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みらいへ

 暖かな日差しを浴びて水面を輝かせながら、河は滔々と流れていた。自転車を停めて階段を下りていくと、芝生の上にいつかのわたしたちのように、制服姿でおしゃべりをしている女子高生がいた。なにがそんなにおもしろいのかケラケラと声を上げて、短いスカートのまま芝生の上を転がっている。

 彼女らを見て、陽奈子が口を開いた。


「今、テスト期間だっけ?」

「どうなのかな、わたしたちのときとは違うだろうけど……時間的には、サボりだね」

「きっと、ひとりは優等生で、相手のコに誘われてサボっちゃったんだよ」

「それって……陽奈子だって、楽しそうにしてたじゃん」

「楽しかったけど。わたし、学校サボったのなんて、後にも先にもあれっきりだよ」


 お互いに顔を見合わせて、つい笑う。そうして彼女らから少し離れたところで、わたしたちも芝生に腰を下ろした。


「なっちゃん」


 わたしを呼んだあと、俯いていた陽奈子が顔を上げる。


「ごめんね」


 真っ直ぐにわたしを見つめる陽奈子の瞳に、涙が浮かんでいるのがわかる。きゅっと結ばれた唇が、わずかにゆがむ。


「まだ、どうしてあんなことしたのか、自分の中で上手く整理できていないんだけど」

「わたし……もう、陽奈子に会えないかと思ってたんだ。だから、こうして陽奈子のほうから会いに来てくれただけで、嬉しいよ」


 本当に、そう思っていた。あんなことをさせてしまうくらい、あのときのわたしの存在は、陽奈子を傷つけた。だからどんなに陽奈子に罪の意識があったとしても、それをわたしに伝えることはずっと遠いことか、それとも永遠にないだろうと予想していた。

 不意に陽奈子の表情が、くしゃりと音を立てるように緩む。


「なっちゃんてホント……そんなんだから、騙されたりするんだよ」

「……わたしの話、聞いた?」

「うん。付き合ってたオトコが本当は妻子持ちで、それを知らずにずっと騙されてたって、わたしも桃華ちゃんも、由紀さんも、東條さんから聞いたよ。その男がディマーレのオーナーの娘婿だとか、どこまで本当のことを知ってるかわからない本妻に訴えられそうになったってことも。みんな相手のオトコに怒ってたけど、わたしはなんか、なっちゃんらしいなって思っちゃった」


 呆れたように笑うから、わたしは口をとがらせた。それを見て、陽奈子はごめんと言いながらも笑っている。

 東條さん以外、誰にもなにも話すことができずに、あのまま出てきてしまったことがずっと気掛かりだった。本当なら、わたしの口からすべて打ち明けるべきだったのかもしれないけれど。この三人に問い詰められて、東條さんも理由を話さざるを得ない状況に陥ってしまったんじゃないかと、想像すると少し笑えた。

 陽奈子は視線を川面に向けると、わたしはね、と口を開いた。


「短大卒業間近に、父親が借金残して消えちゃったんだ」

「……消えたって、どういうこと?」

「蒸発っていうのかな。今でも行方不明で、生きてるのか死んでるのかもわかんない。母親が借金の連帯保証人になってて、家に取り立てが来たんだけど。ずっと専業主婦して世間知らずのひとだから、大パニックで寝込んじゃって……」


 陽奈子の横顔から笑みが消える。わたしもまた、陽奈子が語ることが事実だと飲み込むことができなくて、言葉を失った。


「今思えば、自己破産させちゃえばよかったんだよね。わたしたちになんの影響もないんだし、そんな母の面倒はわたしが見ればいいことだったし。でも、そういうことを誰かに相談しようとか、考えられなくて。弟の大学受験だって控えていたし、とにかくお金を返さなきゃって思い込んじゃった。本当は親の借金を子供が払う必要なんてないんだよ。そもそもあのころのわたしに、払える能力だってなかったのに……あんなに泣いて落ち込む母親見てたら、わたしがどうにかしなきゃいけないって、全部、背負っちゃったんだ」


 就職も決まっていたけれど、普通の仕事じゃ、気が遠くなるほどの時間をかけなければ払いきれる金額じゃない。そうしているうちに、どんどん利子ばかりが膨らんでいく。それなら、どうにかして短い時間で稼げる仕事を見つけなきゃいけない。と、たどり着いたのが風俗だったと陽奈子は続けた。


「女のわたしにできるそんな仕事なんて、限られてるでしょ。その頃ね、付き合ってたひとがいたんだけど、借金のこと相談したら、途端に音信不通になっちゃって。なんていうか、それで風俗で働く踏ん切りがついたっていうか」


 いつだって、冷静に物事を捉えているように見えていたのに。そんな陽奈子が誰にも相談できずに、ただひとりですべてを解決しようと悩んだ結果。それが、あの仕事だったのか。


