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黒縄の傷口からあふれ出した無数の黒い腕は結界の外で待機している者達にも怖気と恐怖を与えた。
全てを呑み込んでしまうかのような深黒の腕はそこだけを切り取った、もしくは塗りつぶしたかのように暗く、一切の光を通していない。
芽衣もあの腕を直接見るのは二度目だが、決して慣れるものではない。
触手のようにうねる様も、宗厳や守護人達を追尾する様子も全てが不気味だった。
直感でわかる。
あれは存在してはいけないものだと。
人間の生存本能そのものが危険信号を発している。
あれこそが禍姫の憎悪の塊のようなものなのだろう。
正直に言ってしまえば視界に収めていることすら恐ろしく感じる。
「っ!」
けれど芽衣は結界から一切眼を離すことなく、己がやるべきことに全力を注ぐ。
満足に戦えない自分にできることはこの結界を維持し、幽世への被害を最小限にとどめること。
それは祖母である佳乃や結界維持に協力している巫女達とて同じこと。
誰もが恐怖を覚えているはずだ。
けれど誰一人逃げ出すことなく戦っている。
「私だって――!」
芽衣が己を奮い立たせるように声を上げた時。
彼女の前にある結界の壁が激しく揺れ、視界が真っ黒に塗りつぶされた。
「――ッ!?」
突然のことに芽衣は息をつまらせるが、視界いっぱいに広がった黒いものの正体がなんのかはすぐに理解できた。
当然ながらそれは黒縄の傷口から無数にのびている腕だった。
ビタビタと結界に触れる腕の動きは芽衣を捕らえようとしているようだった。
ごくりとその光景に息を呑むと、次の瞬間視界を覆いつくすほどだった腕は鋭い音とともに掻き消えた。
宗厳が疾風を放つことで一箇所に固まっていた腕を切断したのだ。
腕がなくなったことに小さく息をついた芽衣だったが、彼女はまだ気付いていなかった。
黒縄の視線が自分自身に注がれていることに。
芽衣を襲った黒い腕を疾風によって切断した宗厳は、襲い来る黒縄から距離を取りつつ眉をひそめた。
思い返すのは先程の攻撃。
黒い腕は明確に芽衣のことを狙っていた。
恐らく結界がどのように維持されているのか理解した上で彼女を狙ったのだろう。
しかし、なぜ芽衣を狙ったのか。
「距離でいえば近かったのは芽衣よりも佳乃だったはず。だのにあえて芽衣を狙った……」
あの時、黒縄からの直線距離ならば佳乃の方が近くにいた。
前回も黒縄は彼女を狙っており、結界の要が佳乃であることは見抜いていたはず。
けれど今回は佳乃ではなくそれなりに距離がある芽衣を狙った。
それは決して偶然などではない。
明らかに故意的。
明確な意思をもって黒縄は芽衣を標的としたのだ。
「……見抜いたと考えるべきか」
宗厳は眉間に皺をよせたまま迫っていた腕を全て斬りとばした。
恐らく黒縄はこの結界がどういうものか既に理解している。
そしてもっとも脆い部分も見当がついているのだろう。
即ち、芽衣が維持している部分がこの結界の弱点であることを見抜いているのだ。
複数人で展開する結界は確かに強固だ。
けれど、どれだけ強固なものであっても一箇所に綻びが生まれるとそこから瓦解してしまう。
黒縄は前回自身を封印する式を組み立てている佳乃を狙い、その実力を把握したのだ。
ゆえに今度はそれを避け、彼女よりも結界の維持能力に劣る芽衣を狙った。
本能的にわかったのか、霊力を見て理解したのかまではわからないが、次も狙うことは十分考えられる。
となると、このあとの立ち回り方も考えなくてはいけない。
「柳世殿!」
聞こえた声に視線を向けると何人かの守護人たちがやってきた。
最初よりも数は減っているが、皆そこまで大きな負傷は見られない。
「皆、大丈夫か?」
「はい。ですがこちらもかなり戦力を削られました。幸い死者はいませんが、離脱した者達は戦線には復帰できないかと」
「それは仕方あるまい。だがこちらもまずい状況だ」
「なにか問題でも?」
「ああ。黒縄のヤツ、芽衣のことを意図的に狙い始めおった」
「芽衣様を!?」
