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めしあがれ

 九月三十日。

 桃華ちゃんからもらった切符の有効期限は今日までで、倉持さんの店は昨日で退職させてもらった。ソースは、ほぼ完成形に近づけたと思う。この一週間は倉持さんも一緒に買い出しに行き、わたしは思いつくだけのレシピを書き出した。その中で手早く上手にできそうなものをローテーションしてみてはどうかと提案してある。幸いというか、倉持さんにとっては災いかもしれないけれど、桃華ちゃんが食べに来てくれるようだし、味の変化や店の状況はこっそり報告してもらおうと思っている。


「ナツ、どこいくの?」


 ここに来るときに東條さんから借りた鞄に、来たときと同じように必要最小限のものだけを詰め込んで部屋を出ると、文弥が不思議そうに首を傾げた。


「あれ、ふみ、店のお手伝いしてるんじゃなかったの」

「ナツがまだねてるのか、みてこいっていわれた」


 今日、家を出ることは兄にも伝えてあった。もしかしたら、また渋谷さんのお店で働かせてもらえるかもしれないことも。父親とは関係を変えることができずに、わたしも最後まで意地を張って目も合わせなかった。

 いつか、兄も父も驚くような料理を作る。ちゃんと認めてもらえるようになるまで、今のままの関係が続いてもかまわないと思っていた。

 だから店が忙しくなる昼ごろに、こっそり家を出る。そう決めていた。


「ナツは、おでかけ。行ってくるね」


 文弥の頭を撫でながら、次に会うときにはどれだけ大きくなっているだろうと想像する。

 と、音を立てて誰かが外階段を駆け上がってくるのが聞こえた。


「ナツー、まだ寝てんのか?」

「パパ! ナツ、おでかけするんだって」

「飯ぐらい食ってけよ。置いとくからな」


 兄はちらっとわたしを覗いただけで、すぐさま文弥を連れて出て行った。

 ここに戻ってから、家の食事を食べたことがない。食べたいと思わなかったわけじゃない。あくまで部屋を借りただけ。極力世話をかけることはしたくなくて、とくに食事については、こだわって手を付けなかった。

 ゆっくりとリビングに足を踏み入れれば、テーブルの上に皿が置かれている。いままさに出来立ての、湯気の立ち上るそこから、忘れられない匂いが漂ってきた。


「これ……」


 フライパンサイズの特大ハンバーグ。上にはチーズと特製デミソースがかけられていて、横には山盛りのポテトにニンジンのバターソテー。そうしてココットには温玉。

 思わず笑ってしまうけれど、同時に胸の奥が締めつけられた。


「こんなに、食べきれないよ」

「ナツ、ナツ、これも、ほら食べて」


 振り返れば、特盛ガーリックライスを持った母がいそいそとやってくる。

 そうしてテーブルに皿を置くと、わたしの両手を皺だらけになった大きな手でぎゅっと包み込んだ。


「いっぱい食べて、また頑張るのよ。それから、お願いだから、なにかあったら必ず連絡してちょうだい。お父さんもあんなんだけど、ホントは心配してるのよ。今日だって、絶対いつものメシを食わせていけって。夏美もわかってると思うけど、ね、お父さんってああいうひとだから」

「……うん」


 じゃあねと手を振り、母も兄と同じように忙しそうに店に戻っていく。そういう慌ただしい時間帯だというのに。半ば呆れてテーブルの上を見れば、これを作ってくれた父の仏頂面まで浮かんでくる。

 大切な家族の気持ちを押し切って飛び出して、やっと手に入れた場所を、わたしは自分の不甲斐なさで手放した。そうして都合よくここに戻って来たかと思えば、また勝手に出て行くのに。

 わたしは、以前自分の指定席だった椅子に座ると、用意されたフォークでハンバーグをひとくちだけ食べた。

 いつだってわたしを支えてくれた味は、懐かしくて優しくて、ほんの少し切ない。これよりおいしいハンバーグなんて、いくらでもあって。片田舎の食堂で、さほど人気があるわけでもないメニューのひとつで。

 ただ、それだけなのに。


「おいしい……」


 うんと小さいころから、わたしが自分で辿ることのできる一番昔の記憶の中に、もうすでにこのハンバーグは存在していた。大好きで毎日食べたいとせがんでも、大事なときにしか作ってもらえない、特別なメニュー。

