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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第四章 戦国動乱編
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九十八、若狭侵攻と大混戦の前奏曲

 天文二十三年長月六日(1554年10月1日)に出発した姉小路軍は、翌日の夜に大聖寺付近で、加賀最後の宿営地で一泊し、ここからが朝倉領であった。朝倉領を通過するのはおおよそ二十里(80km)、約三泊四日の旅となると目されていた。といって通行許可は降りているから、三禁(勿殺、勿奪、勿害)を守る限り大きな問題は出ないはずであった。まず先陣が通過し、本陣は先陣の一日後ろを通るため、五日間にわたって行列が断続的に続いた。勿論、それぞれの荷を背に背負い、肩に担ぎ、補給隊は大八車を引いての行軍であったが、流石は常備兵であり訓練が行き届いているのもあり、この程度でへこたれるものはいなかった。日程に余裕を見て宿営地を決めたが、もう一日程度は急いでも問題がない可能性は高かった。


 この行列を観察していた存在が少なくとも二つあった。一つは言うまでもなく朝倉家、そして石山本願寺であった。朝倉家は特に、自国がこの後実際に戦う相手であるため、その兵装を含めた兵員の数と質を、石山本願寺は国元に残している兵を推し量るべくその数に、それぞれ重点を置いて観察していた。その観察する重点には異なれども注目していたのは事実であった。



 朝倉家の記録によれば、姉小路家軍の装備は、概ね以下のように描かれている。

「姉小路軍の軍装は以下のごときと見えたり。

一、足軽(注:一鍬衆のこと)、三間槍を持ち背には革製背嚢を背負い、腰に小太刀を差し箙に打矢を数本入れているものと見え候。また、全員揃いの黒き漆塗りと見えし胴丸手甲、頭には鉢金を巻き、防寒具とて印伝の綿入れ合羽を羽織りまたは肩にかけ候。また足回りについては全員脚絆、革足袋に足半と見え候。

一、鉄砲衆は、中筒と見られる銃を油紙に包み、また小太刀を腰に差し革製背嚢を持ち、腰巻帯及び斜め掛けの早合入れを持ち申し候。ただし行軍中のこととて早合は入れておらず。余の胴丸その他は足軽と同様と見え候。

一、騎馬隊は、全員騎乗の上、轡をとるものも無けれども粛々と整然と連なって進み候。蔵に付けし長柄之有。鎧については全員大鎧であり、ただし馬鎧は之無候。革製背嚢の他、鞍に振分荷物を持ちたるように見え候えども、中身は相不明候。

一、補給隊及び医療隊については牛馬に引かせし大八車に荷を持ちたるも、その内容は相不明候。二人から三人で一台の大八車を担当致せしものと見え候」

 興味深いのは、既に黒色の胴丸具足が登場しているという点であり、また七太郎の防寒具も印伝、即ち漆塗りになり耐久性を向上させていたという点である。勿論、印伝の合羽にもそれなりの防御力があるのは明らかであるが、それよりも胴丸が既に統一されている、即ち胴丸も支給品であったと考えられた。これだけの記述では胴丸脚絆手甲の材質が分からないが、今日に伝わる実物から、胴丸は竹に鉄張り、脚絆は印伝、手甲は布張りで鉄製の筋を入れ漆で外側を固めたもであることが分かっている。ただし、この時期から既に鉄張りになっていたかどうかまでは不明である。



 石山本願寺の細作は、姉小路軍の数を一万七千余りと、ほぼ正確に掴んでいた。国元にも同程度いると考えられたが、こちらについては推測でしかなかった。姉小路領の末寺からの縁切り状により、そこからの情報が全く掴めない状況が続いていたからであった。


 とにかく、姉小路軍は粛々と進み、先陣が越前と若狭の国境を越えたのは長月十日(10月7日)のことであった。この動きに先立って軍使が発せられ、若狭武田家当主武田信豊、粟屋勝久、逸見昌経、武藤友益、白井光胤に将軍家の命により民の安寧を保つため宣戦を布告する旨を通告していた。草太はこの時点では降伏を勧告せず、姉小路軍は若狭武田家の上級節は全員を更迭し国人衆としても残さず、若狭一国を直轄領とすることを考えていた。民が死んだ目をしているようでは、国人衆として残しても民の安寧は保てまいと考えていたためであった。


 これに対する各家の反応は様々であった。まず粟屋勝久は、国吉城に籠り籠城しての徹底抗戦の構えを見せていた。武田信豊は将軍家の命という事から自らは安全であり、精々、内政への干渉がある程度と考えて一応の用心に後瀬山城に少数の兵を入れただけであった。逸見昌経は早々に恭順の軍使を草太に対して送り、武藤友益は静観の立場を崩さなかった。丹後の白井光胤は常に一色家との抗争に明け暮れており、対応するだけの余力を持たなかった。



