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視線の先に現れた鬼神にハクロウの潜入捜査員――古閑准一はゴクリと喉を鳴らした。
ハクロウ日本総本部の隠密諜報課にて任務をこなし、それなりに修羅場を潜ってきた捜査員であり、刀狩者でもある彼ですら彼女の気迫に圧倒されていた。
全身に走るのは今まで感じたことがないほどの怖気と悪寒。
育成校を卒業し、初めての現場で斬鬼と対峙した時よりもはっきりとした恐怖心を感じていた。
ドーム内では遠目だったゆえにそこまでではなかったが、こうして間近に対峙するとどの斬鬼よりも強いのがわかる。
傍にいる大嶽丸の気配がかわいく思えるほどに。
できることならすぐさまこの場から逃げるべきなのだろうが、禍姫の気配にあてられている影響か、頭でいくら指令を出しても体が殆ど動かない。
それに准一は本能的に理解していた。
仮に逃走したとしても禍姫ならばすぐに追いつき、簡単に殺せるということを。
ゆっくりと歩み寄ってくる禍姫を睨みつけながら、彼は「ふぅ……」と息をつく。
恐怖に蝕まれながらも彼は発狂することなく心を落ち尽かせ、覚悟を決める。
潜入行動が露呈した捜査員が逃走以外に行う最後の手段。
それは己の命を絶つことだ。
禍姫に情報を与えてはならない。
「……ハクロウのためならば……っ!」
恐怖を振り切った准一の手には、袖に忍ばせていた自決用のナイフが握られていた。
うまく動かない体をどうにか動かし、彼はそのままナイフを自身の心臓目掛けて突き立てた――。
「――――ッ!!??」
痛みは襲ってこなかった。
なぜなら准一が己に突き立てようとしたナイフの切先は寸前で止まっていたのだ。
直前になって死ぬのが怖くなり、自ら止めたわけではない。
禍姫の手によって止められていたのだ。
「くっ! 離せ、この……!!」
どうにかして彼女の手から逃れようとするものの、禍姫の力はその細腕からは想像もつかないほどに強く振りほどくことはできなかった。
「そう死に急ぐこともあるまい。何も我はお前を殺そうと思っているわけではない」
「なに……!?」
人類を敵視している者の言葉とは思えない口振りに准一は怪訝な表情を浮かべた。
禍姫は不適な笑みを浮かべたまま「まぁこんな物騒なモノは捨てろ」と准一の手からナイフを取り上げる。
そのまま少し押す形で掴んでいた腕を解放され、准一は数歩後退する。
「いったい、なにが目的だ! 言っておくが、俺は絶対にお前の傘下には入らない。解放軍に対してもそれは同様だ」
「五月蝿いな。いちいちがなるな、人間風情が」
ギン、と禍姫の瞳が強く赤熱した瞬間、准一は喉が締め付けられるような感覚に陥った。
「が、カハ……ッ! き、さま……!!」
「別に殺そうとは思っていないと言っただろう。お前には少し、我に協力してもらえればそれで良いのだ」
「だ、れが、貴様……など! にぃ……!!」
呼吸もままならない状態ながら、彼の瞳には禍姫に対する明確な敵意があった。
助けて欲しいなどとは微塵も考えていない。
心の底から禍姫を敵視し、倒さんと考えている者の目だ。
「くく、いい目をするな。鬼狩りの斥候よ。解放軍の副教祖なんぞよりもよっぽどいい目だ。まぁ人間である以上、我の敵であることにはかわりないのだがな」
口元を残虐に吊り上げると、彼女は准一との距離を再度つめると彼の額を掴み、そのまま建物の壁に叩き付けた。
「がっ!?」
「この程度では死なんだろう。では、我の頼みを聞いてもらおうか」
「頼み、だと……。はっ、生憎だな。俺は貴様の頼みなどおぐっ!」
「黙って聞け。我がお前に頼むことは唯一つ。このまま日本のハクロウに戻ることだ」
「っ!?」
准一は一瞬彼女がなにを言っているのか理解できなかった。
禍姫はハクロウに戻れと言った。
そうなればここで得た情報は全てハクロウに行き渡ることになり、苦しむのか彼女達のはずだ。
「どういう、ことだ……! なぜ、そんなことを……」
指の隙間から禍姫を睨みつけるものの彼女は不適な笑みを浮かべたままだった。