 もうひとくち、ふたくちと食べ始めれば、訳もなくぽろぽろと涙があふれ出す。その涙を懸命に拭いながら、わたしは夢中で目の前の料理を食べた。

 食べ終えると皿を洗い、それと鞄を持って、わたしは階段を駆け下りる。そうして店のドアを開けると、カウンターに皿を置いた。


「お父さん、ごちそうさまでした」


 忙しそうにフライパンを揺らす父は、こちらを見向きもしない。横で同じように手を動かす兄も、ちらりとわたしと父の様子を伺うだけだ。

 話したいことが、あった。でも、どう話していいのかわからなかった。ごめんなさいとありがとうを言おうとして、代わりに小さく息を吐き出す。どんな言葉も、いまのわたしにはまだ中途半端なままのような気がした。


「行ってきます」


 父の背中に深々と頭を下げて、わたしは店を、家を出た。




 数か月前、俯いて逃げるように電車に乗り込んだホームに降り、立ち止まる。雑踏もざわめきもどこか懐かしい。不安の入り混じった緊張を拭い去るように、わたしはしっかりと顔を上げ、辺りを見渡して足を踏み出した。

 逃げても隠れてもどうしようもないところへ追い込まれて、そこに閉じこもっていることを少しも考えなかったわけじゃない。会いたいひとが、待っていてくれるひとがいるから、わたしはまたこの街にやってくることができた。知っている誰かに出会っても、わたしはもう逃げない。逃げたくない。


 地下鉄に乗り込み、東條さんの事務所近くの駅で降りる。あのロッカーの前を通り過ぎ、以前斉田さんと出会ったスーパーで買い物をした。東條さんが何を食べたいか聞いてから、一緒に来ればよかったかもしれない。でもきっと、ヒナコの作るものならなんでもいいなんて言いそうな気がして、わたしは適当においしそうな食材を選んだ。


 気が付けば日は随分と西に傾いていて、わたしは食材を抱えて事務所へと急ぐ。会ったら、東條さんとまずなにを話そう。もしかしたらオンナノコの撮影中かもしれないし、仕事の電話をしているかもしれない。

 事務所のドアの前までたどり着いて、わたしは小さく息を吐き出した。オフィス東條と書かれた小さなプレートを確認して、ドアノブをゆっくりと回す。そうして静かにドアを開けた。


「うそ……」


 わたしがいる間、その存在を知らなかった窓からは西日が差し込み、がらんとした空間の床をオレンジ色に染めている。

 あったはずのものたちが、そこに存在しなかった。東條さんがいつも座っていた軋む椅子も、パソコンも、みんなで食事をしていた作業台も。オンナノコたちを撮影していた場所も機材も、わたしが眠っていたソファもなにもかも。


 愕然としてわたしはもう一度、ドアの外へ出た。久しぶりすぎて、階を間違えたのかもしれない、そう思ってプレートの名前を確認するけれど、やはりそこにはオフィス東條の文字がある。


「どうして」


 何度見ても、事務所の中にはなにもない。こんなことを桃華ちゃんや由紀さん、それに陽奈子が知っていたなら、きっと一週間前に教えてくれたはずだ。とにかく桃華ちゃんに電話してみようとポケットの中の携帯を探る手が震える。焦りと不安で嫌な汗が額に浮かんだ。


 抱えていた荷物を無造作に床に置けば、レジ袋からこぼれた玉ねぎが転がっていく。その先の薄暗いキッチンのほうから微かに低い呻き声がして、わたしは携帯を操作する手を止めた。

 まさか、と。わたしは恐る恐る声のするほうに近づいた。


「東條、さん……?」


 キッチンを覗くと、こちら側に頭を向け、行き倒れたような格好で床に横たわる人影があった。電気のスイッチをオンにしても灯りが点くことはなくて、わたしはゆっくりとその人影のそばにしゃがみ込む。


