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はやるきもち

「ナーツー! おーきーろー!」


 悲鳴混じりの呼びかけに、わたしの脳が叩き起こされる。ここ三カ月以上、毎日決まってだいたい午前十時前後になると、彼は独特のテンションで寝ぼけているわたしのまわりを走りつつ、甲高い声で叫び続けてくれる。


「ふみー、わかった、起きるから」


 早く身体を起こさなければ。彼の全体重プラスアルファを腹部で受け止めることになる。これまで幾度となく後悔してきた失態を、今日こそ回避すべく、わたしは身体を起こした。

 と、今にもわたしに向かってジャンプしようとしていた格好で、甥っ子の文弥ふみやがにやりと笑う。そうして、きゃっきゃと声を上げて部屋を出て行った。

 わたしはのっそりと起き上がり、緑色の地にキャラクターが描かれたカーテンを開ける。晴れているからと窓を開ければ、夏が終わりすっかり秋になった冷たい風に身体を震わせた。


「なつ、きょうはパパのひだ! パパのたんじょうびだぞ」

「あぁ、そうだっけ」

「だからパパもママも、じぃじもばぁばもおしごとはおやすみだぞ。だから、ナツもおしごとやすめ!」


 HAPPY BIRTHDAYと大きく書かれたクッション地の帽子をかぶり、おもちゃの剣をわたしに向け、まるで王様気取りで命令する。

 わたしは首を横に振り、この部屋で唯一わたしのものが入っているバッグに手を伸ばす。


「ナツはお仕事。でも、みんなはお休みだから、きっとどこかにおでかけするんじゃない?」

「えー。ナツもいっしょがいいー」


 剣を投げ捨て、後ろから抱きついてくるから、わたしもつい文弥を許してしまいそうになるけれど。わたしがよくても、きっと父が一緒に行くことを喜ばない。それを知っているから、わたしは今日、店が休みだということはわかっていたけれど、あえて自分の休みを入れなかった。

 もうじき四歳になる甥っ子をなだめ、着替えると、わたしはなるべく家族と顔を合わせないようにして身支度を整えた。


「なっちゃん、今日も仕事なんだね」

「あ、おはようございます。すみません。でも、わたしがいないほうが」

「そんなの、やっぱり気を使いすぎだよ。それに……」


 もうすぐ十月になっちゃうのに。

 洗面所を出てばったりと出くわした兄嫁である愛さんは、そう、淋しそうな顔をする。

 愛さんだけには、すべてを話していた。火事の夜からどんな経緯で、この家にまた帰ってくることになったのか。それまでどんなことがあって、わたしの気持ちがどんなふうに動いて、これからどうしようとしているか。


 家族ではあるけれど、血のつながりもなく同性の愛さんなら、きっと冷静に受け止めてくれると思ったから。実際、冷静ではなくて、いちいち一喜一憂してあのひとのことを訴えようと憤ってくれた。でも今は、わたしの気持ちを受け入れて、見守ってくれている。


「じゃあ、行ってきます」

「うん。気を付けてね」


 騒がしい居間を避けて、わたしは玄関に向かい、速足で階段を下りる。一階の店のドアには、臨時休業と手書きされた紙が貼りつけられていた。その前を通り過ぎ、隣の家との隙間に置かれた自転車を出し、わたしはバイト先へと向かう。


 この家に残されていたわたしの物は、高校時代に通学で使っていたこの自転車だけだった。部屋は甥っ子の文弥の部屋になっていて、わたしはそこに間借りしている。家賃は月三万円。それは戻ってきてすぐに、ここに居座る条件として父から言われたことだ。


 落ち込んだり、悲しんだり、淋しがったりする余裕はなく、わたしはすぐにバイトを探した。やっぱり料理がしたくて、でも、長くは働けないから、その条件でも雇ってくれるカフェをなんとか見つけることができた。


 カフェのある繁華街まで、家から自転車で約三十分。坂道を下りながら、遠くに見える山々の頂に白く雪が積もっているのが見えた。十日ほど前に初冠雪があったと聞いたけれど、どおりで寒いわけだと肩を縮めた。