「このこと、誰かに話したの、初めて」


 そう言ってわたしを見た陽奈子は苦笑した。


「借金返すためにソープなんてさ、なんか、よくあるような話じゃない? そんなことで同情されるのもイヤだったし、自分の借金なら自業自得だけど、親のなんて……恥ずかしくて誰にも言えなかった」

「陽奈子だって……陽奈子らしいよ。真面目でプライド高くって、全部自分で片付けなきゃいけないって思うなんて」


 もっと甘えられる誰かがいたなら。話せる相手がいたなら。未来は変わっていたのかもしれない。

 陽奈子の表情が強張って、わたしも言い過ぎたのかと口を噤む。けれど次の瞬間、陽奈子はふっと笑った。


「そう、だから、わたしはなっちゃんみたいになりたかった。もっと肩の力を抜いて、ダメなときはダメだって誰かに頼れるような弱さがほしくて。べつに、なっちゃんが弱かったってわけじゃないよ。でも、嫌味なく守ってあげたいって思わせるなにかを持ってることが、うらやましかった」


 太陽の光を反射させてきらめく水面に目を細め、陽奈子は膝を抱えた。


「なっちゃんに会いたかったよ。でも、実際に会ったとき……東條さんのところでしっかり守られてたなっちゃんが……うらやましすぎて、すごくムカついた。家族が守ってくれてたこの街から飛び出して、ひとりで頑張ってるんだって思ってたから。よりによって、あんなとこで、なにしてんのって」


 あの日、気がついたら、なっちゃんを突き飛ばしてた。

 小さな声で言うと、陽奈子は抱えた膝に顔を埋める。


「ごめん。わたし、勝手になっちゃんに期待しすぎてたんだ。もっと真っ直ぐにわたしよりずっと先を歩いてるって思ってた。そうでいてほしかった。でもね、あの日も言ったけど、あんな場所で隠れてるみたいななっちゃんを見たとき、わたしほっとしちゃった。なっちゃんも挫折したんだって、気持ち悪いくらい喜んでる自分がいて。そんな自分のことが大嫌いで……」


 顔を埋めたまま、陽奈子は肩を小刻みに揺らす。

 すすり泣く陽奈子を、わたしは抱きしめた。


「陽奈子、話してくれて、ありがとう。もう、いいよ、大丈夫。わたし、なんともないんだし。わたしのほうこそ……」


 ごめんと謝ろうとして、やめた。あのとき陽奈子に言われたように、わたしが謝っても陽奈子の気持ちが晴れるわけじゃない。

 陽奈子が家の事情で仕事を選んだことも、わたしが失恋して東條さんのところに居候したことも、誰のせいでもなく、自分たちが選択した道だ。その先で再会したとき、お互いに期待外れだったとしても、それはもう、どうしようもないこと。

 わたしだって陽奈子がソープ嬢だなんて、正直ショックだったし、幻滅した。似たような感情を陽奈子が抱き、屈折してあんなことをしたとしても、それにはすべて理由があった。いま聞いた話で、十分だ。これ以上、話をぶり返して傷口を深く広げることに意味はない。


「わたしね、また料理、頑張ろうと思ってる。どこまでできるかわからないけど、誰かに誇れるようになれるまで、やってみる」


 立ち止まっている必要なんかない。

 前へ、進まなきゃ。

 顔を上げた陽奈子は、わたしを見て笑う。いつか教室で見たときと、同じ笑顔で。


「なっちゃんのそういうとこ、好きだよ。なんの根拠もないのに、前向きなトコ」

「なんか、すごくバカみたいじゃない、それ」

「そんなことないよ、褒めてるってば」


 涙を拭いた陽奈子は、一度大きく息を吐き出してから、空を見上げた。


「わたしもね、仕事、辞めたんだ」

「ホントに?」

「うん。借金はとっくに返し終わったし、弟の学費も目途がついたし……来年ね、ワーホリでオーストラリアに行くことにした」

「そっか……陽奈子、前から海外行きたいって言ってたよね」


 突然の話に驚きながらも、まだそれを信じられずに陽奈子の表情を覗く。英語が得意だった陽奈子は、たしか英文科に入学したはずだ。就職予定だった仕事の内容は知らないけれど、英語を使う仕事に就きたいと話していたのを覚えている。


「借金返し終わったら、辞めようってずっと思ってたんだけど。お金が無くなることが不安で仕方なくて、なんとなく辞められなくなってた。でも、なっちゃんに会ったおかげで、目が覚めた」

「わたし……?」

「そ。人の振り見て、我が振り直せって言うでしょ」

「それって、やっぱり褒めてないよね」


 わたしがむくれると、陽奈子は笑う。


「うそうそ、冗談。でもね、なっちゃんに会って、いろんなことを思い出したの。ここで一緒に過ごしたこととか、あのとき、わたしたちはどんなことを夢見てたかとか。陽奈子は夢の途中でちょっと躓いただけだし、わたしなんて……まだなにも始めてない。だから、また最初からやり直せるって思ったんだ」

