ゆるされないこと
オフィス東條が入っているビルの裏通りに、由紀さんがお気に入りのショップがあった。ショーウィンドウには、パステルカラーのフェミニンな洋服を着たマネキンが佇んでいる。ショップの前は何度か通ったことはあるけれど、わたしの柄じゃないし、そもそもとても手が出るような値段じゃないことは一目瞭然だったから、中に入ろうと思ったこともなかった。
店に入るなり、わたしのことはすでに店員に話してあったのか、あらかじめ用意されていたものを試着する。ピンク、ブルー、グリーン、どれも淡いパステルカラーのシンプルなワンピース。襟や袖の長さやラインは若干違うけれど、どれも上品で、袖を通すたびに緊張した。
「グリーンもいいけど……やっぱりピンクかな」
店員と由紀さんにまじまじと眺められ、わたしは言われたとおりピンクのワンピースを再度試着した。普段暖色系の服をほとんど着ないせいか、なんだか妙な感じがする。自分ではブルーが落ち着くけれど、ブルーは食欲を抑える色だから、食事をするときにはふさわしくない気がしたし、グリーンは胸元が大きく開きすぎて恥ずかしい。
全員の意見が一致してピンクのワンピースに決まると、それに合わせてコーディネートしてあるパーツを身に着ける。白のジャケットにピンクベージュのバックとパンプス。パールのピアスにネックレスとブレスレット、一通りのアクセサリーを着けて、姿見の前に立たされた。
そこにいるだけで甘い香りが匂いそうな全身に、緊張して強張ったわたしの顔が張り付いている。
少し乱れた髪を由紀さんが直して微笑んだ。
「うん、想像以上。桃華ちゃんに文句は言わせないし、東條さんもびっくりして喜んでくれるはず」
「なんか……気合入りすぎてませんか」
ホテルのレストランに食事をしに行くだけ。ドレッシーではなけれど、このまま結婚式の披露パーティーに出席してもおかしくないような格好だと自分では思ってしまう。
「全然、これでいいの。今夜はね、レストランのオープニングパーティーを兼ねているから、それなりのひとばかり招待されてるの。あ、でも安心して。ふたりは食事が始まる時間にレストランに入ってもらうし、しっかりデートが楽しめるような席を準備したから」
「そう、なんですか……」
おそらく由紀さんの仕事と関わりがあるのだろう。
けれど、わたしはそれを聞いてますます緊張する。それなりのひとということは、敷居の高いひとたちに違いはないし、由紀さんの仕事が関係しているなら迷惑をかけるようなことがあってはいけない。
それにしても。わたしはこくりと息を飲んで、鏡に映った足元を見る。
「わたし……こんなにヒールの高い靴なんて履いたことがなくて。あの、どうやって歩いたら……いいんでしょうか」
恥ずかしながら目の前の由紀さんに尋ねると、店員と目を合わせてふたりとも笑う。
けれどどうしようもない。今までせいぜい三センチくらいのヒールしか履いたことがないのに、このヒールはそれの倍以上高い。一歩足を前に踏み出そうにも、ぐらぐらする踵をどう扱えば転ばないのか、不思議でならないのだから。
「じゃあ、まずは姿勢から。しっかりと背筋を伸ばして、膝もちゃんと伸ばして」
歩き始めたら、つま先から地面に足をつける。そこから膝は曲げずに、後ろの足をけり出す。そうしてまたつま先から地面に足をつけ、膝を真っ直ぐに。膝を曲げるのは、足をけり出すときだけ。
そんなレクチャーを受けながら、店内をぐるぐると回った。バランスを上手くとれなくて背筋が曲がれば、足をひねりそうになる。
「急いで歩く必要なんてないから、ゆっくりスマートにね。あとは……今夜コース料理だけど、テーブルマナーは大丈夫?」
「はい、それだけは大丈夫です」
よろめきながら答えると、由紀さんは苦笑していた。
由紀さん自身もパンツスーツからネイビーのタイトなワンピースに着替えて、わたしたちは店を出る。
「本当に、シンデレラみたい」
近くの駐車場に停めてあった由紀さんの車に乗り込むと、そんなことを言われた。
「魔法が、解けないといいんですけど」
「ふふ、魔法を解くとしたら、きっと東條さんね」
わたしが首を傾げると、由紀さんはなんでもないと笑ってアクセルを踏んだ。
どこか意味深な気もしたけれど、余裕のないわたしは深読みすることなんかできずに笑い返して、窓の外を見つめた。
「ホテルに着いたら、先に降りてロビーで東條さんを待っててね。車を停めたら、わたしはまっすぐレストランに向かうわ」
「はい。あの……コンちゃんも来るんですか?」
「ううん、まさか。今夜、わたしは仕事で出席するから。いつかプライベートでふたりで来れたらいいけど」
フロントガラスの向こうを見つめる由紀さんの目には、そのいつかのことが映っているんだろうか。
わたしはなんだかとても贅沢なことをさせてもらう気がして、ますます肩を縮めた。
夕方のラッシュも終わりかけているのか、車の流れはわりとスムーズで、ほどなくホテルの前に着く。言われたとおりに、わたしは先に降りて由紀さんの車を見送った。