 短い秋が終われば、長い冬がやってくる。あのクリスマスも、近づいてくる。


 カフェの前に自転車を停め、店の中を覗けば、さすがの休日だけあって十一時を前に席が埋まっているのが見えた。


「あー、夏美さん、よかった、来てくれて。こんな時間なのにフードメニューばっか注文入って、兄ちゃんヤバいことになってる」


 わざわざドアを開けて迎え入れてくれたのは、オーナーの弟のじゅんくんだ。彼はまだ大学生で、土日と今日のような祝日だけ、ここでアルバイトをしている。そうして中に入れば、キッチンでオーナーの倉持くらもちさんがひとり、眉間に皺を寄せて黙々と動き回っていた。


「あぁ、夏美ちゃん、早く来てくれて助かるよ」


 額に浮かべた汗をぬぐう倉持さんに、わたしはすかさずヘルプに入る。注文は、すべてトマトソースのおまかせパスタだ。十席しかないこのカフェで、十人全員が同じメニューだなんて。でもまだ全部が同じでよかった。これでカレーと半々だったら、倉持さんはパンクしていただろう。


 ほとんど休む間もなく、客足が落ち着いたのはランチメニュー終了の二時過ぎだった。倉持さんと淳くんにまかないパスタを作り、おいしそうに食べてくれるのを横目で見ながら、わたしは明日分のパスタソースの仕込を始める。


「今日も夏美さんのパスタはうまいなぁ。やっぱ、うまいとお客さんって入るんだよ、兄ちゃん」

「うん、わかってるよ、そんなこと」

「夏美さん、ホントに今月いっぱいで辞めさせちゃうのかよ。兄ちゃん引き止めるなら今しかないって。いっそ嫁に来てもらえよ」

「うるせーな、淳、食ったらさっさと帰れ」


 はいはいと返事をして、食べ終わった淳くんは、渋々ながらも言われたとおり店を出ていった。交代でわたしがパスタを食べ、食後には倉持さんのおいしいコーヒーを淹れてもらう。

 三時を過ぎると、奥のテーブル席に常連さんがひとり、本を読んでいて、わたしは倉持さんと並んでキッチンに立った。


「じゃあ、今日は野菜を炒めるところからいきましょう」

「うん……」

「大丈夫です、弱火でゆっくりじっくり火を通せばいいんです」


 頷いた倉持さんの喉仏が、居心地悪そうに上下する。そうして火を点けると、鍋にオリーブオイル、にんにく、バジルを入れた。

 いつもわたしが作っているベースのトマトソースを、倉持さんに引き継ぐべく、先週から少しずつ手順を教えている。


 そもそもこのカフェに、フードもののメニューはなかった。コーヒーとドリンクとちょっとしたデザートだけ。けれどそれじゃあ客足が伸びないからと、試験的にランチをはじめることになり、ちょうどそのときに期間限定で働きたいとここを訪ねたのがわたしだった。


 繁華街とはいえ、大通りからは路地に入った人目につきにくい立地に、数年前まで倉持さんのお祖父さんが囲碁将棋同好会をやっていたというカフェらしからぬ外観で、三十歳を過ぎてから脱サラした倉持さんがなんとなく始めたというカフェは、隠れ家的といえば聞こえはいいけれど、正直、お客さんはまだまだ少ない。


「ランチメニュー、土日祝日限定にしようと思うんだ」

「そうですね、平日はそんなにひとも入らないし、いいんじゃないですか」

「このソース、冷凍しても使えるかな」

「大丈夫ですけど、一度解凍したら、必ず使い切ってくださいね。金曜日に仕込んで、日曜まで使って。でも、できればそのときに使い切っちゃって、次のランチの前にまた新しいのを仕込みたいですよね」

「……夏美ちゃん、ホントに……」

「手を止めると、焦げちゃいますよ」


 こっちを見ていた倉持さんは、慌てて鍋に視線を戻す。そうして木べらでしんなりした野菜を混ぜた。


「夏美ちゃん、まだうちで働いてくれないかな」


 そう言ったあと、すぐにそろそろトマトを入れたほうがいいかなと聞いてくる。わたしは頷いて、潰したホールトマトを鍋に入れた。


「いや、ごめん。もう何度も振られてるのに、諦め悪いよな。けど、ホント俺、夏美ちゃんがいなくなってランチ続ける自信がなくて。俺の作るカレーは全然人気ないけど、夏美ちゃんのパスタは、いつだって好評だろ」


