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ひとりのよる

 熱いシャワーを浴びてから、冷蔵庫の中にあった炭酸水を飲む。東條さんがお酒を割って飲むために安価なものを常備してあるけれど、気分を変えたいときに、わたしも飲ませてもらっていた。

 口腔内でぱちぱちとはじけて、喉に刺激が走る。息を吐いてペットボトルを持ったままソファに座った。それからいつも眠る時に使っている毛布を体に巻きつけて、横になる。

 眠ろうかと目を閉じても、コンちゃんとのやりとりが頭から離れない。きっとコンちゃんもわたしも、お互いに間違ったことなんか言ってなくて。だから、コンちゃんが、東條さんがわたしの考えているようなひとじゃないと言っていたことが、妙に引っかかっていた。

 でも、東條さんはわたしが傷ついた理由を知っている。だから、きっと、そんなわたしが傷つくようなことなんか、しない。




 東條さんに初めて会ったのは、去年のクリスマスイブだった。

 その夜は、大雪警報が出ていたにも関わらず、歓楽街はさながら夢の国のようなクリスマスムード一色で、客引きは男も女もサンタの格好が定番、浮かれた酔っ払いや幸せそうなカップルが、いつもよりずっと楽しそうに歩いていた。

 わたしは場違いな迷路に迷い込んだみたいに、ひとりぼんやりと彷徨っていた。何度か声を掛けられたり、酒に飲まれた大人に絡まれたりしたけれど、彼らのことは、あまり覚えていない。

 たぶん、東條さんだけが、わたしと同じ場所に立って、わたしのことを見てくれていたんだと思う。


「ねぇ、きみ、写真撮ってみない?」


 声を掛けられたときは、正直、わたしに対してだとは思わなかった。

 手を取られて振り返ると、そこには背の高い男が立っていた。


「クリスマスイブの記念に、どうかな」


 いかにもイカガワシイ誘い文句と、微笑み。

 絶対に、ついて行ってはいけないひと。けれど、わたしはあえて、そのひとを選んだ。

 善人面の優しい笑顔にひどいことをされたら、もっと深く傷つくことができる。そうすれば、今の痛みを忘れられる。

 騙して、傷つけてほしかった。

 もっともっと、あのひとよりも、ひどいやり方で。


 わたしは自ら罠にかかるために、何も言わずにただ頷いた。

 タクシーに二人で乗り込み着いた場所は、歓楽街から離れた輸入家具やおしゃれな雑貨ショップなどが立ち並ぶ閑静な住宅街の中の雑居ビルだった。てっきり歓楽街のアヤシイ店にでも連れ込まれるのだろうと思っていたわたしは、そこで少し拍子抜けした。


「寒くない? 髪も濡れてるし、一度シャワー浴びる?」


 オフィス東條と書かれたドアを開けると、男は自分のコートを脱いでから、わたしのコートも受け取り、脇にあったコートハンガーにそれらを掛けた。それから男は自己紹介をし、いくつか話しかけられたけれど、男の名前も話の内容も、右から左へと流れていくだけで、頭の中は空っぽだった。

 促されるまま、パーティションで仕切られた向こう側へ足を進めると、子供のころ、写真屋さんで記念写真を撮ってもらったときのことを思い出した。でも、ここはあのスタジオなんかよりも、ずっと狭くて小さい。


「ここで脱いでもいいし、嫌なら、あのカーテンの奥を使っ……」


 言われるまま、その場でわたしは服を脱ぎ始める。

 男が躊躇ったように言葉を詰まらせたけれど、おかまいなしに、わたしは身に着けていたものすべてをそこに脱ぎ捨てた。


「けっこう大胆なんだね。でも、まずはシーツを羽織ってくれるかな」


 クリスマスだから赤にしようと、わたしの背後から赤いシーツを肩にかける。そうして緑と真っ白のシーツをくしゃくしゃにして床に敷いた。

 男はわたしをそのシーツの上に座らせて、胸元が見えるか見えないかのきわどいラインをシーツで隠す。


「寒い? それとも、怖い?」

「えっ……」

「少し、震えてるから」


 男の指が髪に触れ、わたしの輪郭をなぞる。

 わたしは、どこか引き戻されそうになる感覚を、ぬぐうように首を振った。


「じゃあ、さっそく始めようか」


 カメラを手に取った男は、一度覗いたファインダーから顔を離し、口を開く。


「きみのこと、なんて呼んだらいい?」


 わたしは、自分の名前を告げようとした唇を、開きかけて結びなおす。

 そうして頭に浮かんできたのは、高校時代の親友だった。


「ヒナコ……」


 優しくて、けれど芯が強く、しっかりしていた陽奈子とは、いつも一緒に過ごしていた。わたしは陽奈子に憧れていたけれど、陽奈子はわたしに憧れていると言うから、ふたりでやっと一人前だとか、そんなことを言っては笑っていた。

 高校を卒業して、陽奈子は地元の短大に、わたしは地元を出てこの街の専門学校に進学し、電車で一時間半の距離だというのに、離れ離れにしまうのが淋しくて泣いたのを思い出す。

 わたしは、わたしを捨てたい。

 陽奈子のように、しっかりしていたら、わたしはきっとこんな目に遭わなかった。


「ヒナコ。じゃあ、ヒナちゃんで、いいかな」


 頷いて、わたしは微笑んでいる男を見つめ返した。

 カメラを向けられ、動けずにいるわたしに、男は細かく指示をした。その通りに体を動かし、わたしはカメラを見る。立ち上がったり、寝そべったり、頭からすっぽりシーツを被ったり、逆に何も着けずに大胆な姿勢もとった。