「結界の維持能力においてもっとも弱いことを見抜いたのじゃろう。今はこちらに注意を向けているが、再び狙われれば芽衣が維持している結界の面は確実に破られる。そうなると再度結界を張り直す間にヤツは外に出てしまう。いや、それよりも先に芽衣が死ぬ」
「それだけはなんとしても避けなくては……ッ??!!」
最前列にいる守護人の男性が声をあげた瞬間、黒い腕が宗厳たちを分断するように飛来した。
宗厳はそれに舌打ちしつつも彼らに指示を出す。
「ともかくこれ以上戦闘を長引かせるわけにはいかん。お前たちはできるだけあの黒い腕の注意をひきつけてくれ」
「わかりました!」
幸いなことに負傷者はでていないようで、守護人たちは飛来する腕の注意をひきつける。
宗厳も自身に迫る腕を払いながら黒縄までの距離を詰める。
すると、黒縄は巨大な拳を振り上げて宗厳めがけて拳打を叩き込んだ。
眼前にまでせまる拳はもはや巨大な壁であり、僅かに回避が遅れただけでも圧死は免れない。
宗厳は迫る拳の動きを直前まで見極めると、寸前で跳躍し、そのまま黒縄の腕の上を駆けていく。
強化された脚力によって一気に駆け上がるも、その途中でも黒い腕のよる妨害に見舞われる。
「まったくワラワラと鬱陶しいッ!!」
襲い来る腕を全て払いのけ、黒縄の首へ迫る。
どれだけ禍姫に近くとも斬鬼は斬鬼。
首さえ落とせばその活動は停止する。
グッと鬼哭刀を握る手に力が入り、彼の瞳に鋭い光が灯る。
このまま首を落とす。
ただそれだけを考え距離を詰める宗厳だったが、それと同時に黒縄が巨大な口をガバリと開けた。
「っ!?」
粘性の唾液の糸がひく口腔内には漆黒の霊力が集束していた。
宗厳はその危険性をよく知っている。
あれは怨形鬼などが使う圧縮した霊力による熱線。
熱線はどんなものですら溶かし、焦土に変える。
人間に直撃すれば灰すら残らない。
だが黒縄はそれを宗厳に向けているわけではない。
彼の視線の先で黒縄の瞳が細められた。
あざ笑うかのように。
ゾワリと全身が総毛立ち、宗厳は黒縄の狙いを理解した。
射線上にいるのは宗厳ではない。
黒い腕をひきつけるために戦っている幽世の守護人たちだ。
なおかつこの熱線の恐ろしいところは斬鬼の意思でなぎ払うことができるということ。
黒縄ほどの斬鬼であれはそれは容易なはず。
そうなれば結界の外に退避しようとしている怪我人すらも巻き込まれるだろう。
しかも黒縄の傷口から溢れる黒い腕もその数を増し、宗厳を誘うようにうねり始めていた。
腕が向いているのは宗厳ではなく芽衣だ。
「こいつ……!!」
宗厳の額に血管が浮きあがり、瞳には怒りが見えた。
それが心地よいのか黒縄はさらに楽しげに眼を細めた。
理解しているのだ。
人間の特性、というよりも守る為に戦うものの特性を。
黒縄はこの状態で宗厳に対して選択を迫っている。
芽衣を守るか、守護人たちを守るか。
そのどちらも捨てて黒縄の首を切断するか。
人間の情か、それとも刀狩者の責務か。
『お前はどちらを優先する?』
まさにそう聞かれているようだった。
疾風の属性攻撃で首を切断できる可能性もあったが、距離を考えると成功率は五分五分。
確信が持てない状態での攻撃も時には有効であるが、この状況では悪手でしかない。
ギチリと宗厳は奥歯をかみ締める。
多くの修羅場、死線を潜ってきた宗厳といえど命の優先順位など一瞬にして割り切ることなどできはしない。
この場にいる誰もが決死の覚悟を持っているとはいえ、助けられる命を見捨てるわけにはいかない。
「……どうにも捨てきれんな。これだけは」
命は平等だ。
それに優劣などつけられるはずがないし、見殺しにできるほど冷徹にもなれない。
だからこそ宗厳は跳躍し、今まさに放たれようとしている熱線の前に飛び出しつつ、斬鬼の首ではなくその背後に展開している黒い腕に向けて疾風を放った。
疾風は芽衣に向いていた腕のうち何本かを切断し、彼女への負荷を少しでも軽くする。
宗厳は首を完全に無視し、人命を優先したのだ。
それとほぼ同時に斬鬼の口腔内に集束していた霊力が強く発光した。
宗厳の視界が黒く染まり、彼は熱線を弾く為に刃に乱回転する疾風を纏わせる。
その時だった。
黒く染まった視界の端で青い光が煌いた。
佳乃がなにかしたのかと思ったがそれにしては位置が高い。
青い光は停滞しているわけではない。