「東條さん」


 俯せていても、ゆるくうねった髪や力なく伸びた指の形で、それが東條さんだとわかる。一瞬にして血の気が引いて、わたしはその肩を必死で揺すった。


「東條さんっ、一体なにがあったんですか!? 大丈夫ですか、起きてください!」


 わずかに指先が反応して頭が持ち上がり、横顔が見える。


「ヒナ……コ」


 ずっと聞きたかった声がかすれている。呼んでほしかった名前なのに、余韻を味わう間もなくわたしは東條さんの顔に自分の顔を近づけた。


「どうしたんですか」

「ヒナコ……ぼくはお腹がすいて死にそうだ。早くなにか食べさせて」


 苦しそうに目を細めて、本当に死んでしまいそうな声でそんなことを言う。


「は……?」

「オンナノコの写真を撮るのをやめたんだけれど、そうしたら収入が減ってしまってね、金目のものを売って細々と暮らしてきたんだ。でも、ついに身ぐるみはがれて、電気も水道も止められた。今日でここも出て行かなくちゃいけないんだ。これも全部ヒナコの」

「東條さん、それ、どこまでがホントで、どこからウソですか。それとも、全部ウソですかっ!?」


 いつか、コンちゃんと一緒に帰って来たときのことを思い出した。倒れていた東條さんを心配して声を掛けたら、たしかさっきと同じようなことを言われた気がする。

 本気で心配してしまったことが悔しくて、つい声を荒げてしまえば、ごろりと身体を仰向けにして東條さんは微笑んだ。


「キスしてくれたら、教えてあげられると思うんだけど」


 東條さんの指先が、顔を覗き込んでいるわたしの唇にそっと触れる。そうして暖かなてのひらが、わたしの頬を包んだ。

 そのまま引き寄せられるように、わたしたちはキスをした。


「おかえり、ヒナコ」

「……ただいま」


 嬉しそうに笑うと、東條さんは身体を起こし、わたしを抱き寄せ互いの額をくっつける。


「会いたくて、苦しくて、本当に死んでしまうんじゃないかと思ったよ。でも死んでしまったらもう二度とヒナコに会えないし、キスもできない。そんなのはもっと耐えられないから必死で生きてきた」

「大げさ、です」

「大げさなんかじゃないよ、本当だよ。そう、オンナノコの写真を撮るのをやめたのも本当だ。だから家賃が高くて広いだけのこのオフィスは閉めることにしたんだ。それで今日が退出期日なんだけれど、ヒナコがなかなか来ないから、本当に死んでやろうと思ったよ」


 どこをどう信じていいのかわからなくて首を傾けると、頬に触れていた指先がその首筋をなぞるように滑っていく。


「新しい事務所には、ヒナコと一緒に眠るためのふかふかのベッドも用意してあるけれど、そこに行くまでとても我慢できないくらい、ぼくはいま飢えているんだ」


 不意に服の中に指先が潜り込んできて、わたしは身をよじる。肌の上を這うような艶めかしい指の動きから逃れようとしたところで、もっと身体を引き寄せられて唇が重なった。

 たった数か月前まで、毎夜繰り返してきたキスなのに、どうしてこんなに身体が、胸の奥が震えてしまうんだろう。こみ上げる切なさは、東條さんから与えられる甘く痺れるような感覚に包み込まれて、わずかな痛みを残して消えていく。


「ヒナコ」


 東條さんが低い声で、ゆっくりとわたしの名前を呼ぶ。

 その名前に、胸が痛むことも、それを悟られないようにすることも、もうない。わたしは甘える猫がすり寄るように東條さんの首元に顔を埋め広い背中にしがみついた。そんなわたしの髪を東條さんが撫でてくれると、穏やかな海をたゆたうように心地よくて目を閉じる。


「もっと、もっと、ヒナコを食べたい」

「久しぶりに会えたのに、いきなりそれ、ですか」

「言ったはずだよ。ヒナコがここに戻ってきたら、ぼくの好きなようにさせてもらうって」

「だからって」


 もうすぐ唇同士が触れ合いそうな鼻先が擦れる距離で、ふたりで囁きながらくすくすと笑う。東條さんの吐息が首筋にふれるのがくすぐったくて、わたしは首をすくめた。

 わたしたちは離れていた夜を取り戻すように、何度もキスをする。本当は話したいことがある。離れていた間、わたしがなにをして、なにを考えていたのか。東條さんのことを思い出して恋しくて、眠れない夜が続いたことや、バイト先の倉持さんに東條さんの面影を見つけ出して、ときどきぼんやりしてしまったこととか。それから今夜のメニューだって。

 けれどそんなことなんてどうだってよくなるくらい、わたしも東條さんと同じようにお腹がすいていた。

 まずは、ずっとおあずけだったものを食べ尽くして。いろんなことは、それからでも十分だ。





お付き合いくださいまして、ありがとうございました。


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