 草太はまず、先陣の滝川一益らに国吉城を落とすように命じた。堅城だと粟屋勝久は思っていたらしいが、大手門前に殺到した一鍬衆と共に搦手に兵を伏せ、七太郎の棒火矢にて大手門を破壊して内部に入った一鍬衆は小太刀にて力戦し、力押しに本丸付近にまで乗り込んだ。この勢いをみて脱出しようとした粟屋勝久と少数の兵は搦手に伏せてあった一鍬衆に悉く討ち取られ、或いは捕縛された。粟屋勝久は捕縛されたうちに入っていた。

 草太の前に引き出された粟屋勝久は言った。

「何故我らの城を攻めたのでございますか。我らが何をしたのでございますか」

 草太は、将軍家の命であると言い、更に言った。

「若狭がいつまでも重臣同士で争い、民の安寧をないがしろにしたために、それを見過ごせなくなったためである。……高野山追放を命ずる。連れて行け」


 先陣で手傷を追った十数名は少しの手当てで戦列に復帰することができ、戦力としてみた場合にはほぼ変化がなかった。また、降兵千百余名は元々近在の農民であったため、けがをしたものは手当てをした後、それぞれ帰農を許した。弥次郎兵衛が補給隊の一部として連れてきた内政方の手により炊き出しを行うなどにより、近在の農村は見る間に安定していった。

「旦那、こういうときはね、まずは食べることだよ。人間、適当に食べて飲んで騒いで、そうやって活力を養うものなのさ」

「それにしても、やけに降兵が多いな」

 草太が聞くと、元々は千二百名余りが城に籠っていたという。ただし、戦意自体がほとんどなく、七太郎の棒火矢で大手門を破壊され、一鍬衆が小太刀を峰打ちで使ったためだという。峰打ちは別段、敵兵の命を惜しんだのではない。小太刀の刃も、切ればやはりこぼれていき、戦場で研ぎなおすことも難しいため、戦意があまりないということもあり峰打ちにさせたのだという。

 そのため、敵兵のほぼ全員が降兵となり、ごく少数はそれでも手向かってきたために仕方なく手にかけたのだという。


「苦労を掛けたな」

と草太が言うと、渡辺前綱は言った。

「苦労をしたのは部下の一鍬衆でございます故、某に言うのは筋が違いますが、搦手でとらえる側の方がよほどに大変だったでしょう」

と木下藤吉郎に水を向けると、

「なんの、戦意なく囲まれていると分かると我先にと槍を捨て脇差を捨て両手を上げて降伏してくるのを収容してくるだけでございましたからな。一々縄を撃つのも面倒ですし、細引きも足りそうにありませんでしたから、槍など武装解除してひとまとめにしておきましたが、その槍や脇差の質の悪いことと言ったらありませんでしたな。そういうわけで大部分はただ槍を集めたり集合させたりするだけでございました。面倒だったのは粟屋勝久のいた一団のみでございましたが、それも二十名といませんでしたから、半数が槍の餌食、半数が捕縛致しました。運よく粟屋勝久は捕縛した側にいたようでございます」

 草太が、そう言えば鉄砲はどうしていたのかと聞くと

「七太郎の棒火矢だけしか使っておりませんよ。あれでまだ向かってくるなら別ですが、我先に搦手から逃げようって連中を撃つなんて、武士でも敵でもない、ただ逃げ惑うだけの民が傷つくだけではありませんか」

 そう滝川一益が答えた。



 この結果を受けて草太は、まずは若狭東部、三方郡で帰農するものを帰農させ、各所で炊き出しを行うとともに今後は姉小路家が領することとなったと伝えさせ、弥次郎兵衛は早速部下に手分けして視察に出させた。事前の調査では、既に年貢は集め終えられていたようだが、本当に年貢が集め終わっているかは分からなかった。帳面上のコメの有高と蔵の中身に激しいかい離が見られ、弥次郎兵衛は草太に帳面を見せて飛騨入りした当初を懐かしく思い出したのであった。有り体に言えば、有るはずのコメがほとんどなかった。これは、攻城戦前に持ち出されたのか、籠城の用意として使用されたのか、それとも年貢として治められる前に治められるべき量を書き込んでいたのかも分からなかったが、粟屋勝久は知らぬ存ぜぬの一点張りであった。本当に知らなかったのかもしれないな、と草太は思った。