「うん」

「お互い、いろいろ経験値積んでるし、ね」


 強くなったぶん、失ったものもあるけれど、きっと、これまで以上の場所へ進むことができると思う。

 わたしと陽奈子は、それから将来のことを少しだけ話した。教室で語っていた夢物語じゃなく、現実のちょっとだけ先の未来の望みを。漠然としたものじゃなく、具体的で手の届きそうな目標を。

 そうして夕方の冷たい風が吹き始める前に、ふたりで店に戻った。


「おかえりー」


 そう笑顔でカウンターから振り返ったのは桃華ちゃんだった。その横では由紀さんが微笑んでいて、カウンターの向こうの倉持さんは、泣きそうにこわばらせた表情でわたしに助けを求めているように見えた。


「予定より早く用事が終わったから、ここで待ってたの」

「そうだったんですか」

「ヒナコ、やっぱコイツ、ヒナコのこと好きなんじゃん。振られてるって言ってるけど、諦めてないっぽいし」


 桃華ちゃんの発言に、倉持さんはぎょっとして慌てふためいている。


「ちょっ、桃華ちゃん! 倉持さんになにを」

「べつにー。けど、そーゆーことは、ちゃんと聞いておかなきゃね。逐一東條さんに報告しなきゃいけないし。それに、アタシ、来月からこのお店にランチ食べに来るんだから、ごはん作ってくれるひとのこと、ちょっとだけリサーチしようと思っただけだよ」

「だからって、え……桃華ちゃん、いまなんて」

「ん?」

「来月から……?」


 このお店にランチを食べにくる、と。桃華ちゃんは言ったはずだ。まさか、電車代をわざわざ支払って、ここまで来るというのか。

 わたしが首をひねると、桃華ちゃんはバックからなにかを取り出して、こっちに差し出した。

 近づいてそれを受け取ると、わたしは見覚えのあるケースを開ける。


「これ……」


 桃華ちゃんがくれた、ネイルチップだ。

 苦い思い出が蘇るけれど、きれいに再生されたチップに、わたしは胸が熱くなった。


「アタシ、これを仕事にすることにしたの。まえに同じ店で働いてたセンパイが、こっちでネイルサロンしてるんだけど、頼み込んでアシスタントさせてもらうことになったんだ。働きながら資格とって、いずれは自分の店を持ちたいなー、なんて」

「それでいま、アパート探して決めてきたんだよね」

「そー。ホント由紀さんがいてくれて助かったー」


 わたしの横にいる陽奈子も、そのことは知っていたようで、呆然とするわたしを見て微笑んでいる。


「ヒナコ、次のお手入れからは、有料だからね。それ、大事に使ってよ」

「うん……ありがとう」

「それから」


 ふと真顔になって桃華ちゃんは立ち上がると、またバックの中に手を入れ、わたしの前にやってくる。

 そうして中から取り出したものを、わたしの手に握らせた。


「小田夏美さん、一週間以内にこの街から出て行くこと。一週間後、このチケットは有効期限が切れてしまうわ。アイツらも、いまはもう出て行って、二度と戻って来ないそうよ」


 いつかの恵さんの真似をしているのがわかって、わたしは思わず苦笑する。現場にいなかった由紀さんと陽奈子は、桃華ちゃんがしていることがどういうことなのかわからずに、きょとんとしていた。

 わたしはナリキリ桃華ちゃんと目を合わせて頷くと、ふたりほぼ同時に声を上げて笑う。


「でも、桃華ちゃんはこっちに来ちゃうし、ナツミがオーストラリアに行っちゃったら、なんか淋しいな」


 あのとき手にしたものとは行先が逆の片道特急券を眺め、わたしはそっと息を吐く。


「なーに言ってんの。アンタのこと、死にそうになりながら待ってる人がいるじゃん」

「そうそう、飢え死にしそうだって、太一が毎日聞いてるって」

「いっそ一回飢え死にしちゃえばいいのよ、東條さん」

「わー、桃華ちゃん、オニ」

「だーかーらー、東條さんが死んじゃう前に、早く帰っておいでよ、ヒナコ」


 どうしてだか、わたしは泣きそうになっていた。あの場所にまた戻ってもいいのだと言ってもらえる気がして、ほんの少しだけ迷っていた自分の背中を押してくれる彼女らの存在が、どうしようもなく暖かい。


「ありがとう」


 わたしは桃華ちゃんにもらったネイルチップのケースと切符を握り締める。

 カウンターの向こうで、倉持さんも微笑んでくれていた。お店のことは少し心配だけれど、あと一週間、時間はある。

 帰ろう、東條さんのところへ。

 早く、会いたい。


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