十、草太の修業生活
そして、鞍馬寺に出発する日が来た。荷は少ない。食料その他は既に別に人足が運んでいるから、身の回りのものだけをもち、時当も同道することから牛車に乗り、時当の供周りを除けば平助のみを従えている。
平助はといえば、普段の脇差・打刀の他、大身の太刀を一本携え、身の回りの細々としたものが入っているのであろう、風呂敷に包んだ荷を背に牛車の脇を進んでいた。
神無月の末か霜月の終わりであることは既に書いたとおりであるが、鞍馬寺から貴船神社にかけては紅葉の名所として知られ、現在の暦でいう11月下旬であればもう見ごろを過ぎるころである。草太達一行の鞍馬寺への道中は、この紅葉の中を通ったに違いあるまい。
余談になるが、この日の日記に小雪が舞い散っていた旨の記述があるが、他にも紅葉を見に来た公家がいたとみえ、牛車と何台もすれ違った旨の記述もある。貴船神社も近く、この時代の公卿も紅葉狩りをしたのか、或いは貴船・鞍馬の信仰が今からは想像もできないほど篤かったのかもしれない。
少ない荷の中には、特筆すべきものは何もない。何着かの着替えだけである。とりあえずの手回り品だけを持って、自動車と牛車という違いはあれども車に載せられ、見知らぬ道をひた走る、というのは、草太にはどうにも最初に海に捨てられた時の記憶がつい蘇ってしまった。あの時も、母親の「友人」は、表面上だけにせよ、優しかった。その後捨てられたが、今回も鞍馬山においていかれる。その鞍馬山行きも、草太の意思は毛ほども入っていない。海と山の違いを除けば、前回母親に捨てられた時と、外見上の状況はかなり似通っていた。
外面として違うのは、鞍馬山に草太の居場所があり、平助という部下がいることだけである。
だが、内面とした場合には、雲泥の差である。
母親に捨てられた際の草太は、ただ従うだけでしかなかったが、今回の鞍馬山行きでは、何の目的もないものではなかった。自分が自分であるという以上に、この世界との関係性を決め、確固たる志を立てるという目的があった。
さしあたって、飛騨国司と定められている。そうなるかどうかは別として、少なくとも生きていくためには何らかの武術をはじめとした技術を身につける必要がる。少し辺鄙なところを旅するだけで護衛を雇う必要が常にある世界で護身術の一つも身につけないのは、どう考えても得策ではない。今は平助がいるにせよ、護身術の一つも身につけるに越したことはない。
鴨川沿いを遡り進む。道は牛車では乗り心地が悪く、歩く方がどれほど楽かわからないが、それでも公家は牛車に乗るものらしい。船と違って不思議と車では酔わないのが、草太にとっては幸運であった。始終、考え事をしながら、時折山の景色に懐かしさを覚えつつ、牛車が進むのに任せていた。
西洞院家を出発し、鴨川に合流する高野川沿いに進み岩倉の村にて一泊、その後、長代川に沿って遡り、厳島神社を参拝、その後さらに遡り、貴船川との合流を右に、鞍馬川沿いに進む。夕刻前には仁王門が見えて来た。
仁王門には西洞院家を通じ一条家からも話が通っていたのであろう、寺に着くなり一人の老僧が現れ、案内をした。その案内に連れられて、枕草子に「近うて遠きもの」と歌われるように、この九十九折りに思ったよりも時間がかかり、本堂につく頃には日が暮れていた。牛車の中は寒く凍えそうだったが、外にいる平助はもっと寒かろう、いや、歩いていればまだ温かいか、と思いながら九十九折りを進むにも牛車に任せていた。
ようやく牛車から降りることが出来たのは、昼に厳島神社を参拝したとき以降である。
現代の資料によれば時当の日記に「昼、厳島神社を参拝す。その夕は鞍馬にのぼりたり」と書かれているだけで、厳島神社側の記録には一切出てこない。非公式な参拝であったか、境内にも入らずだた小休止しただけかもしれない。この当時の鞍馬寺は天台宗に属している。そのためもありその首長は住職ではなく貫主と呼ばるのが習わしである。簡単なあいさつの後、庵に案内されるために草太は時当と分かれた。草太についてはその翌日の項に「鞍馬に草太を預け、帰京す」とあるのみである。この後、時当の日記に草太が出てくるのは、相当後のことになる。
