九十七、若狭侵攻軍出発
姉小路家日誌天文二十三年長月十五日(1554年10月1日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、金沢城にて馬揃えを行い、若狭へ侵攻する部隊悉く集い候。水軍のみ若狭へ同道せざしも、一鍬衆一万千五百、中筒隊千五百、中折れ銃隊二百、騎馬隊及び馬回り千、これに輸送隊及び医療隊三千の揃いし光景、天下の奇観なり。公、短く訓示し、民に対して三禁、勿殺、勿奪、勿害を徹底せよ、若狭へ向かい民を安寧せよと宣い候。その後、総勢一万七千二百名、悉く足並みをそろえ南下し候」
1554年の秋の始まりは、草太にとっては若狭侵攻の始まりでもあり、尾山御坊改め金沢城を発した軍勢、一万七千二百名は、朝倉領である越前を南下したようである。ただし、この動きは事前に姉小路家から朝倉家へ伝達されていたため、通行自体も問題なく通過したと考えられている。
無論、遠征軍であるからどこかの寺なりを本陣として借り受けることも考えられるが、この行軍にはそういった形跡は見受けられない。
ただし、近年の研究が明らかにしているように、この動きは全て朝倉家から本願寺を通じて諸方に筒抜けであったと考えられている。もっとも、草太の側もこの動きを隠している様子もなく、知らなかったのは若狭武田家をはじめとする若狭の衆だけだったようである。これは、姉小路軍の先陣が敦賀を越え若狭へ侵入した際に急いで若狭武田家当主、武田信豊が兵を集めていたことからも知れる。ただし、なぜ若狭武田家に本願寺が書状を出さなかったのかは、歴史の謎とされている。
出陣に先立ち、諸方に散る防衛部隊の武将も含めた最後の軍議が行われたのは、長月十日(9月26日)のことであった。兵の手配りは終わっていた。後は武将が入れば、防備体制は完成であった。
この軍議では諸方の手配りを確認した後、基礎訓練を終えた部隊は半分は増山城に、半分は飛騨に入れることが決定されただけであったが、この軍議の後に特に六名の武将が呼ばれて草太と話をした。その六人とは、飛騨全体を任された牛丸重親、石神城及び洞城に配された平野右衛門尉、土肥但馬守、長山九郎兵衛、若林甚八郎、土城を任された田中弥左衛門であった。これまで特に活躍の場がなかった牛丸重親を始め、辺境の奥に配された平野右衛門尉、土肥但馬守、長山九郎兵衛、若林仁八郎、前線とはいえ来襲の可能性のほとんどない土城を任された田中弥左衛門については、一度話をしておく必要があることが、一つだけあった。
草太は服部保長を従えて、この六人に向かって言った。
「なぜ呼ばれたか、分かるか」
牛丸重親は答えた。
「飛騨が重要だ、というのは承知しております。それで、こんなに武将を充てたのでしょう」
草太は首を振った。
「そのようなことだけであれば、牛丸重親殿、一門衆のそなたが居れば問題ない。精々、それに田中弥左衛門を土城に入れておけば、あとは国人衆に目を光らせれば済む。……おそらく、甲斐武田家が来る」
この言葉に反応したのは、平野右衛門尉であった。
「さてそれは分かりかねます。勿論用心も必要ではございますが、それならば中島城にこそ敵は来るはず。そうなれば我らは後詰という事でございましょうか」
服部保長が一言答えた。
「抜け道がある」
山の民と一部の杣人、地元の猟師位でしか知らぬがな、と言い、軍を通せるほどの幅はないが、と前置きしつつも
「甲斐武田が来るとすれば、抜け道を通ってだ。鰤街道を通っては、あの中島城を抜くまでに死体で谷を埋めるつもりが必要だが、越後長尾家との関係からそのような危険は冒さぬ。ならば来るとすれば抜け道しかない」
「その抜け道の出口が」
平野右衛門尉のごくりと唾をのんだ音が一同に聞こえた。
「そうだ。洞城と石神城、その先にある。しかも、こちらとしては物見は薄くしか出せぬ。……悪いがな、平野右衛門尉、土肥但馬守、長山九郎兵衛、若林甚八郎、四名は城に籠っての奇襲を受けてもらう」
服部保長はそう言い、その後を草太が引き継いだ。
「あくまでも、我々はその抜け道を知らぬ、そういう立場だ。それ故に、ただ城に籠るしかなかった。そういう態を見せよ。洞城の平野右衛門尉、長山九郎兵衛は、民を逃がすことを最優先にせよ。物見は、石神城の南西一里半の桂峯寺、ここまでは出すことを許す。甲斐武田家の軍勢を見たら、すぐに民を逃がせ。ただしお救い蔵などは放棄せよ。あくまでも奇襲を受けた態をとれ」
平野右衛門尉は聞いた。何処まで引かせればよいので、と。
「洞城の西が神岡だ。そこまで逃がし、洞城までで撃退せよ。……牛丸重親殿、分かっていると思うが」
「心得ております。逆茂木、空堀を駆使してせき止める、それが我らが役割でございますな」
牛丸重親が答えた。
「何、小筒四百もあり、鉄砲衆も訓練が終わった者をこちらに用意してもらえる手筈になっております。また、七太郎殿の擲弾筒、あれも配備していただきました」
とにかく、と草太が纏めた。
「飛騨は絶対に人手に渡すわけにはいかない。他は良い。だが飛騨は、我らが故郷というのみならず、鉱山あり、工廠あり、絶対に失うことが認められない。済まぬが頼む」
