ふしぎなひと
桃華ちゃんと東條さんは、パソコンのディスプレイに映った白目舌出し変顔の桃華ちゃんを見て、お腹を抱えて笑っている。わたしもつい吹き出しそうになったけど、唇を噛んで必死に堪えて黙っていた。
桃華ちゃんが振り返って、ヤバくない? と聞くから、やっとわたしは頷いて一緒に笑う。
「はぁー、面白かった。やっぱ、あれはないわ。ない。動画ならまだなんとかなるかもしれないけど、静止画はないね」
笑いすぎて出てきた涙を、アイメイクが崩れないように拭きながら、桃華ちゃんはわたしに話しかける。
まるで仲の良い友達みたいに。
戸惑ってどう話を続けたらいいのかわからないでいるうちに、彼女は思い出したように、体勢を崩してまで笑った。
「じゃあ、データはいつも通り転送しておくから」
「東條さん、いつもありがと。ヒナコも、付き合ってくれてありがと」
コートを羽織りながら、さらりとそんなことを言って、桃華ちゃんはわたしたちに背を向けた。
そうして出て行こうとした桃華ちゃんと鉢合わせるように、コンちゃんがドアを開けた。
「おはよーございまーす」
「あ、タイチ」
「おう」
「あんたさぁ、この前、彼女とケンカしてたよね。見ちゃったよ」
コンちゃんが目を丸くして桃華ちゃんを見下ろした。
その表情を知ってか知らずか、桃華ちゃんはわたしたちを振り返って、にやりと笑う。
「彼女、泣きながらタイチのこと引き止めんのに、タイチはある意味男らしく彼女を振り払ってさぁ。けっこーイイ見世物になっちゃってんの」
「うっせー、黙れ!」
突然のコンちゃんの怒鳴り声に、事務所内が一瞬しんと静まった。
「はあ? なに、八つ当たりすんの?」
「黙れっつってんの。聞こえねぇのか?」
挑発的に見上げる桃華ちゃんと、それを酷く冷たい目で見下ろすコンちゃんと。
一触即発の場面に、わたしは体が強張って動くことも、声を出すことすらできない。
そんな雰囲気の中、横で東條さんがふわぁと大きな欠伸をした。
「さぁて。ぼくはこれから打ち合わせがあるんだ。コンちゃん、今夜は何時までここにいられるの?」
話をしながらふたりに近づくと、東條さんはコンちゃんの肩をぽんと叩く。
「バーのバイトが十時から入ってるんで、それくらいまでなら」
「んじゃ、この前の花屋のサイト、ちょっと手直しが必要だから、それしながらヒナちゃんのシッターよろしく」
「……わかりました」
「桃華ちゃんは、早くしないとまた遅刻しちゃうよ」
「……はーい」
「じゃ、ここで、解散ね」
ふたりの睨み合いを半ば強引に解消して、東條さんは桃華ちゃんの背中を押した。桃華ちゃんが事務所を出たのを確認して、今度はコンちゃんの背中を押してパソコンの前まで連れてくる。
怒りが収まらない表情のまま、コンちゃんはコートを脱いでイスに座った。
「ということで、ヒナちゃん、今夜ぼくは晩ごはんいらないから。あ、でも作ってくれるんなら、帰ってきてから食べるよ」
「あ、あぁ、はい」
返事をしながら、そんなことよりも、怒ったままのコンちゃんとふたりで留守番するのかと思うと、ちょっとだけ緊張する。
こんなわたしをよそに、東條さんは支度を始め、いつものジーンズとシャツというラフな格好から想像できなかったスーツに着替えてきた。ネクタイをせず、カラーのシャツを着ているからサラリーマンには見えないけれど、とてもついさっきまでオンナノコの裸を撮っていたとは思えない。
寝ぐせのままでいるような、ゆるいくせのある髪もそれなりに整えられていて、今まで見たことのない東條さんに、良い意味でわたしは動揺していた。
「こういうぼくも、カッコいい?」
ジャケットの襟に手を添えてポーズをとるから、わたしは笑いながらも頷く。