鞍馬寺の本堂に入ると朱塗りの壁に金箔押しの諸道具、特に中央にある毘沙門天と千手観音像が圧倒していた。挨拶もそこそこに見まわしていると、先ほどの老僧が庵に案内するという。時当と貫主は、奥に入ってまだしばらく話をするという。そこで時当にこれまでの礼を言い、合わせて一条房通公にも礼を伝えて、本堂を出た。出たところで老僧が言った。
「何やら、目を奪われていたようですな」
図星であった。草太は何も言い返せなかった。老僧が続けて言った。
「1000年とまでは言いませんが、それに近いだけの歴史あり、その重みというだけですな。虚仮脅しの児戯にも等しいが、何分長い歴史というのはそれだけの価値がありましてな。ま、年寄りも長く生きたというだけで、それだけの理由で尊ばれるでしょう。それと同じようなものですな」
「御坊、名は何と申す」平助が珍しく口を挟んだ。
「拙僧か。この寺の僧正じゃよ。たかだか童の案内で、と思うたが、なかなかどうして偉いものじゃ」
「何が、ですか」今度は草太が聞く。
「己を知ろうとしている。正確には、己がいかにあろうかを知りたい、そういう顔をしている。流されるままではなく、流れをまで自己のものとしようとしておる。並のものではない。しかも、その顔だちは並のものではない。成功するかも知れぬの」
草太の心中が言い当てられた。そんな気がした。老僧は呵々大笑して「これも年の功じゃ」と言った。
「そういえば名を名乗っていなかったな。わしは興仙という、だだの老いぼれた坊主じゃよ。ただ長く生きているというだけで、僧正なんぞ押し付けられてはおるがの」
草太は何となくソウタ爺を思い出し、少し話をしてみたくなった。
「草庵はまだ先ですか」「いや、もうすぐそこじゃよ、ほれそこじゃ」
道を曲がったところから見下ろす場所に小屋がある。それが庵だという。
「飛び下りればすぐじゃが、ま、道を歩こうかの」
この老僧なら何か有効なアドバイスができそうだ。そう思い、草太は興仙に聞いてみた。
「これから行く先を迷っています。私は何になるべきなのでしょうか」
「自分で決めることじゃ。儂には何も決められないよ。……ただ、そうだな。先へ進めば進むほど、お主の意思は反映されないと知れ。例えばこれから出家して僧になろうとしたとしよう。朝廷の貴族どもの意思に逆らってな。となれば、得度も難しかろうよ。勝手に僧を名乗って、名もなき山寺で僧でもする位しかあるまいて。既に朝廷の貴族たちは、お主の行き先を決めておる。それに逆らうのは、愚の骨頂じゃ。逆らえないのではない。逆らわず、そういった身分にとらわれず、考えるのじゃ。水の面は揺れていても、底は案外ゆれがないものだからな」
「お言葉、ありがたく」
「なに、老人の戯言じゃ、聞くもよし、聞き流すもよし。……と、ついたの。これがお主の庵じゃ。日に一度、一日分の食事を運ぶついでに様子を見に来るものがいる以外、特に邪魔をせぬ。何か欲しいものがあればそのものに言うが良い」
老僧は去っていった。草庵に入り、囲炉裏の埋め火を起こして火をおこし、部屋を見回すと、片隅に文机があり六韜三略注釈と書かれた書が置いてあった。中国古代を代表するの兵法書であり、鞍馬山に籠った義経が譲り受けたという伝説もある、鞍馬寺に縁のある書でもある。一条公が手をまわしたのかもしれない。
とはいうものの、草太は確かに和尚について文字を習い書を習い仏典漢籍に親しんできたが、それでも未だ八歳に過ぎない。未だ子供に過ぎないのだ。念のために平助に尋ねたが、平助は漢文はおろか仮名も怪しいという。少なくとも紙筆を用意してもらい、文字から再度習いなおす必要がある。草太は食事を運んできた寺男に、字を教える教授役の僧を一人、派遣してもらえるように頼んだ。同時に平助にもこの際だから読み書きをおぼえるように、と紙筆を一揃え余分に用意してもらった。
翌朝、やってきたのは興仙であった。
「文字も読めぬ、とな。……おお、六韜三略か、懐かしいの。ならば仕方がない。字だけでは分からぬからの。あぁ、平助殿だったか。そなたは仮名からじゃとな」