 火を強くしてソースが湧いたら、アクを取り中火で煮込む。ここから先の工程はカレーと同じ要領だ。あとは最後の塩加減。適当ではなく適量にするのが難しくて、倉持さんを悩ませている。


「大丈夫です。バリエーションのレシピも残していきますし、そのうち慣れてきますから」


 倉持さんは小さく息を吐き出して、首を傾げた。


「彼には、やっぱり勝てないか。十月になったら、すぐあっちに行くの?」


 面接のときに、九月いっぱいしか働けないということは話してあった。それから、その理由についても簡単に打ち明けてある。それらを倉持さんは受け入れてくれているはずだったのだけど。ここにきて、少し引き止められていて、わたしのほうも、離れがたい気持ちはあった。


「……たぶん。とりあえず、実家も出ないといけないし」


 わずかに間があって、わたしたちは目を合わせた。

 切れ長の目元は、少しだけ東條さんと似ていると思うことがある。けれど、倉持さんは東條さんと違って、びっくりするほど真面目で不器用なひとだ。


「たぶんとか、とりあえずって……随分、曖昧な言い方だね」


 わたしは笑ってごまかして、明日のメニューを決めるべく、買い出しに行くことにした。その日の安いものを見て、そこでメニューを決めることにしている。明日は平日だし、そんなにランチは入らないはずだ。


 わたしは生鮮品を見ながら、ふと息を吐き出した。実家にいられるのは九月三十日まで。そのあと、本当に東條さんのところに戻っていいのか、わたしは少し考えていた。もちろん会いたい。けれど、あの場所に戻ったとして、もうあんなふうにただぼんやりと居候をするわけにはいかない。やっぱり料理の仕事がしたいし、そうなれば自分でアパートを借りたほうがいいのかとも思う。


 東條さんとは、もうずっと連絡を取っていない。携帯電話は再度契約して新しいものを手に入れた。けれど、わたしは東條さんの番号を知らない、あえて聞いてこなかった。声を聞けば、きっと会いたくなる。わたしから行くことはできないし、だからといって東條さんに会いに来てもらうのも申し訳ないと思っていた。


 東條さんの携帯には、店の番号が残っているはずだけれど、電話がかかってきたことはない。きっと忙しいのだと思う。それに東條さんが自分で電話をしてくるなんて、想像ができなかった。あのひとは、そういうひとだ。相手の出方を、いつだって待っている。


 けれど、それが、そんなわたしの意地っ張りな気持ちが、わたし自身を不安にさせていた。そうして未来が曖昧な表現になってしまう。わたしのすべてを告白したとき、東條さんがすんなり受け入れてくれたように、わたしの不安や心配は、ただの取り越し苦労だと思う。きっと、笑顔でおかえりと手を広げて迎えてくれるはずだ。


 そんなことを、九月に入ってからずっと考えている。東條さんに出会ったときから、あの日、事務所をあとにするときまでのことは、もしかしたら夢だったんじゃないかと、そんなふうに思ってしまうくらい、今が平凡で穏やかだった。家族との確執がないわけじゃない。でも数か月前のストレスに比べれば、大したことではない。


 規則的に過ぎていくはずの一分一秒がもどかしかった。穏やかであればあるほど、わたしは東条さんと一緒に過ごした時間を思い出す。あの場所で、ソファで、毎晩キスしていたことを、抱えきれないわたしの気持ちを全身で受け止めようとしてくれたことを。

 今でも、そのすべてが変わらないことを、すぐにでも確かめたい。


 買い出しを終えて店に戻り、少しだけ仕込みをして、八時には店を出る。兄の誕生会をしているはずの家にはなんとなく帰りにくくて、本屋やコンビニに寄って時間をつぶし、十時過ぎに家に着いた。

 と、愛さんから携帯番号の書かれたメモを渡された。


「今日ね、電話があったの。石川さんて、高校のときの友達って言ってたけど」

「あぁ……」


 陽奈子、だ。

 わたしは驚きながら、手の中のメモを見つめた。


「明日、こっちに来るんだって。それで、夏美ちゃんに会いたいって言ってた。連絡してあげて」


 待っていたときが、来たのだと思った。連絡をしてくれたことが嬉しくて、けれど苦しいような、切ないような思いがこみ上げてくる。

 わたしは部屋に戻ると、メモに書かれた番号に電話をした。



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