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ふたたび

「このパスタ、ヒナコの味がする」


 くるくるとフォークに巻いたパスタをひとくち食べて、桃華ちゃんが首を傾げた。そうしてカウンターの奥で一息ついている倉持さんを見てから、向かいに座るわたしを睨んだ。


「なにコレ、どーゆーこと」

「どーゆーって」

「なんでこの店のパスタ、ヒナコの味がするの」

「だから、さっき言ったじゃない、わたしがバイトしてるから」

「あの冴えないオトコと一緒にいちゃいちゃ作ってるってこと?」

「あの、ねぇ、ヘンに誤解しないで。失礼だよ。もう、そんなこと言うなら、桃華ちゃんは食べなくていい」


 わたしが桃華ちゃんの目の前の皿を取り上げ、同意を求めようとカウンターの倉持さんを見れば、彼の姿は忽然と消えている。たぶん、カウンターの下にしゃがみ込んで、息をすることすら我慢してるに違いない。


 わたしの女友達が三人やってくる、というのを伝えただけで、顔をぼうっと赤らめていたし、もともとお客さんとのコミュニケーションがあまり得意じゃないのも知っている。そんな倉持さんに、桃華ちゃんのひと言はカウンターパンチ級だったかもしれないと、今更ここで食事をしようと誘ったことを後悔した。


「食べるよ、ヒナコのパスタはおいしいもん」


 カウンターに気を取られているうちに、わたしの手から皿を戻して、桃華ちゃんはパスタを頬張った。


「でも、男のひととふたりっきりで、こんな狭いお店で料理してるって知ったら、東條さんもちょっとくらい妬いてるんじゃないかな」


 その桃華ちゃんの隣で陽奈子が言えば、わたしの横で由紀さんがふっと笑う。


「ヒナちゃんがそばに居ないだけで、とっくに知らない誰かにヤキモチ妬いてると思うわ。でも東條さんて、そういうの顔にも態度にも出さないからわからないけど」


 昨日、陽奈子に電話をすれば、そこには桃華ちゃんと由紀さんがいた。東條さんの事務所で知り合った三人は月に一度、女子会をして盛り上がっているのだという。その中で、ヒナコの様子をみんなで見に行こうという話が持ち上がり、こうしてなんともタイプの違う四人が、ひとつのテーブルを囲んで同じパスタを食べている。


 三人が一緒にいるのは慣れているようだったけれど、わたしはなんだか不思議な感覚が抜けなかった。同時に、ひとりだけ同じ場所にいることができなかったことが、悔しいような、淋しいような気分になる。


「けどヒナコ、案外元気そうじゃん」


 おしゃべりをしながらゆっくり食事を終えて、倉持さんが淹れてくれたコーヒーをテーブルに運ぶと、桃華ちゃんが言った。

 わたしは自分のコーヒーを持って席に座る。


「もっと落ち込んで、げっそりしてるのかと思ってた」

「そんな暇ないよ。働いて、家賃支払わなきゃいけないし」

「家賃? 実家にいるんでしょ?」

「そうだけど……」


 わたしと桃華ちゃんのやりとりを聞いていた陽奈子が、カップをソーサーに戻して口を開いた。


「おじさん、大丈夫だったの?」

「帰って来た日に少し話したけど……それっきり、無視されてる」


 なにそれと聞いてくる桃華ちゃんに、陽奈子が伺うように視線を向けるから、わたしは黙ってコーヒーを飲んだ。


「ヒナコのお父さん、ヒナコが料理の仕事に就くことには猛反対してて、専門学校行くときなんて、家出同然だったんだよね。他の家族は応援してくれてたみたいだけど……だからわたし、ヒナコが実家に帰ったって聞いて、どうしてるのか心配してたの」

「ふぅん。けど、ヒナコの実家って、食堂やってるんじゃなかったっけ。それなら娘が自分と同じ仕事するなんて、もしかしたら店継いじゃったりしてくれるかもしれないんだし、嬉しいんじゃないの?」