「お前が知る必要はない。それに知ったところで、すぐに忘れる」
刹那、禍姫は准一の額から手を離し、吐息がかかるような距離まで顔を近づけてきた。
ゾッと鳥肌が立ったのも束の間、憎悪に濁った赤い瞳を間近で見た瞬間、瞳から何か得体の知れないモノが己の中へ入り込んでいくのを感じた。
ぞるりというか、ずるりというか、とにかく気味の悪い感覚だった。
しかし、それを感じたのも一瞬で禍姫が顔を離したかと思うと急激な眠気が准一を襲った。
「きさ、ま……! 俺に、なに、を……!?」
「ちょっとした贈り物だ。ちゃんとハクロウに届けろよ。まぁ、お前が次目覚める時にはここで我に出会ったことなど忘れているだろうがな」
禍姫はずるずると倒れこんでいく准一を嘲笑を浮かべながら見下すと静かに踵を返した。
大嶽丸の下へ戻っていく彼女の足を掴もうと腕を伸ばすが強烈な眠気が邪魔をする。
「ま、て……!! おくりもの、とは――!!」
気力だけでどうにか意識を保とうとしたが、次の瞬間にはブツンとテレビの電源を落としたかのように准一の視界は真っ黒に塗り潰された。
完全に意識を失った准一に対し、禍姫は楽しげな笑みを浮かべた。
「お見事です。ですが、本当に今ここで殺さずともよろしいのですか」
「問題はあるまい。現代でも人間同士は低俗ないがみ合いで協力関係はうまく築けていないようだからな。ジーク達の身元がバレてもそうすぐに行動は起せんさ。それにどの道こちらの情報はハクロウに洩れている」
禍姫の視線を追うと気絶している准一の傍らに携帯端末が転がっていた。
それで彼がなにをしていたのかなど容易に想像がついたのか、禍姫は肩をすくめた。
「大した男だ。我とお前の気迫に晒されながらも平静を保ち、己ができる最善策を選択していた。即座に命を断とうとしたのもそれなりに評価できる。まぁ結局自決の方は未遂に終わったわけだがな」
「敵に対しても賞賛を与えるとは、さすがは禍姫様。しかし、この男が情報を流したことですぐにでもハクロウが来ると思われますが」
「ああ、わかっているとも。酒呑童子を呼べ。我らは一度帰還する」
「了解いたしました」
大嶽丸は小さく頭を下げると酒呑童子と通信を図った。
しばらく時間が経過してようやく酒呑童子につながったようだが、大嶽丸は苛立ちを露にしていた。
その様子に肩をすくめた禍姫はドームに視線を向けた。
ジークには演説が終わったあとは信者達を速やかに家に返させ、刀狩者と幹部だけはあの場に留まっているようにと伝えてある。
よく目を凝らしてみるとドームの周りには家路につく信者達の姿が見えた。
恐らく明日中にでもこの街にはハクロウの捜査が及ぶだろう。
けれど、解放軍信者の街といってもハクロウは住民全員を拘束するような真似はできない。
配信している動画も演説が終わると同時に抹消され、街の中にある監視カメラの映像も全てが偽造のものに書き換えられる。
最悪、強制執行によってこの街全体を封鎖されたとしても禍姫にとっては瑣末な問題だ。
「……雑兵程度、いくらでも増やすことができるからな。今必要なのは、より強い力を持った者達だ」
ニヤリと笑った禍姫の脳裏に浮かんだのはルドルフとライラの姿だった。
あの二人はいい戦力になる。
いや、彼らだけではない。
解放軍の中にいる刀狩者の実力はかなりばらつきはあるが、あの二人の実力と同等か迫る力を持った者もいる。
「有意義に使わせてもらおう。人間を滅ぼすためにな。だが、まずはその前に――」
禍姫の瞳は気絶している准一を捉えていた。
彼はまだ意識を回復する様子こそ見せないが、目覚めた時には既に遅い。
既に種子は植えつけた。
あとはそれを開花させるだけ。
「――せいぜい我からの贈り物を楽しんでくれよ。鬼狩り共、そして出来るならお前にも味わって欲しいものだな、綱源の小僧よ」
禍姫の脳裏に浮かんだのは京都で交戦した雷牙の姿だった。
『贈り物』が仕事をすれば彼はたいそう顔をゆがめることだろう。
憤りか、憎しみか、それとも悲しみか。
それが楽しみでならなかった。