と、パソコンに向かっていたコンちゃんが東條さんを振り返った。
「あの大型ショッピングモールの話ですか」
「そう。ちょっとした仕事が決まったんだ。コンちゃんはバーの時間になったら帰っていいよ。たぶん十時には戻れない」
「了解」
コンちゃんは返事をして、またパソコンに向き直る。
そんなコンちゃんの様子を少し見ながら、東條さんはコートを羽織って、使い込まれた革のブリーフケースにタブレットとノートブックを入れた。
「じゃあ、いってきます」
わたしの頬にキスをして、事務所を後にする。
東条さんの背中を見送ると、わたしは振り返って作業台の上に置かれたままのコンちゃんのコートを取り、玄関わきのコートハンガーにそれを掛けた。
黙々と作業をしているコンちゃんの背中を見ながら、話しかけようかどうしようか迷う。
最近のコンちゃんは機嫌が悪い。四月に入ってバイトをまだ続けるという話を聞いてから、東條さんもわたしも、就職のことについては何も聞かないことにしていた。
けれど、もしかしたら機嫌が悪い理由は、就職のことなんかじゃなくて。
「ヒナちゃん」
「なに!?」
いろいろと考えていたところで名前を呼ばれて、わたしは変な声で返事をしてしまった。
案の定、コンちゃんは怪訝な顔をして振り返る。
「今日の晩ごはんはナニ?」
「えぇっと、コンちゃん、何か食べたいものある?」
昨日買い出しをしてあるから、今日のメニューはあるもので作ろうと思っていたけれど。リクエストによっては、また買い出しに行ってもいい。
「なんでもいいの?」
「うん」
「じゃあ、ヒナちゃんが食べたい」
「……えっ?」
何かの聞き間違い。
そう思って、背もたれの上で両手を組んで、そこに顔を乗せてこっちを見ているコンちゃんを見た。
「だーかーらー、ヒナちゃんを食べたいな」
目を細めて、甘えるみたいな表情で。
わたしはこんなコンちゃんを見たことがないし、ましてそんなことを言われるなんて。
喉の奥が、こくりと音を立てた。
「うっそー、冗談だよ。もー、ヒナちゃんはかわいいよなぁ、こーゆー冗談つーじないんだもん」
「な、な、なんだ、冗談かぁ。びっくりした」
「ホント、あのクソアマ桃華とは大違いだよな。あ、ヒナちゃん、俺、ナポリタン食べたい」
「う、うん、わかった」
わたしは恥ずかしくなってくるりと踵を返してキッチンへ向かう。
嫌だ、コンちゃんがわたしにそんなことするはずないのに。変にうぬぼれてるみたいな感じに受け取られてしまったら、ものすごく恥ずかしい。
わたしは気を取り直して、リクエストのナポリタンを作りに取り掛かった。
冷蔵庫の中にある半端な野菜を全部使った、野菜多めのナポリタンは、あっという間に出来上がる。恥ずかしい気持ちをかき消すために、集中したおかげかもしれないけれど。
でも、出来上がればコンちゃんとまた顔を突き合わせて、一緒に食べることになる。
「できたよ」
今夜も嬉しそうにコンちゃんは皿の上の料理を見つめ、いただきまーすと食べ始めた。
こうしてふたりで留守番をするのは、初めてじゃない。なのに、今夜は少しだけ変な緊張感がある。さっきの戯言もともかく、桃華ちゃんの言っていた彼女とのことと、そのあとのコンちゃんの見たことのない怒った顔と。
「やっぱウマい。俺、ヒナちゃんの真似して、お昼に自分で作ってみたりするんだけど、なんか違うんだよな。違うのはわかるんだけど、何が違うのかはわかんなくて」
「へぇ、コンちゃんも料理するんだ」
「まぁ、一人暮らしだし。だから、今日も俺が作れそうなナポリタンにしてもらったんだけど……この味は、出せない気がする」
「ケチャップだけだと酸味が強いでしょ。だから、市販のピザソースを入れると、ちょっと甘みが出るの。それから、ハーブソルト。それを、適量」
