ほんとうのすがた
堪える間もなく、ぼろぼろと涙がこぼれた。息を吸い込むとしゃくりあげて、悲鳴のような声が響く。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
頭の中が混乱していた。こんなままじゃ、東條さんに会えない。だけど、こうなった理由を東條さんにも由紀さんにも伝えなくちゃ。でも、そうすれば岸川さんにも、奥さんにも子供にも鉢合わせてしまうかもしれない。
「どう、しよぅ……」
音を立てるように身体が震えている。その震える手で、わたしは服についた口紅を拭っていた。けれど擦ればなおさら、口紅が深く繊維にしみ込んでいくような気がした。慌ててバックを拾い上げて中からハンカチを取り出すと、水で湿らせてハンドソープをつけて擦ってみる。ほんの少し色はうすくなるけれど、水を含んだ生地に、じわじわと口紅の色が広がっていった。
ふと顔を上げて鏡を見れば、「汚らしい大人」が映っている。ワンピースは染みだらけに汚れ、アイメイクは涙で崩れ、かつて妻子ある男を愛した不純な女がいる。
とにかく、ここから、この場所から離れなければ。
慌ててトイレを飛び出すと、男の子が楽しげに笑う声にふと足を止める。
顔を上げてしまったわたしは、目を逸らすことができずに彼を見つめてしまう。数カ月ぶりに見た、大好きだったひとの横顔は変わることなく、かつてわたしにキスをしてくれた唇は、抱き上げた彼の息子の頬に触れた。無邪気に彼の首にすがりつく息子に目を細め、白い歯を見せて笑う。その笑顔が懐かしくて、恋しくて、胸の奥をぎゅっとつかまれたように苦しくなった。
次の瞬間、彼がこちらを向いた。ただじっと動けないでいるわたしを見つけて、その目を見開いた。
今、彼の横に奥さんはいない。近づいては、いけない。けれど、わたしはどこかで期待してしまった。彼のほうが、わたしに近づいてきてくれるはずだと。あの日のことを、きっと弁解してくれるのだと。
わたしを、まだ愛してくれているのだと。
「岸川さん」
つい、彼のことを呼んでしまう。わたしのことを、ナツミと呼び返してほしい。
けれど、彼の目は汚らしいものを見るように、嫌悪を丸出しにして眉をしかめ、逃げるように目を逸らした。
そうして彼が向かった先には、わたしのワンピースをめちゃくちゃにした彼女が微笑んでいる。安堵したようにふたりは微笑み合うと、彼は片腕に息子を抱え、もう一方で彼女と手を繋ぐ。細く長い指を絡めて、しっかりと。
見せつけられた気がした。
これが、本当の姿なのだと。
あの日のすべてが真実で、わたしのことなど愛してないのだと。
岸川さんと付き合いが深くなるたび、もっと、ずっとふたりで一緒にいたいと話していた。それなのに、火事で家を失い、行く当てなく彼のマンションにころがり込むわたしを、快く受け入れてはくれなかった。同棲はできないと言って、彼のほうがわたしの新しいアパートを探してくれたことに、なにも疑わなかったわけじゃない。けれど、そういうことに真面目なひとなのだと、わたしは悪いほうに考えないようにしていた。
本当は、奥さんと子供がいたなんて。わたしはあのイブの夜まで、決して知らされることがなかった。
わたしは彼らが幸せそうに笑いながらエレベーターホールに消えていくのを見送ると、ふらりと歩き出す。
このまま帰ってしまったら、由紀さんに迷惑をかけてしまう。東條さんも心配させてしまう。事務所の鍵は持っていない。
けれど、ここにはいられない。
「ナツ」
その声に驚いて振り返ると、そのひとも……渋谷料理長もまた、わたしがまさかこんなところにいるはずがないといった表情で、口を開けて立っていた。
「ナツ、どうして、ここに」
もう、いやだ。
ここに来るべきじゃなかった。なにも考えずに、浮かれて夢を見ていた自分がばかみたいで虚しくなる。
これ以上惨めなところを見られたくなくて、わたしは踵を返してエントランスへ走り出した。
「待て!」
鈍感になりすぎていた。同じ街にいれば、いつかどこかで会うかもしれない。だから、極力外出することを避けてきた。一度斉田さんに会ってしまったけれど、あれからしばらくして、もう会うことはないだろうと思い込んでいた。
なによりも東條さんがそばにいてくれたなら、どんなことがあっても大丈夫だと安心していた。
エントランスを出ると、冷たい風がわたしの身体をすり抜けていく。思わず肩をすくめ、足元がもつれた瞬間、履きなれないヒールでバランスを崩して派手に転んでしまった。
このまえ階段から落ちたときに捻ったのと同じ足首に痛みが走る。膝も、手も痛い。けれどわたしはすぐに立ち上がって、脱げてしまったパンプスを探した。
「大丈夫か」
片方のパンプスを手にして立っていたのは、渋谷さんだ。
まともに顔を見ることができないまま、差し出されたパンプスを受け取って履き直すと、両腕を強く掴まれる。
「ナツ、すまなかった」
突然、渋谷さんがわたしに向かって深く腰を折り、頭を下げる。
謝らなければいけないのは、わたしのほうだ。あれだけお世話になっていたのに、自分勝手な問題で、ひとことも連絡をすることなく店を無断欠勤し続けた。
戸惑うわたし向かって、渋谷さんは静かに口を開く。
「岸川に……会ったか?」
「えっ」
どうしてそんなことを。
思わず顔を上げてしまったわたしを見下ろす渋谷さんは、けして咎めるようなふうではなかった。もしかしたら、わたしと岸川さんのことを、なにか知っているのかもしれない。
