来上がっていたとしても詰めるべき将が居なかった。鉄砲隊のみでここに四方を敵軍に囲まれて絶え間なく鉄砲を撃ち、整備し、また撃つ、などという芸当ができるとは、草太は信じていなかった。だれか粘り強い将が必要であると、草太は考えていたのであった。

 因みに、石垣内部には井戸もあり、食料その他も貯蔵できるように工夫されていたので、相当な長期間ここに籠ることができるよう工夫されていた。


 草太は、無駄な出費に終わればよいと思っていたが、時代の波もあり、いずれ来る可能性は高かった。備えあれば、という通り、備えたのであった。


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