「適量? 適当じゃダメ?」
わたしは笑って頷いた。
前に、わたしも同じ質問をしたことがあるから。
「もしかして、ヒナちゃんて、料理作る仕事してたとか?」
ふと、わたしはスパゲティを絡めるフォークの動きを止めてしまう。
「うん……少しだけ、ね」
「やっぱりなぁ。そーじゃないかって思ってたよ。それなら納得」
スパゲティを口に運んで、コンちゃんはフォークを振りつつ、うんうんと頷く。
その口の中にあるものを飲み込んで、次の質問をされる前に、わたしは別の話を探した。
「そういえば、大型ショッピングモールの話って、なに?」
「ん、東條さんが打ち合わせに行ったやつ? あれなら、今度北区にできるんだよ。都市開発の一部も絡んでて、そのデザインか、それともサイトか、写真か、何かわかんないけど、どれかの仕事が取れそうだって前々から言ってたんだ」
「へぇ」
東條さんの仕事が、裸のオンナノコの写真を撮るだけじゃないってことはわかっていたけれど。
「わたし、東條さんの仕事、いまいちよくわからないな」
「あぁ、俺もよくわかんないよ。俺がかかわってるのは、フリーペーパーの広告作成とか、ホームページの管理とか、キャバの体験ルポなんかだけど、東條さん自身はけっこうデカい広告の写真撮ってたり、企業パンフ作成してたりするみたいだし。あのひとは、とにかく人脈の広さがハンパないから、興味があってやれることは、全部やってる感じだよ」
「ふうん」
「そうそう、東條さんが昔書いてた風俗体験ルポは伝説でさ。あのひとが風俗誌にルポ書くと、どんな店でも必ず流行ったらしいよ」
「ふ……風、俗、体験?」
「うん、ソープとか、ヘルスとか、ピンサロとか。って、あ、こういうの、ヒナちゃんに話すことじゃなかったかな……」
眉根を寄せて、コンちゃんがわたしの顔を覗き込む。
「ルポって、キャバクラだけじゃ、なかったっけ」
「あー、そう、今はね。昔の話だよ、俺がここでバイトする前の話で、どっかのキャバクラの店長に聞いたんだ。ごめん、聞かなかったことにして」
「あぁ、うん、別にいいんだけど」
わたしは、今の東條さんしか知らないし、これまでどんな生活をしていたかなんて、少しずつ知っていけたらいいと思っている。
けれど。ひとつずつ知っていくたびに、わたしはいちいち動揺して、ちゃんと受け入れるまでに時間がかかる。
フォークにスパゲティを絡めたまま、わたしはつい溜息を吐いた。
「……ヒナちゃん、ごめん」
「わ、いや、違うの、違う違う、別にコンちゃんのせいじゃないから!」
コンちゃんもフォークを止めて、ずいぶんとばつの悪そうな顔をしていた。
それから、わたしたちはたいした話もせずに、黙々とスパゲティを食べ終えた。わたしはふたり分の皿を下げて、作業台を布巾で拭く。
いつもなら、すぐにパソコンに向かうコンちゃんが、今夜は食事が終わった後も作業台に肘をついて、こっちを見ていた。
「どうしたの?」
「うん、やっぱわかんねぇなと思って」
「何が?」
「東條さんとヒナちゃんが、どうして一緒にいるのか、ずーっと不思議でさ」
それは、わたしにとっても不思議なことだった。
まるで素性の知れないわたしを、どこにも行く当てがなかったわたしを、東條さんはすんなりと受け入れて一緒にいてくれる。
そうして、わたしが東条さんを受け入れるまで、ずっと待っていてくれる。
何をしているのかよくわからなくて、何をしていたのかもよくわからなくて。
でも、隣にいて、抱きしめてくれるだけで、どうしようもなく安心する。
どこが好きと聞かれたら、上手く答えることができないけれど、大好きなひと。
東条さんは、ふしぎなひと。