「お店は、お兄さんが継いでるし、ね」

「うん……」


 小さいころから、兄と一緒に店の手伝いをしていた。おいしい料理を父が作り、母が笑顔でお客さんの元へ運ぶ。子供のころから見続けていた当たり前の風景の中で、わたしが憧れたのは料理を作る父の姿だった。同じように憧れていた兄は、父の姿を追うように料理の道に進み、わたしより一足先に厨房で父と肩を並べるようになった。


 わたしも同じ場所で、同じように料理をしたい。ずっと口にも出してきた夢を、進学という希望にしたとき、はじめて父に反対された。


「女が厨房に立つのは無理だって、頭ごなしに怒鳴られて」

「は!? ナニそれ、ヒナコの父親って、いつの時代のひと? そーゆー価値観、最低」

「わたしも言われたときは、そう思ったし、性別なんて絶対に関係ないって思ってたけど……」


 想像をはるかに超える厳しい世界が、そこにはあった。家族のごはんを作るだけなら、きっと誰にでもできること。けれど店に出す料理は、敏感な感覚のひとつである味覚をいつだって研ぎ澄ませて、繊細で正確に作り上げなければいけない商品であり、作品であり、食べるひとにとってのご馳走でなければいけない。


 ずっと立ちっぱなし、重い食材を運ぶこともあれば、熱くて重い寸胴なべを洗わなければいけないこともある。冷たい水で手は荒れる。熱気のある厨房から、冷凍庫に入ることを一日に何度も繰り返す。

 入ったばかりのころは、皿を洗い、野菜を洗って下ごしらえをするまでのことしかさせてもらえない。実際に調理をさせてもらうのは、ずっとあとのことだった。


「聞いた話だけれど、キッチンの仕事って体力も必要だし、まだまだ男社会だから女性にはキツイみたいね。それから、生理周期で味覚が変化するなんて言うひともいるし」

「えー? でも女性料理家ってたくさんいるじゃん」

「料理家はね。料理人は、なかなかいないでしょ。たぶんそういうことをヒナちゃんのお父さんはわかってて、それで反対したんじゃないかな」


 実家を出たばかりのころのわたしなら、由紀さんの話は父を買いかぶりすぎだと思うだろうけれど。きっとそういうことで父は反対したのだろうと、今なら理解できる。


「で、ヒナコ、あっちに戻ったらどーすんの。また一日中、東條さんのトコでゴロゴロすんの?」


 べつにゴロゴロなんかしてなかったつもりだけれど。桃華ちゃんにはそう見えていたのだろうか。不本意だったけれど、ほとんどなにもしていなかったことには違いなくて、反論するのはやめた。


「仕事、しようと思ってる。まだ、探してないけど」

「そういえば、ディマーレの渋谷さん、新しいお店出すのよ」

「えっ……」

「実はね、オーナーが店を手放すって言いだして。料理長の渋谷さんにいくらかで売るって話になったんだけど、それが到底払えるような金額じゃなかったらしくって。一応、店のオーナーになってくれる別のひとが見つかったんだけど……渋谷さんだけ、店を辞めることになったの」


 由紀さんの言っていることが信じられずに、わたしは言葉を失ってまじまじと由紀さんを見つめた。


「渋谷さんだけって、どういうことですか」

「渋谷料理長の給料が格別高いとかって理由らしいけど、そのへん、どんなやり取りがあったのか、わたしも詳しくは知らないの。渋谷さんのほうから辞めるように仕向けたとか、そんな話もあるけれど、本当かどうかわからない」