ここまで言って、草太が頭を下げた。
黙っていた田中弥左衛門が口を開いた。
「美濃斎藤家はどうするのですか。手配りはなかったように記憶しておりますが」
草太は答えた。
「美濃斎藤家は動かぬ。問題ない。尾張織田家がいる以上、飛騨に回す手が足りぬし、無理に抽出するにしても取り分が少なすぎるからな。必要ならば牛丸重親殿、飛騨国人衆に防がせよ」
草太は、美濃斎藤家との同盟を重視しておらず。同盟は破られても仕方がないものだと思っている節があった。
それでも朝倉家は佐幕の家、幕府の命であれば軍の通行許可程度であれば問題がない、と考えていた。先般、加賀南部を欲しなかったことからも領土欲も少ない、と思い込んでいた。
この日の夜、草太は夕餉に好物と思われている蕎麦団子の田楽、近くで捕れたイノシシの炙り焼き、少しの野菜の茹で物と香の物、吸い物を食べながら、佐幕という事と民の安寧が相反する可能性についてぼんやりと考えていたが、どうにも考えが纏まらなかった。若狭武田家は当主武田信豊かその息子武田義統の教育を行って返すのが良いのか、それとも恒久的に姉小路家の飛び領地とする方が良いのか、佐幕も何も考えないなら朝倉家を討ち飛び地でなくする方向を考える方法もあった。現在の室町幕府に対して佐幕を貫くとすれば、必然的に主導権は将軍家にあり、中央政界の争いに巻き込まれるのは避けられないような気もしていたが、それは避けたかった。
今ひとつ纏まらない考えをどうしようもなく抱えながら、つうを相手に蕎麦団子の田楽を食べていた。
そして、つうの膝枕で休み、眠る時間になって膝枕から起き上がって髪を整え誤魔化してもらいながら、この遠征から戻ったらつうを側室にしようと考えていた。勿論、一晩中つうの膝枕で眠るためであり、草太はなんだかんだ言ってまだ十三歳である、それ以上はまだ想像もできなかった。
そのころ、東越中では椎名長常が病床に椎名康胤を呼んで最後の会話をしていた。椎名長常は凡将ではあったが、ともかくも東越中を治めることに腐心したことは確かであった。そして、それは成功していた。しかし、それ以上には決してなれなかった。寸土たりとも神通川以西に領土を広げることができなかった。確かに富山城は手に入れた。それは単に姉小路家が「欲しければくれてやる」と言ったからに他ならない。
その最後の会話は、姉小路家に警戒せよ、注意せよという警告に満ち溢れていた。いつの日か越中を統一する、その際には必然的に敵対する姉小路家は草太という要があってはじめて機能していると、椎名長常は見抜いていた。そして言った。
「姉小路房綱を除ける機会があるならば、ためらってはならぬ」
この言葉を最後に、椎名長常は椎名康胤に家督を譲り、程なく死去した。
同じころ、甲斐武田家の武田信玄は信濃北部に陣取り国人衆ににらみを聞かせつつ、麾下の山縣昌景が二万の兵を従えて安房峠越えの道なき道をひた進んでいた。草太の若狭侵攻の直後に飛騨に攻め込むためには、その侵攻前に安房峠を越える必要があったためだ。といって二万人の兵の兵糧、武具、騎馬武者は馬の飼料など相当量の輜重を引き連れて、道なき道を踏み越えて、道を作りつつ進むのは、山縣昌景でなければ武田信玄以外には不可能であった。その武田信玄は、密書にあったような上杉謙信の動きがないのを諜報網を通じて知っており、武田信玄が飛騨に行った隙を上杉謙信に突かれかねないため、信濃北部ににらみを利かせることのできる位置にいる必要があったためであった。
論者によれば、このとき武田信玄が行けば飛騨は武田家の手に落ちたであろうと言うものもいる。だが、私見ではあるが、武田信玄であったならば攻撃せず被害なく撤兵していたに違いない、と考える。山縣隊の一幕は後に譲るが、この時の敗戦とその人的損失、特に兵の損失は、武田家の戦略を今後大きく損ずるものであったというのが通説である。
そして朝倉家は、朝倉義景を中心に謀議を重ねていた。姉小路家の軍は無事に通過させる、そして若狭への侵攻を行わせ、ある程度までは攻めさせることは、確認した。盟約を切る時期については意見が分かれていたが、若狭に侵攻した直後では早すぎ、若狭一国を攻め落として安定した後では遅すぎた。朝倉景紀の献策により、若狭武田家に救援要請を出させ、後瀬山城落城前後に盟約を切り、朝倉家及び浅井家による攻撃により東西より挟撃して姉小路軍を壊滅させ草太の首を上げる、と決した。そのため、若狭武田家当主武田信豊にだけは予め姉小路家が東より攻撃してくると密書により通報し、後瀬山城に姉小路軍が攻撃を開始したら救援要請を出すように、出せば朝倉、浅井両家が背後を突く、と書き送った。
こうして、それぞれの思惑が形をとりつつ、天文二十三年長月十五日(1554年10月1日)を迎えた。
草太が出陣の儀式をし、出陣であった。先陣は滝川一益、渡辺前綱、木下藤吉郎、および与力として三林善四郎、黒瀬左近、松永丹波守以下一鍬衆六千五百名、中筒隊千及び中折れ銃隊二百、本陣は草太が残りの将兵及び兵站を担う補給隊及び医療隊を弥次郎兵衛が率いて出陣した。また普段は七尾にいる水軍も金沢港に集結し、これだけでも一大奇観であった。




