表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/33

うぬぼれる

 事務所に戻るなり、わたしは魔法を完全に解くためにバスルームへ駆け込んだ。メイクを落として、ワンピースを洗う。そうしているうちに、両面テープで接着してあったネイルチップが剥がれ落ちた。


「………」


 バケツの中にぷかぷかと浮くチップを見て、急に肩の力が抜ける。と同時に怒りと悲しみがいっぺんにこみ上げてきた。それが溢れ出さないように、もっと力を込めて口紅の汚れを擦るのに、赤いラインは消えてくれない。消そうと必死になっても消えないそれは、記憶の中にある岸川さんと、彼の家族を思い出させた。


 すべては奥さんから聞いたことばかりで、ずっと岸川さんの本当の気持ちが知りたかった。でもきっと、あれが、あの態度が、本当の彼の気持ち。想像していたとおりで、聞いていたとおりで、わかっていたはずなのに。

 それなのに、どうしてこんなに絶望してしまうんだろう。


 わたしはワンピースを洗うのを止めて、手を離した。泡立つ水面下にワンピースが沈むと、代わりにネイルチップが一枚浮かびあがる。桃華ちゃんの特別だったそれをこんなふうにしてしまったことに、わたしはまた泣いた。


 どんなに泣いても、涙が次から次へと溢れて零れる。体中の水分のすべてが枯れてしまわなければ、止まらないような気がした。あのときだって、散々泣いたのに。ここにやって来てしばらくの間、毎晩東條さんにキスをしてもらったあとも、毛布にくるまりソファの上で泣いていた。あの涙がやっと止まるようになって、すべてが、新しく始まるような気がしていたのに。


 シャワーを流したまま、わたしはバスルームの壁にもたれてぼんやりと泣いていた。桃華ちゃんの言うとおりだ。わたしは、待っていた。岸川さんがいつか迎えにきてくれるのを。本当に好きなのはわたしのことで、奥さんと離婚して、わたしと一緒になってくれるのだと。


 そうして、どこか高槻さんの知らない場所で、ふたりで夢見ていたレストランをオープンさせる。ディマーレのように流行らなくていい。常連さんがほっとできる場所、家族でのんびり食事ができる空間、そこに気取らないおいしい料理を提供する。

 いつか、そんな店をふたりで開こう、と。そう言ってくれたのは、岸川さんだったのに。


 失くした夢が、呼び起こされて胸の奥を揺さぶる。しあわせだった時間が、巻き戻されて脳裏を離れない。泣きはらした瞼が重たくなって、わたしは目を閉じた。


「ヒナコ」


 ドアの向こうから東條さんの声がしたとき、わたしは身体を床に横たえていた。どれだけ、そうしていたのかわからない。身体は重く、瞼を開けることすら億劫だ。


「ヒナコ、入るよ」


 東條さんの手のひらがわたしの頬に触れる。何度もわたしの名を呼んでくれる。ヒナコ、ヒナコ、と。

 なにも、考えたくなかった。考えたくないのに、忘れたいことばかりが頭に浮かんで消えない。目を閉じても、どれだけ東條さんがわたしのことをヒナコと呼んでくれても。

 タオルで身体を包まれて、わたしはいつものソファに運ばれる。ぼんやりと開いた目に東條さんの顔が映った。


「ごめんなさい……」


 今夜だけのことじゃない。これまでのこと、すべて。

 どれだけ謝っても許されないかもしれない。東條さんは、なにもかも許してくれるのかもしれないけれど、許されてはいけないと思った。


「わたしは……ヒナコは、東條さんを愛してます」

「うん」


 じゃあ、夏美は。まだ、岸川さんのことを愛しているのか。

 そうじゃなければ、断末魔を上げながら切り裂かれて死んでしまったように、もう、身体なんて形を成すものは存在しないように、こんなにも意識だけがぼんやりと浮かんでいる気分にならないのかもしれない。