「あいつから、ナツとのことは全部聞いた」
ふたりがどんな関係で、あの夜になにがあったのか。
そう続けて、渋谷さんは眉根を寄せて視線を落とした。
「だから、ナツがいなくなった理由は、俺なりに理解してるつもりだ。連絡してこなかったことも、責めるつもりはないから逃げなくていい。それに俺のせいなんだ、俺が……岸川に結婚していることを隠して働くように言ったんだよ」
わたしの両腕を掴んでいた手を離し、渋谷さんは両手を強く握りしめる。
「店をオープンするときに、オーナーの高槻さんから、娘婿の岸川の面倒を見てほしいって頼まれたんだ。ただ、義理とはいえオーナーの息子だなんてことがわかれば、良くも悪くも一緒に働くスタッフに妙な印象を与えかねないからな。だから素性を隠せと言ったんだ」
「……そう、だったんですか」
「でもまさか、結婚している岸川がナツと……いや、婿養子なんて息が詰まるような生活をしていた東京から、修行と称してこっちでひとり暮らしをしているあいつに、おまえを任せるべきじゃなかった。なにより、そういう状況だったことを、俺は料理長として気づけなかった。こんなことになるなんて……本当にすまない」
わたしは何度も首を横に振る。
悪いのは、渋谷さんじゃない。むしろ、なにも謝る必要なんてないのに。
「辛かっただろ……無事で、よかった」
不意に、ぎゅっと抱きしめられる。
渋谷さんは、元々そういうひとだ。ダメなところはひどく叱られるけれど、嬉しいことや楽しいことはスタッフ全員と抱き合って分かち合う。最高のスタッフとチームワークを作り出して、ディマーレを数年で有名店にした若き料理長。
ディマーレ全員のスタッフの顔が思い浮かんだ。新卒ですぐ採用されたわたしは、経験者ばかりのスタッフの中で、使い物にならないとひどくダメだしされて落ち込んだ日々もあった。けれど必死で追いつこうともがくわたしを、岸川さんをはじめ、いつしかみんなが受け入れてくれて。
大好きな料理、厳しいけれど家族みたいなスタッフ、そして愛する人と働いていたディマーレ。抱きしめられたぬくもりに、戻れないあの場所を思い出して、涙があふれた。
「みんな、ナツのことを心配してる。あいつらは、今でも岸川が高槻さんの義理の息子だとは知らないし、ナツと岸川の関係も知らない。今はまだあの店の存在すら恨んでるかもしれないけど、必ずまたみんなに会いに来い。それから、俺には連絡先ぐらい教えてくれ」
わたしの頭をぽんぽんと撫でてくれる手も、暖かい。いつか、言ってくれたように、またあの場所へ行くことができるだろうか。
「ケイゴ、ぼくの彼女から離れてくれないかな」
はっとして声がしたほうを見れば、そこにはスーツ姿の東條さんが怪訝な顔をして立っていた。
「は? 彼女?」
渋谷さんも東條さんを振り返り、そうして不思議そうにわたしを見下ろす。
「彼女って、たしか『ヒナコ』ちゃん、だったよな」
「そうだよ。ケイゴが抱きしめてる、そのコがヒナコ。ぼくが紹介する前に、容易く触られるのは不愉快だ」
渋谷さんはしばし考えるようにわたしの顔を見つめ、抱きしめていた腕をぱっと放した。
「そうか、どうりで可愛いわけだ。智の彼女だったとはね。いや、彼女が転んじゃって泣いていたから、慰めてただけだよ」
「ヒナコ、この男はぼくの友人だけど、イタリアへ料理修行に行ったふりをして、イタリア男の女のあしらい方を勉強してきた無類の女好きだ。騙されちゃいけないよ」
「女好きって、おまえだけには言われたくないね。それにしても、このコ、本当に智の彼女なのか?」
「あぁ。話したろ、クリスマスイブに、ぼくの目の前に現れた天使」
そばにやってきた東條さんに、わたしは俯いた顔を上げることができない。
勘のいい渋谷さんが、わたしのことを知らないふりをしてくれていることも、申し訳なかった。
「でもね、ヒナコ、ケイゴはあのディマーレの料理長なんだよ……ヒナコ、その服、どうしたんだ、なにがあった?」
話の途中で、わたしの明らかにおかしな状態に気が付いて、東條さんは身を屈め、わたしの顔をのぞき込む。
せっかくのデート、だったのに。
「ごめんなさい……」
呆然とわたしの様子を見つめ、なにも言わずに、東條さんはわたしを優しく抱きしめた。
「智、もう時間だから、俺は行くよ。今夜は、彼女を連れて帰ったほうがいいんじゃないか。怪我もしてるみたいだし」
「うん、そうするよ。ケイゴ、悪いけど、由紀ちゃん、あぁ、江藤さんに上手く事情を伝えてくれないか」
「わかった。じゃあ、またな」
渋谷さんの足音が遠ざかると、東條さんは抱きしめてくれた腕を放して、冷たくなった両手を包んでくれる。
「転んじゃったのか」
「……ごめんなさい」
「無理させちゃったな」
違う。そんなことじゃない。靴も、それを選んでくれた由紀さんも、ここに来る機会を作ってくれた東條さんも悪くない。
わたしは唇を噛んで東條さんを見上げ、首を何度も横に振った。唇を噛むなと、桃華ちゃんに言われたのに。けれど、そうしなければ、まともに東條さんを見ることなんてできなかった。
「ごめんなさい、東條さん……ごめんなさいっ」
目を細めた東條さんは、困惑したような……悲しげな表情でわたしを見下ろしていた。
「帰ろう、ヒナコ」
今にも地べたに崩れそうだった身体が、ふわりと宙に浮く。
「これなら、転ばない」
東條さんは微笑んで、わたしを抱き上げ、すぐそばに待機していたタクシーに乗り込んだ。




