ふたりのよる
コンちゃんの邪魔にならないようにキッチン周りを片付けて、洗濯機のスイッチを入れ、シャワーを浴びた。桃華ちゃんの撮影で使ったシーツは、撮影後洗濯して乾燥機に入れてあったから、それを取り出して他の物を乾燥機に入れる。干すものは干して、取り出したシーツを持って、パーティションの向こう、いつも撮影をしている場所へ向かった。
撮影をするとき以外、ここは照明が落とされていて薄暗い。その中で、シーツや布やよくわからない紐やコードの掛かった場所に、桃華ちゃんが使ったダブルベッド用のシーツ二枚を掛けた。女の子が好きそうな柔軟剤をたっぷり入れてあるから、甘ったるい香りがする。
不意に照明がついて、わたしは振り返った。
「コンちゃん、どうしたの」
「今日は、俺がヒナちゃんを撮る」
夕方、東條さんが桃華ちゃんを撮影していたカメラを持って、コンちゃんが立っていた。
「なんで、どうしたの、急に」
「いーじゃん、撮らせてよ」
「わたしは裸にならないよ」
「そんなの知ってるよ。つーか、そんなことしたら俺、東條さんに殺される」
笑ったわたしにカメラを向けて、コンちゃんはシャッターを切る。
「やだなぁ、なんか変な感じ」
「大丈夫! 俺がヒナちゃんの魅力を引き出すから」
「なにそれ」
ふざけてるとしか思えない台詞に、わたしは笑いが止まらなくなる。
そんなわたしにコンちゃんは声を掛けつつ、様々な角度からカメラを向けた。
桃華ちゃんやオンナノコたちみたいに、セクシーポーズなんかできないし、わたしはただの記念写真みたいにピースしたり、両手を上げてみたり。
「こんなことして、東條さんに怒られないかな」
「ヒナちゃんのカワイイ顔を撮ってたっていえば、怒んないだろ。つーかさ……」
ファインダーを覗くのをやめて、コンちゃんがわたしを見る。
「ヒナちゃんも、フツーに笑うんだな」
「え?」
「いや、最初会ったとき、東條さんも変なオンナ拾ったなぁって思ったんだよ。全然しゃべんねぇし、話しかけてもろくに返事しねぇし、俯いて表情変わんなくて、暗くてさぁ。東條さんにはべったり甘えてるけど、俺なんか、しばらく顔すら見てもらえなかったじゃん」
「あ……そうだったっけ」
「ま、一か月もすれば、それなりに話したりしてくれるようになったけど、それでもこんなに楽しそうに、ちゃんと笑えるコだと思ってなかったよ」
「それはたぶん……みんなが、優しいから」
東條さんも、コンちゃんも。今日は桃華ちゃんも。みんながわたしにそうやって接してくれるから、わたしは笑えるようになった。
ふうんと頷いて、コンちゃんは床に座り込み、カメラのディスプレイで撮った写真を確認しはじめる。
「俺、今、死んでるかも」
「え!?」
テンションが高かったはずなのに、突然そんなことを言い出すから、わたし心配になってコンちゃんの前に座って顔を覗き込んだ。
「ほら、前にヒナちゃんが言ってたじゃん、何も頑張れてないから死んでるのかもしれないって」
「あぁ、うん、言ったけど……」
「就職浪人決定っていうのは、俺にとってけっこーなダメージでさ。また次があるって思えばいいのに、また次もだめだとも思っちゃって。結局バイトして、それなりに生活できるから、それはそれでいいかって、いっそ諦められたら楽なんだろうな」
ディスプレイを見ながら、やっぱダメだな、とつぶやいて、コンちゃんはまたわたしにカメラを向けた。
「ヒナちゃん、予定変更。脱がなくてもいいけど、寝て」
「え!?」
「俺を東條さんだと思って、そういうカオ見せて」
「や、ちょ……」
カメラ越しにコンちゃんが迫ってきて、それを避けるように、わたしの体は背後に傾いた。それでも迫り続けるコンちゃんに、結局床に寝そべるような体勢になってしまう。
「コンちゃん」
「うん、これはさすがに怒られるかもしれないな」
ふっと笑って、わたしに馬乗りになったコンちゃんは、シャッターを切る。
「やだ、コンちゃん、ホントにやめて」
「嫌がるヒナちゃんもいいね。東條さんにも、そんな顔見せるの?」
「東條さんは、こんなことしないよ!」
わたしが抵抗しようと手を伸ばせば、カメラを構えていたコンちゃんの腕がぐらりと揺れた。