「御坊に字を習うのは喜ばしい限りですが、僧正の仕事の方は宜しいので?」平助が聞くと「儂など、名前だけじゃ。何もしておらぬわい」と涼しい顔をしていた。
一応の取り決めとして、日の出に起き、昼までは文字を含む勉学、昼から日没までは剣術、その後は自習して就寝、というのが一日の流れとされた。が、興仙は平助の剣術の型を見るという。
「とりあえず、振ってみなされ」
振られた木刀は流石は吉岡流の切り紙である。が、興仙は笑って
「それで切り紙か。落ちたものじゃの。まぁ、長くやっていると貰えるという位の意味合いかの」
「では一本立ち合っていただきたい」怒気を含んだ声を平助はだしたが、よかろう、とばかりに木刀を手に取り、平助の前に立った。木刀の先で直径一尺程度の円を書くと、だらりと木刀を左手に下げたまま、いつでもどうぞといわんばかりである。
「参る」
短く声をかけて裂帛の気合を込めて平助は興仙を上段から打った。草太には打ったように見えた。しかし興仙は、何事もなかったかのようにそこに立っていた。
「素ぶりかの。届かない場所で振っても意味がない」
胴薙ぎ、突き、袈裟がけ……平助は木刀を振った。しかし、興仙には当たらない。かすりもしない。立ち位置も、ほとんど先ほど書いた一尺程度の円の中でしかない。出たのはほんの一、二回、それも一歩ずつだけだった。
「切り紙なら、せめて、儂の木刀を使わせぬか」
実力の違いがありすぎる。平助は最初は、このような老僧に、と怒気を持っていたものの、今では純粋に習う気で木刀を振っていた。振りおろす、袈裟がけはほんの半歩動いてその軌道から外れる。胴薙ぎも、突きも同じだ。突いてからの軌道の変化も、つ、と平助の背後に入り当たらない。
平助がいい加減疲れてきたところで一度間を取って呼吸を整えていると、興仙が左手の木刀を右手に持ち、構えた。
「よいかな、よく見ておけ。構えはそのまま、動くでないぞ」
そう言うが早いか興仙はふと動いて平助の木刀を文字通り斬った。平助の手には、三分の一程の長さになった木刀が残っている。が、木刀を叩かれた感触すら平助の手には無かった。
「こんなものは児戯じゃが、はったりには丁度好かろうかな」
種明かしすれば簡単なことだ。興仙は、かわすと見せてその実、木刀のただ一か所を、素手で打ち続けた。その場所は、峰に当たるところである。引き戻す瞬間に打っているから、引き戻しが少し重いと感じる以外、平助にはそれが分からない。そしていい加減木刀に負荷をかけておいて、裂帛の気合と共に木刀で木刀を斬った。脆くなっているところに刃筋を通した木刀で斬った。平助の手にはそれが分からない。ただ、木刀が木刀で斬られた。ここまでは平助も理解できる。斬るのが折るになるかもしれないが、師である吉岡憲法かその高弟辺りであれば難なく出来るだろう。しかし、持ち手に何の感触もなく、というのは、平助には想像もつかない領域であった。
平助は思わずその場で弟子入りを申し込んだが、言下に断られた。曰く、修業しても、お主ではモノにならぬだろうよ、と。ならば草太は、というと、こちらもものにはならないだろう、という。
「大体、剣の道に生きる、などという志もないのに、剣の道をそこまで究めようとして何になる。天下無双と名高い塚原卜伝は、或いはその高弟といわれる足利義輝は、その剣で何をなしたのだ? なんらかをなしたとして、それがお主の志にとって何になるのだ?」
一息ついた後に興仙は言った。
「志は自分で立てるものじゃ。人から与えられるものではないし、人から奪えるものでもない。ただ自分の中にあるものじゃ。……ま、護身術はあっても損はない故、ついでもあることだし、護身位は教えて進ぜようよ」
そして平助を向き直り
「剣の道に生きたいか、よく考えよ。剣だけに没入したいのであれば、教えよう。だが、そうでなく立身出世の糸口として剣を使いたいなら、今以上にはなるまいよ。……ま、護衛だということだから、草太殿と一緒に護身は教えようよ」
こうして草太と平助は、毎日朝は日の出に起き、昼までは字を書き、或いは書を読み、昼から日没までは護身としてまずは基礎体力から、と野山を走り木を登り、日没頃には庵に戻り再び書見という生活が始まった。