 あんなにそばにいたのに。あんなに愛していたのに。あんなに愛してると言ってくれたのに。

 わたしを見つめる瞳も、キスをくれた唇も、触れる指先も。柔らかな髪もつま先まで。岸川さんのすべてがいとおしかった。もう絶対に触れることのできないすべてが恋しい。


 今、わたしはこうして東條さんに抱きしめられているのに。大好きなひとの腕の中で、わたしはかつて愛した人のことを忘れられずに歯を食いしばる。たった一度、目が合っただけなのに。それも、不快感を露わにした視線を向けられたのに。

 それなのに、悲しい。淋しい。痛い。辛くて消えてしまいたい。


「うあぁぁ……」


 耐え切れずに声が漏れる。抑えられない涙が、また堰を切ったように溢れる。感情をコントロールするバネがはじけ飛んで、まるで壊れたおもちゃのように声を上げて泣いた。


「ヒナコ、大丈夫だ。大丈夫だから」


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 嗚咽で途切れ途切れになりながら、わたしは東條さんに何度も謝った。そのたびに、わかったよとわたしの背中を、髪を撫でてくれる。なにも伝えていないのに、こんなにどうしようもない気持ちを、本当の名前を、いまだに言えないでいるわたしを慰めてくれる。

 あの夜と、クリスマスイブと同じ。違うのは、わたしが東條さんを好きになってしまったということ。東條さんが、こんなわたしのことを好きだと言ってくれるようになってしまったということ。


「ヒナコ、ぼくはどうしたらいいんだろう」


 そう言って、東條さんはわたしを抱きしめる力を強くする。


「ヒナコのことを、なにも知らなくてもいいと思ってた。ヒナコが話したくないことは、話さなくていい。それなのに、今、ぼくはすべてを知りたいと思ってる。どうしたらいいか、わからないんだ。どうしたら、ヒナコの涙を止められるのか、ぼくが本当にヒナコの涙を止めてあげられるのか、不安で仕方がない」


 ぎゅっと抱きしめる東條さんの腕が、その声が、わずかに震えていた。そのことに気が付いて、わたしは埋めていた顔を上げる。


「ご、め」

「もう、謝らないでくれ。どうしてヒナコが謝るのか、ぼくにはわからないんだ」


 どこか余裕のない東條さんの表情は、わたしをも不安にさせた。


「ケイゴがどうして嘘を吐いたのか……ヒナコは、わかっているんだよね」


 ぬるい感傷の海にどっぷりと浸かっていた意識が、不意に引きずり出される。そうしてすぐさま冷たい水を浴びせられた気がした。


「どうして、ケイゴはヒナコのことを知らないふりをしたんだろう。ケイゴが追いかけたから、ヒナコは転んだんだ。だから、転んでいたヒナコを助けたんじゃない、自分が転ばせたから、ヒナコを助けたんだと思ったよ。ケイゴが言ったことはちぐはぐで、ヒナコはこんなに……どうしようもないくらい、泣いている」


 涙で濡れたわたしの頬を撫で、東條さんは目を逸らした。わたしを抱きしめ、表情が見えなくなってから、大きく息を吐き出すのが聞こえる。


「ぼくのほうが、ケイゴより先にヒナコに気づかなきゃいけなかったのに。そうしていれば、ヒナコはこんなに泣かずに済んだんだろう?」


 東條さんは、いつからわたしに気づいていたんだろう。

 わたしは抱きしめられている腕をほどいて、首を何度も横に振る。


「違い、ます。渋谷さんは……関係ないんです。渋谷さんの、せいじゃ……ない」


 渋谷さんより先に、東條さんがわたしを見つけてくれていたとしても。レストランに行けば、彼らの姿を見つけてしまっただろう。そのときに、東條さんが横にいてくれても、わたしは今夜、泣いていたと思う。