 最初から今年の分の年貢はないものと考えていたため、それでも全く問題はなかった。この日には水軍の一部が美浜の浜で合流し、運んできた予備の兵糧で兵糧も補充した。国吉城の大手門は仕方がないから来年以降にでも取り換えさせることにして、今はこのままで残置部隊として一鍬衆百を残して先に進むこととした。水軍は、当面は美浜の浜を中心としての哨戒任務と兵糧その他の輸送任務に就かせた。とはいえ、美浜の浜では小早船しか入れぬため活動に限界があり、早々に金沢に帰還させた。


 三方郡は石高も少なく起伏に富んでいて、海があるだけ飛騨よりまし、という程度であり、検地を今からしても雪が降るまでに終わる、という見込みであった。

 ただし荒れ地は意外に少なく、畑作中心で開墾させてもそれほどの収量増は見込めないようであった。このため、税制は六公三民一倉とし、常備兵にして百石当て一人の割合で銭にて税を課す方法を来年よりとる、今年の分の年貢は既に治め終わっている故、治めずとも好い、検地は当分行わない故開墾をせよ、と弥次郎兵衛の配下を通じて命じた。更に、兵役は常備兵によるため、農民に兵役を課すことは当分しない、と布告した。また、来年に限り年貢は雑穀であっても重さが合っていれば可としたため、民は大いに喜んだ。


 この制度に特に喜んだのは漁民であった。加賀や越中、能登でも行われていたが、特に美浜では魚の身は干物にして敦賀で売られて京に持ち込まれ、またその余りであるワタを使用した魚肥も銭になり、豊富な魚肥を背景とした畑作による土壌改良と大規模開墾、実態は同時多発の小規模な開墾であったが、これが行われ、畑作ゆえに税も安く抑えられていたため、その利益は相当に大きなものがあった。大規模開墾は、今までは兵役がいつかかるか分からず、そうなれば手入れも行き届かなくなる、と開墾に二の足を踏んでいた土地にまで開墾が行われたためであった。

 また、兵の徴募も行われたが、こちらも好評であった。田畑を継げない次男、三男を中心に兵役が行われた場合に差し出すべき人間として、或いは労働力として正に飼われていた人間が、いくらかでも定期的に銭を稼いでくるというのは、やはり魅力であったらしい。

 ただし、元々の人口が人口であったため、降兵のうち帰農を希望しないものと合わせて四百名ほどが集まり、残置部隊一鍬衆百と一緒に国吉城に留まることとなった。


 因みに、開墾された畑作であれば真っ先に作られるのが大抵は蕎麦であり、大根であった。そのため、草太の食生活はまた蕎麦一色に染まるのであるが、それはまた別の話である。



 関係のない話だが、筆者は大阪在住である。京都まで電車で一時間であるが、京都の蕎麦として名高いにしんそばというものがある。あれが、どうにも好きになれない。

 子供のころにニシンの本場、北海道にいたせいか、どうにもにしんそばに入っているあのニシンが、身欠きにしんを茹で戻したあのニシンが、どうにも許せないのである。だが草太のいる戦国時代には、切り蕎麦もない時代である。にしんそばは一説には明治期に成立したものだと言うが、江戸期には既に北海道の江差地方には似たようなものは存在していたらしい、という。

 だが、京都は歴史的に干し魚を多く消費する土地柄であり、それもなぜか大阪湾の魚よりも北陸の干し魚の方が珍重されたというから面白い。やはり鮮度の問題なのだろうか。天皇陛下の食事を支える御食国みつけくにとして古くから若狭、志摩、淡路が挙げられているが、魚の鮮度を考えればどう考えても塩漬けか干し魚にする他はないのだが、あまり塩漬けの魚は聞かない。鯖などはあるものの、どちらかと言えば庶民の味である。大陸風に干してあるものの方が高級だったのだろうか。興味は尽きないものである。

 話が逸れた。



 草太は国吉城を落とし、三方郡を支配した。その支配体制の固まりを見ていたのは、姉小路家だけではなかった。朝倉家の目も注がれ、石山本願寺の目も注がれていた。とはいえ、若狭は一向宗がほとんど力がなく、真言宗が篤く信仰されていた。草太は三方郡支配直後に諸寺、特に古刹である妙通寺には、西越中瑞泉寺と同様の内容を確認の上、安堵状を発給した。そのため、石山本願寺のもつ情報も朝倉家と同様、というよりも朝倉家から入ってきた情報が石山本願寺のもつ情報の全てであったといってよい。


 三方郡に人口流入が始まったのを見て、姉小路軍は国吉城落城から約半月後の天文二十三年長月二十二日(1554年10月25日)、倉見峠を越え遠敷郡おにゅうぐんへ侵攻を開始した。この日こそ朝倉家、石山本願寺などが待ち望んだ日であった。

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