危うくコンちゃんの手の中からカメラが落ちそうになって、わたしは目を閉じる。
「やっば! カメラはまずいって」
「だって、コンちゃんが……」
恐る恐る目を開ければ、カメラは無事にコンちゃんの手の中にあって。
わたしとコンちゃんは、同時に安堵の息を吐いた。
けれど、わたしはまたすぐに緊張する。コンちゃんのわたしを見下ろす瞳が、桃華ちゃんを見ていたのとよく似た冷たい視線を向けていたから。
「どうして、ヒナちゃんは東條さんと一緒にいるの」
「え……」
「ヒナちゃんは、あんまり東條さんのこと、知らないじゃん。あのひとがどんなことしてきたとか、今までどれだけオンナノコと遊んできたとか、今でも、ヒナちゃんの知らないところでナニしてるとか。どんなことを期待して東條さんと一緒にいるのか知らないけど、あのひとは、たぶん、ヒナちゃんが考えるようなひとじゃないよ」
「わたしは、ただ」
「一緒にいてくれるだけでいいとか、そんなのキレイゴトだろ。一緒にいるだけなら、別に誰だっていいじゃん」
そんなんじゃない。
だけど、わたしのことを、わたしと東條さんのことを、どうやったら上手く説明できるかわからない。きっと簡単なことなのだけど、言ったところで今のコンちゃんには伝わらない気がした。
コンちゃんは、わたしに向かって一度シャッターを切ったあと、カメラを床に置いた。
そうして、わたしの両手首を掴み、床に押し付ける。
「もう、なんか、なにもかも、どうでもいいんだ」
あの夜のわたしも、こんなふうに東條さんを見つめていたんだろうか。
コンちゃんのうつろな瞳を見ながら、わたしはそう思う。
その瞳にはわたしが映っているけれど、コンちゃんに見えているのは、きっと違う景色だ。
糸がぷつりと切れてしまったように、コンちゃんの体がわたしに覆いかぶさってくる。
「わたしもね、そんなふうに思ったことがあったよ」
わたしは首筋にコンちゃんの息を感じながら、言った。
「どうでもいいって思ってたから、東條さんに写真を撮らせてほしいって声を掛けられたとき、きっとこのひとにはついて行っちゃいけないって思ったけど、ついてきたの。それで、ここにきて、言われるままに脱いで裸になって。それで、このままひどいことされちゃえばいいって、もう、立ち直れないくらい、ひどいことしてほしいって思ってた。だけど、東條さんは写真を撮っただけで……何も、しなかった」
首筋に這わせていた唇の動きを止め、コンちゃんは顔を上げた。
「すごく辛いことがあって、死にたくなるほど傷ついてたから、もっともっと傷つけてほしかったのに、東條さん、優しかったの。優しすぎて、わたしは自分がしようとしてたことがすごく恥ずかしくなって、逃げ出したくなって。でも、東條さんはずっとわたしのことを抱きしめていてくれた。気持ちが落ち着いて、でも行くところがないって言ったら、ずっとここにいていいって言って、わたしのこと、全部受け止めてくれるって……」
だから、コンちゃんがいうキレイゴトなんかじゃない。誰だっていいわけじゃない。わたしには、東條さんじゃなきゃ、ダメなんだ。
目尻からこめかみにかけて、涙が流れていく。
あの夜のことを、誰かに話したことは初めてで。死にたくなるほどの傷が、無理にかさぶたをひっかいたみたいに痛い。
「だからコンちゃん、誰かを傷つけて、自分が傷ついても、きっとダメなんだよ、何も変わらない。もっと、悲しくなっちゃうよ」
「じゃあ……ヒナちゃんが、俺を受け止めて、抱きしめてよ」
「それは」
「できないなら、やっぱりキレイゴトだよ。ヒナちゃんと、俺とは違う」
本当は、抱きしめてあげられたらいいのに。
でも、コンちゃんを抱きしめる相手は、コンちゃんが抱きしめてほしい相手は、ホントはわたしなんかじゃないはずだ。
「ただいまー! コンちゃん、まだいる? 今日はバイトしてる場合じゃないよ、ちょっと一緒に来てほしいんだ」
ドアを開ける音と、大好きな声。
すぐに自由になると思った体は、予想外にまだ動かすことができなかった。
コンちゃんだって、東條さんに気づいているはずなのに、表情も体勢も変えないまま、わたしを見下ろしたままだ。