「でも、渋谷さんがいなかったら、ディマーレは」

「レシピとスタッフを残していくのを条件に、退職金が出たみたい。一応円満退社だって、渋谷さんは笑ってるけどね」


 わたしは思わず頭を抱えた。どこかで、わたしをかばったり、岸川さんを責めたりしたのかもしれない。そのせいで、辞めさせられるなんてことになったんじゃないだろうか。

 渋谷さんはスタッフを大切にしてくれる。あのときだって、渋谷さんが悪いわけじゃないのに、あんなに頭を下げて謝ってくれた。


「ヒナちゃんのことは、無関係だから。それはだけは強く伝えてって、渋谷さんから言われてきたの」


 それからと、おもむろに名刺を取り出して、わたしに差し出す。


「新しい店、やっと物件が決まったばかりで、すぐにオープンすることはできないって言ってたけど、たぶん、年内にはギリギリ間に合うんじゃないかな。それで、即戦力になるスタッフを探しているそうよ」


 名刺には肩書きもなにもなく、ただ渋谷さんの名前と連絡先が記されていた。

 あんなに大切にしていた店とスタッフを置いて出て行くなんて。簡単に、そんなことができるひとじゃない。

 わたしは名刺をぎゅっと握りしめる。


「少しでも、自分と仕事をしたことがある人材がいてくれたら助かるって、実はヒナちゃんをスカウトしてくるように頼まれたの。一度、渋谷さんに連絡してもらえないかな」


 そんなふうに言ってもらえることは、とても嬉しかった。けれど、あんなことがあったからとはいえ、自分が店に、渋谷さんに対して何も連絡をせずに姿を消してしまったことへの罪悪感は残ったままだ。 

 こんな気持ちもすべて打ち明けて、それでも渋谷さんが私を許してくれるなら。そのときは、また一緒に働きたい。

 躊躇ってから黙って頷くと、由紀さんはよかったと笑う。


「じゃあ、わたしたちはちょっと出かけてくるから。なっちゃん、あとから電話して」

「はい」


 そう陽奈子が返事をすると、由紀さんと桃華ちゃんは立ち上がる。

 ごちそうさまでしたと、厨房の奥で明日の仕込をはじめたらしい倉持さんに声を掛けると、ふたりは店をあとにした。


「なっちゃんとふたりだけで話がしたいからって、お願いしてあったの」


 コーヒーカップの口を付けた部分を指先で拭いながら、斜め向かいに座る陽奈子がわたしを見る。そうして陽奈子もごちそうさまでしたと小さく言って席を立った。


「前に学校サボって、河川敷で遊んだの、なっちゃん覚えてる?」

「うん。覚えてるよ」

「そこ、行こう」


 わたしも立ち上がり、倉持さんに夕方には戻ると声を掛けて店を出た。


「なっちゃん、この自転車、まだ乗ってるんだ」

「そうだよ、わたしのアシ、これしかないから」


 店の前に停めてあった自転車を見て、陽奈子が笑う。懐かしい笑顔と、笑い声だった。それを聞いて、わたしはやっとほっとする。

 電話口での陽奈子は、どこかぎこちなかった。わたしも緊張していたし、きっと陽奈子も同じだったと思う。話したことは、会いに来るということだけで、そのあとは桃華ちゃんや由紀さんに代わってしまったから、肝心なことはなにも聞いていない。

 自転車を押しながら、わたしは陽奈子と並んで歩いた。高校生の頃は、学校帰りにわざわざこの繁華街までやってきて、遊んだり買い物したり、ドーナツを食べながらおしゃべりをしたり、そんなことばかりしていた。


「懐かしいね、こうしてふたりで歩くの」


 大人たちが、どれだけ不安な現実を語ろうと、楽しいことばかりの未来しか考えられなかったころのことを、ふと思い出す。

 陽奈子を見れば、目を細めて空を見上げていた。


「うん……すごく、懐かしい」


 わたしが辿った記憶より、ずっと遠い昔のことを思い起こすような口ぶりに、胸の奥がちくりと痛む。

 同じ歳月を同じスピードで過ごしてきたはずなのに、高校を卒業するまでは、きっと同じラインに立っていたはずなのに。

 陽奈子が、ずっと遠く感じる。あの日、再会したときと変わらない感情が、わたしを無口にさせた。陽奈子もまた、なにも語らないまま、わたしたちは河川敷まで、ただゆっくりと歩いた。


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