 誰のせいでも、ない。どうしようもないこと。


「渋谷さんのレストランで、働いていたんです。それで……」


 そこから、今までのことを、どうやって話せばいいのか、わからなかった。渋谷さんが、わたしのことをナツと呼んだのを、東條さんは聞いていたんだろうか。

 渋谷さんがわたしのことを知らないふりをしてくれたのは、東條さんの前でのわたしが、ナツではなくヒナコだとわかってくれたから。

 それを話せば、どうしてわたしがそういうふうに名前を偽ったのか、話さなければいけない。理由を知ったら、東條さんはどう思うだろう。

 今よりもっと、悲しい顔になってしまうかもしれない。


「渋谷さんは、わたしを……わたしのことを、かばって……嘘を……」

「ヒナコを……?」


 わたしは深く頷いたまま、俯いた。


「じゃあ、ヒナコをこんなに泣かせたのは、ケイゴじゃないんだね」

「……はい」

「うん、そうか」


 溜息まじりにそう言って、東條さんはわたしを膝の上に寝かせ、髪を撫でる。


「ヒナコ、ぼくはね……ぼくは、最初はヒナコをこんなに好きになるとは思わなかったんだ。イブに声を掛けたのは、可愛いオンナノコが、このまま路頭に迷って死んでしまうんじゃないかって顔をしていたからだよ。そのコがぼくについてきて、理由はわからないけれど、たくさん泣いて、熱を出していて、三日三晩ここで眠っていた。熱が下がって目が覚めたら、きっと出て行ってしまうと思ったのに、ネコみたいにぼくだけに懐いてくれた。それがまた可愛くて、ぼくは、どんどんヒナコのことを好きになった」


 背もたれにかけてあった毛布をわたしにかぶせ、その上から冷えた身体を撫でてくれる。


「なにかに囚われていて、それを忘れようとしていて、でもできなくて、ときどき躓いて泣いていて。夜はぼくのキスをねだって、いつからか、落ち着いて眠るようになった。なにかこそこそとしていることもあるけれど、それはぼくのことを少しずつ好きになってくれるための準備だと思ってた」


 自惚れていたな、と。どこか自嘲気味に笑う。

 東條さんは、そんなふうにわたしのことを見ていてくれたのだ。ちゃんと、見ていてくれた。見透かされていたのかもしれない。


「ぼくは、イブの夜からのヒナコしか知らない。でも、ケイゴはそのまえのヒナコを知っている。情けないけれど、そのことにね、ぼくは嫉妬してるんだ。あいつは、ヒナコがこんなに悲しむ理由を、きっと知ってる。だから、あいつのほうが、ヒナコの涙を止めることができるのかもしれない」


 それは違う。理由を知っていても、渋谷さんに慰められても、わたしの涙は止まらない。もしそれが東條さんだったとしても同じこと。

 けれど、そんなことを東條さんに考えさせてはいけない。泣きやまなければ。これ以上心配させちゃ、いけない。

 わたしは咽びながら身体を起こし、自分で涙を拭いた。


「わたしが、勝手に……泣いたんです。誰も、悪くないんです」


 じわりと滲むように瞼を濡らす涙が、またひとつ頬を伝う。それを拭い、わたしは東條さんにそっとキスをした。


「全然納得できないぼくは、大人げない大人だね。このどうしようもない怒りをぶつけるところがわからないのが、一番腹が立つ。許せない相手を、ヒナコが隠しているのが、辛くて、苦しい」


 ごめんなさいと言いかけた口を、東條さんに塞がれる。ねじ込まれる舌に、ただでさえ泣いてしゃくりあげている喉が苦しくなった。わずかに唇が離れる隙に息をして、責付くようなキスに応えようとするのに、上手くいかない。そのままソファに倒され、東條さんの表情を見たわたしは愕然とした。

 感情を抑え込むために目を細め、うっすらと開いた唇の向こうでは歯を食いしばり、今にも泣き出しそうで。


「東條さん、わたし……」

「ごめん、ヒナコ。優しくしてあげなきゃいけないのに、できそうにない。眠るまでそばにいてあげたいけれど、余計なことばかり言って、ヒナコをもっと泣かせてしまいそうだ」


 強引に苦しそうに微笑んで、東條さんはわたしの額にキスをする。


「……おやすみ」


 ふいと顔を背け、東條さんの姿が遠くなる。そのまま照明が落とされて、東條さんの部屋のドアが閉まる音がした。

 消し忘れられたパソコンのディスプレイだけが煌々としている中で、こめかみに涙が伝う。

 自惚れていたのは、わたしのほうだ。東條さんはわたしのことを守ってくれる。優しくしてくれる。どんなときだって、抱きしめてキスをしてくれる。

 なにもかも、許してくれる、と。

 わたしは毛布を被って、静かに泣いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