 全く恥ずかしくなかったと言えば、嘘になる。ちくりちくりと、細い針で刺されるような、そんな痛みが胸の奥に走る。

 時折男はシーツの位置を直したり、証明の明るさを調整したり、撮った写真をディスプレイで確認したり。ふと撮影が止まるたびに、現実が脳裏をかすめた。

 あのひとは、わたしがこんなことをしていると知ったら、どう思うだろう。どうしてそんなことしたんだって怒るだろうか。悲しんだり、嫉妬したりしてほしい。だから、わたしはこんなことをしてるのに。

 けれど。

 きっとあのひとは、何を感じることもなく、見て見ないふりをして、わたしに背を向ける。


「ぼく、なにか気に障るようなこと言ったかな」


 はっとして顔を上げると、カメラから顔を離して男が聞いた。


「なんかすごく、怒ってるみたいだから。怒ってる顔が魅力的なコもいるんだけど、ヒナちゃんはたぶん、そうじゃないと思うんだ。もっと、違う顔が見たい」


 だからって、どんな表情をしたらいいのかもわからなくて戸惑っていると、男がそばまでやってくる。


「誰かを、探してるみたいだね」


 わたしはきゅっと唇を噛んだ。


「ヒナちゃんは、彼のことを憎んでいる。でも、それよりずっと、彼のことを愛している」


 目の前に来て見下ろす男を、わたしは睨みつけた。

 簡単にそんなことを言わないでほしい。ひと言で片付けられるような、そんなことじゃない。

 なにも、知らないくせに。


「そう。やっとぼくのことを見てくれたね。それでヒナちゃんは、ぼくに何をしてほしいの」


 そんなふうに聞かれてはじめて、自分がしてほしいと望んでいたことが、とても自分の口から言えないことだと気が付いた。

 もう一度男を見上げると、その視線が急に怖くなる。

 わたしにカメラを向けてシャッターを切ると、男は視線の高さを合わせるようにしゃがみ、こっちに手を伸ばしてきた。


 なにもかも、どうなったっていいと思っていたはずなのに。


 今更、自分がしてしまったことを後悔しても遅いのに。体が音を立てるように震えだし、その手から逃れようと身体をひねる。わたしの体を包んでいたシーツは剥ぎとられ、それでもできるだけ距離を保つために、わたしは座ったまま、後ろへ体を進ませた。


「来ないで」


 壁に背中がぴたりとついて、ようやく声を絞り出した。

 けれど男の手は、やがてわたしに触れる。


「いやっ」

「大丈夫、ぼくは、何もしないから」


 男の指先は、頬を撫でただけで、離れていった。


「ヒナちゃんがそう望むなら、ぼくは何もしない。だから、泣かないで」


 体を縮めるわたしに、男は背後から引っ張ってきた真っ白なシーツをかけてくれる。

 そうしてまたわたしの頬に触れ、いつから溢れていたのかわからない涙を拭いて微笑んだ。

 このひとは。

 わたしが考えていたようなひとではなくて。きっと、わたしがどういうことを望んでいたかも知っていながら、そんなことを言うのだ。

 途端に裸になったことよりも、自分が望んでいたことを見透かされたことのほうが、ずっと恥ずかしくなって、わたしは俯き首を横に振った。


「ご、めん、な、さ、い……」


 カチカチと奥歯が鳴り、舌を噛みそうになりながら謝った。

 ここからも、どこからも、消えてしまいたい。

 でも、どうしたらいいのか、わからない。

 逃げ出したいのに、震える体は言うことをきかなくて、口から漏れる嗚咽を堪えながら、ただただわたしは体を小さく縮めて膝を抱えた。


「ヒナちゃん」


 肩に触れる男の手のひらは、とてもあたたかくて。


「抱きしめても、いい?」


 首を横に振れば、きっとこのひとはわたしを抱きしめない。

 だからわたしは、膝に埋めていた顔を少しだけ上げて、ゆっくり頷いた。

 さっきまで怖いと思っていたその手は、わたしを包むように抱きしめて、大きな手のひらが、頭を撫でてくれる。


「我慢しないで、泣いていいんだよ」


 ぎゅっと強い力で抱きしめられると、堰を切ったように涙があふれ出して、わたしは声を上げて泣いた。

 泣いて、泣いて、泣き疲れて眠るまで、そのひとは、東條さんは、わたしをただ抱きしめていた。




 目を開けると、ペットボトルから滴り落ちた水滴が、テーブルの上に水たまりを作っていた。いつの間にか、少し眠っていたのだ。起き上がって炭酸水を口に含むと、ぬるい刺激が口の中に広がっていく。

 あの日のことを思い出せば、今でも胸が息苦しくなる。

 東條さんと出会った記念すべき日は、わたしにとって、大切な恋を失い、愛を裏切られた日。

 あれだけ泣いたのに。ときどきこうしてひとりでいると、ふと思い出して悲しくなる。どうしようもないことなのに、涙が止まらなくなって、わたしは静かに泣いた。

 と、鍵を開ける音がして、わたしは急いで涙をぬぐう。


「ヒナコ、まだ起きてたんだね」


 東條さんの声にゆっくり振り向くと、ただいまと、穏やかに微笑んでくれる。

 たまらずわたしは立ち上がり、東條さんに抱きついた。



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