すると、酒呑童子と通信していた大嶽丸が彼女に声をかけた。
「禍姫様。酒呑童子がこれからこちらに来ますが、どこで待機させますか?」
「街のはずれで待っているように伝えろ。解放軍を手にいれたとはいえ、ヤツがここに現れるとそれはそれで面倒だ」
「わかりました」
「あぁそれと、転移用の刀をジークに渡す。一本精製し、大嶽丸お前がジークに渡してこい。帰還するのはその後だ」
大嶽丸は「はい」と頷くとほぼ一方的に酒呑童子に指示を出した。
全てを伝えおえた後、二人は准一をそのままに街から離れた。
欲しいものは手に入れた。
あとは戦力を増強し、ハクロウを潰す。
無論彼らも禍姫の狙いには気付いているだろう。
ゆえに全力で妨害をしてくるだろうが、ハクロウの活動を妨害できるのは禍姫も同じこと。
解放軍の信者達を使い、そして今まで以上に妖刀を生み出し、人間を斬鬼へと変貌させる。
幸いなことにこの世界に人間はいくらでもいる。
素材さえあればあとはどうとでもなる。
「かつてのようにはいかんぞ。おろかな人間共よ……」
闇の中で禍姫の声が木霊する。
けれど解放軍は誰も彼女の真意には気付かない。
崩壊するその時まで。
「……う……っ」
頬をなでる冷たい風で准一は目を覚ました。
覚醒したばかりということもあり、彼の瞳はどこか虚ろで意識もはっきりとしていないようだ。
が、それも一瞬のことだったのか、彼はすぐにハッとした様子で周囲と己の状態を確かめる。
「ここは……。そうだ、確か本部に解放軍の情報を送っていたはず……」
近くに転がっていた端末を拾い上げて履歴を確認すると確かに送信した記録がある。
それにホッと胸を撫で下ろす准一だったがふと疑問が浮かぶ。
なぜ自分は眠っていたのだろうか。
履歴を見るにハクロウに情報を送ったのは三十分前だ。
そこまでは確かに覚えているのだが、なぜ眠っていたのかがどうしても思い出すことができない。
「俺は一体、なぜ……」
必死に思い出そうと記憶を手繰るもののどれだけ遡ろうとしてもある一定のところまでいくと思い出すことができない。
それどころか下手に思い出そうとすると頭痛まで起きる始末だ。
「疲れでも出たのか……? 最近、休んでもいなかったし……」
潜入捜査をするということは体力以上に精神をかなりすり減らす。
自分の正体が露見してはいけないという重圧によって体に異常をきたすことは極稀にある。
今回もその類のものだろうか。
首をひねって考え込んでいると端末の呼び出し音が鳴った。
ハクロウ総本部からの緊急回線だ。
周囲に人影がないことを確認し、准一は通話ボタンをタップする。
『ハウンドウルフ、応答しろ』
「こちらハウンドウルフ。なんでしょうか」
通信時のみに使われるコードネームを名乗ると端末の向こう側から少しだけ安堵したような声が聞こえた。
『情報送信後に何度か呼びかけてみたのだが応答なかったから心配したぞ。僅かにバイタルが乱れたようだが大丈夫か?』
「疲れが溜まっているのか若干体調は優れませんが、問題ありません。それで用件は?」
『ああ、君の齎してくれた情報はこちらでも共有した。そこで武蔵長官が君に直接会って話を聞きたいとのことだ。こちらに戻ってくることは可能か?』
「長官が?」
准一は僅かに首をかしげたものの、やがて小さく頷いた。
己の体の不調は気がかりではあるものの辰磨が呼んでいるというなら行くべきだろう。
「わかりました。ではピックアップはどこで?」
『近隣の空港でピックアップする。航空会社には我々から伝えておくから君は専用機に乗り込んでくれればいい。詳細は後ほど送る。では、通信終了。ご苦労だったな』
通信は一方的に切られてしまったが、准一の表情は穏やかだった。
彼は気付いていない。
己の瞳がうっすらと赤く染まっていることに。
けれどそれは一瞬のことで一度瞬きをすると彼の瞳は普段のものへと戻っていた。
「長官に直接報告か。帰還するまでにもう一度資料をまとめなおしておかないとな」
体の変化に気付くことなく准一は寝泊りしているホテルへ向かい荷物を手早くを纏め、そのまま街を出て行った。