「あれ、ヒナコ? コンちゃん、いないの?」
近づく足音に、わたしはコンちゃんから逃れようと身体をくねらせた。
「……ナニしてんの、ふたりで」
東條さんがわたしたちを見つけて、コンちゃんはゆっくりと東條さんのほうを見た。
わたしももがきながら、恐る恐るその視線を追う。そこには呆然と立ち尽くす東條さんがいた。
「わかった、このまえの仕返しのドッキリだな。しまった、大したリアクションが取れなかったな」
笑っている東條さんに、わたしはふるふるとゆっくり首を振った。
「そんなんじゃ、ないですよ。つーか、まだ帰ってこないはずでしょ」
「だから、コンちゃんを連れに来たんだよ。今回メインで企画してる事務所が、WEB関係に詳しいクリエーターを探してるっていうからさ、しかも正社員! そこの社長とこれから桃華ちゃんの店に行こうと思うんだけど、コンちゃん、どう、とりあえず一緒に飲んでみない?」
今の状況を全く無視して、東條さんはわたしたちふたりのそばにやってくる。
コンちゃんもまだ、わたしの手を離してくれない。
「まずはちょっと話してみて、興味があるようなら面接に行ってみてもいいんじゃないか」
わたしたちの状況なんて、東條さんにとってはどうでもいいのか、床に置かれたままのカメラを手に取ると、わたしたちに向かってシャッターを切った。
そうして写真を確かめるためにディスプレイを覗く東條さんの表情が、ふと変わる。
「怒んないんですね。東條さんがいない間に、俺がこんなことしても」
「うーん……」
「結局、東條さんにとって、ヒナちゃんも他のオンナと一緒ってこと?」
「いや、違うよ」
カメラを持ったまま、東條さんはコンちゃんの肩をつかみ、引き上げる。
「いい加減、ぼくのヒナちゃんから離れてくれない?」
コンちゃんはよろめきながら立ち上がると、わたしもすぐさま体を起こした。
「それから、ぼくの大切なヒナコの、こんなふうに悲しそうな顔は撮らないでくれ。かわいそうに」
東條さんは優しく、だけど少し悲しそうに笑ってわたしに手を差し伸べる。その手を取って立ち上がると、そのまま体を引き寄せられて、わたしは東條さんの胸に顔を埋めた。
きっと東條さんは、コンちゃんが撮った写真を見てしまったんだと思う。嫌がって抵抗したり、コンちゃんを睨んだわたしの表情を。
やっぱり、最初からちゃんといやだと断ればよかったんだ。コンちゃんの様子がおかしいのは、わたしだってわかっていたのに。
コンちゃんのことを東條さんにわかってもらうための言葉を探しているうちに、東條さんが静かに口を開いた。
「ヒナコは、抱きしめればいいけど、コンちゃんは、どうしてほしい?」
東條さんの顔を見上げれば、優しい視線はコンちゃんのほうを向いていた。
「ぼくが抱きしめたって、ダメでしょ。ヒナコだって、由紀ちゃんの代わりになんか、到底なれないよ」
コンちゃんがはっとして顔を上げる。
わたしが聞いたことのない名前は、きっとコンちゃんの大切なひとなんだろう。
「ヒナコはね、こんなぼくのことを、一生懸命受け入れようって頑張ってるんだ。こんなアヤシイ仕事をして、女の子が周りにいっぱいいて、だからって儲かってるわけでもないぼくのことを、だよ。だから、ぼくもヒナコのことを待ってられる。時間がかかっても、ぼくのことを理解してくれるなら、ぼくはそれでいいと思ってる」
「俺は……待たせたくないんです。待たれると、それだけで身動きが取れなくなる気がして、なおさら先に進めない」
「うん、そうか……じゃあ、まずは、とにかく飲みに行こう!」
ヒナコは留守番ねとわたしの頭をくしゃくしゃと撫でると、東條さんはわたしから離れて、俯いたままのコンちゃんの隣に立った。
何か小さく声を掛けて、コンちゃんの頭をぽんぽんと撫でながらパーティションの向こうに連れて行く。
「ヒナちゃん、鍵かけていくからね!」
ふたりの姿を見送ろうと思ったのに、わたしが行くころにはドアが閉まり、東條さんが外から鍵をかけたところだった。
ひとりで留守番するのにも慣れている。けれど、今夜はひとりになりたくなかった。
わたしは大きな溜息を吐いて、もう一度シャワーを浴びようと思った。