こちらに近づいている。
「ハッ」
今まさに熱線を弾かんとしている宗厳の口から出たのは小さな笑い声だった。
「……まったく、待たせおってからに」
あきれた表情をうかべつつも、宗厳は放たれた熱線を疾風を用いて弾く。
バチバチと激しい紫電が周囲に広がり、僅かに後退させられるものの彼の口元から笑みが消えることはなかった。
宗厳が守護人たちを守るために熱線の前に立ちはだかったのは芽衣からも確認できた。
「柳世さん!」
悲痛な声が響くものの彼女は「お嬢!」と叫ぶ護衛を担当している青年達の声にハッとした。
あの黒い腕が再びこちらに迫ってきているのだ。
宗厳によって多少なり数は減っているが、気を抜けば突破される可能性はある。
地面や空をいびつな軌道を描きながら接近する様子に若干たじろぎつつも、彼女は結界をより頑強なものとする。
「心配すんなお嬢! もしも突破されたって俺達が防いでやる!!」
「不安になること言わないでよ! でも大丈夫、さっきだって破られなかった。次だって……!!」
腕を前に突き出す芽衣だったが、その瞬間いびつな軌道で接近していた黒い腕が一点に集束していった。
複数の腕は距離を詰めながら徐々に姿を一つに重なっていく。
そしてやがて一つの腕が出来上がった。
太さや大きさは分散していた時に比べて格段に上がっているが、それ以上に速度が段違いに跳ね上がっている。
冷たい汗が背中を伝った。
腕自体が何かに変貌したわけではないが、複数あった腕が重なった姿はまるで黒い槍のようだ。
さきほどの攻撃を面の攻撃とするのなら、アレは点だ。
力を一点に集中させ、強固な壁を抉り穿つ。
まさに槍だ。
ゾワっと芽衣は怖気を感じつつも、霊力を一気に高める。
「絶対に破らせない……!!」
結界を破壊させるわけにはいかない。
確かな覚悟を持って槍へと変貌した腕を真正面から受け止めるため身構えた。
地面を抉り、もうもうと土煙をあげながら迫りくる様子にゴクリと息を呑んだ刹那――。
――槍と化した腕は壁に激突する寸前で上空から飛来した何かによって動きを止めた。
「っ!?」
突如として巻き起こった砂煙と衝撃に芽衣は眼を見開いた。
結界に異常はないものの、もうもうと立ち込める砂煙によって中の様子を覗うことは困難だ。
「今のって……?」
ほんの一瞬ではあったが、上から何か青い光が飛来したのはわかった。
すると、立ち込める砂煙の奥で青い光がぼうっと輝いた。
それだけではない。
輝く光のすぐ傍に人影が見えた。
人影は光を持っているようだった。
晴れていく砂煙とともに、徐々に人影が露になっていく。
「あ……」
やがて姿が完全に見えた時、芽衣は少しだけ間の抜けた声を上げてしまった。
彼女の視線の先に立っていたのは一人の青年だった。
後姿しか確認できなかったが、彼が誰であるのかくらいすぐにわかった。
彼の手にあったのは間違いなく魄刻の刃。
己の魂を糧とした鬼哭刀とは別のもう一つの鬼狩りの刃だ。
彼の足元では切断された黒い腕が転がっており、それは形を保つことができずに霧散していく。
それを確認したのか、青年は視線を芽衣へ向けた。
強張っていた芽衣の口元がほころび、芽衣は青年の名を絞り出した。
「……黎雄くん……!!」
目尻に涙をためながら彼を呼ぶと、黎雄は少しだけ申し訳なさげにはにかんだ。
「すまない、遅くなった」
「……ほんとだよ。心配させてさぁ!! まったくもう!」
「ああ。こんなに時間の流れが違うとは思わなかったんだ。だが、おかげでこれは手に入った」
黎雄が掲げたのは青白く輝く魄刻の刃だ。
目覚めたばかりだろうに彼の刃から僅かな歪みも見られず、非常に安定しているのがわかった。
すると、熱線を放っていた黒縄が巨体を大きく仰け反られた。
どうやら宗厳が競り勝ったようだ。
恨みのこもった雄叫びが聞こえ、黎雄の表情に鋭さが戻る。
「再会を喜びたいところだが、今は黒縄を倒さなくてはな」
「うん。柳世さんもかなり消耗してる。行ってあげて。結界は何があっても維持するから!!」
「頼もしいな。じゃあ、行ってくる」
黎雄はそれだけ告げると疾風と共に姿を消した。
姿は見えなくなってしまったが、芽衣は彼の復帰に笑顔を浮かべずにはいられなかった。