振り返ると、ドアマンが押し付けのない笑顔でわたしを迎えてくれる。わたしは心の中で歩き方を復唱してゆっくりと歩き出す。
「こんばんは。本日はお食事ですか」
「はい」
「でしたら、フロント奥にエレベータがございますので」
「あ、の、待ち合わせを……」
「それでは、あちらのソファにかけてお待ちくださいませ」
「……ありがとうございます」
自分のたどたどしさを包み込んでくれるような優しい対応に、不安と緊張が高まっていく。誰かに見られることが恥ずかしくて、つい俯きがちになってしまうけれど、そんな体勢で急いで歩こうものなら足元がぐらついた。慌てて背筋を伸ばし、足を止めて息を飲む。
「落ち着いて」
そうつぶやかないと飲み込まれそうなほど広く、いかにも高価そうな調度品が並ぶフロアに圧倒される。ふと窓ガラスを見れば、自分とは思えない可愛い格好をした女の子が映っている。ゆるくカールされた髪を撫でると、ピンクのネイルに並んだストーンが輝いていた。
わたしは瞼を伏せて、静かに息を吐き出した。
ここまでしてくれた桃華ちゃんと由紀さんと、そして東條さんの気持ちに応えなくちゃ。そのためには、しっかりと前を向かなくちゃ。
再び歩き出して、ソファに座る。それからはいつもの一分一秒が随分と長く感じて仕方なかった。時計は七時少し前。もうすぐ東條さんが来るかもしれない。
このワンピース、気に入ってくれるだろうか。それから、初めてのパンプスも。ぎこちない歩き方を笑われるかもしれないけれど、きっとヒナコらしいと言ってくれると思う。
こんなとき携帯があれば、気晴らしに誰かにメールでもするのにと、手持無沙汰にバックを開けた。中にはハンカチとティッシュ、それから桃華ちゃんが持たせてくれた化粧直しグッツ。そういえば、緊張しながら試着をしたから、お店で少し汗をかいた。
わたしはゆっくり立ち上がりフロアを見渡すと、調度品を眺めるようなふりをして、やっと見つけたトイレに入る。パウダールームの椅子に座り、大きく息を吐き出した。
テカりが気になって鏡をのぞき込んでみたものの、思ったほどことではなかった。むしろ、ここから自分で手を加えたほうが化粧が崩れてしまう気がして、触るのをやめた。
「桃華ちゃん、すごい」
同じ女の子として、女の子らしくいるための努力はとてもかなわない。アイメイクはともかく、ベースメイクは今度教えてもらおう。それから、このふわふわカールのキープの仕方も。
本当に、シンデレラみたいだ。ひとりになって、あらためて魔法にかかった自分をじっくりと見つめる。子供のころは、お姫様に憧れたこともあったけれど、いつからかそんな柄じゃないと思うようになって諦めていた。
不安が少しずつ和らいで、これから始まる東條さんとのデートに気持ちが明るくなっていく。それも全部、桃華ちゃんと由紀さんのおかげかもしれない。
わたしは席を立ってもう一度鏡を見ると、大丈夫と自分に言い聞かせた。
「ママ! パパがね、あしたいっしょにおもちゃかいにいってくれるって!」
「そう、よかったわね」
「それからね、どうぶつえんにいってね、それからね、ばんごはんをね、ママのために、いっしょにつくるの」
静かな室内に突然響く幼い子供の声は、ふとわたしを安心させてくれる。パウダールームから出ると、おしゃれをした小さな男の子の笑顔に、つられてわたしも微笑んだ。
「あら……」
と、わたしが顔を上げると、男の子の後ろからついてきた母親が、顔色を曇らせる。
途端にわたしは全身が凍り付いてしまったように動けなくなった。
「秀介、もうひとりでおトイレできるわよね」
「うん!」
「じゃあ、ママはこのお姉さんとお話ししてるから、いってらっしゃい」
はーいと元気な返事を残して、男の子はわたしの足もとをすり抜けていく。
同じように、わたしも彼女を追い越して逃げ出したい。それなのに、蛇に睨まれた蛙のように、足がすくんで身動きができない。
男の子が個室のドアを閉めたのを確認すると、彼女はわたしをまじまじと見つめてふっと笑う。
「そんな格好で、一体ここになにをしに来たの?」
「あ、の……」
「まさか、あなた、オープニングパーティーに潜り込む気じゃないでしょうね」
まとめられた髪をさりげなくなでる左の薬指には、透明に輝く宝石がついた指輪が見える。胸元が深く開いた黒の総レースのワンピースに、白のストール。耳や胸元にはゴールドのアクセサリーが控え目に輝いていた。今夜のパーティーに出席しても違和感がない服装と彼女の言葉に、わたしは血の気が引いていくのを感じた。
イタリアンレストランのお披露目に、彼らが呼ばれてもおかしくない。ディマーレのオーナーである高槻さんと、由紀さんの会社に繋がりがあることは先日も話していたし、同業者として、この街で人気有名イタリアンレストランであるディマーレの面々が招待されるのも不思議じゃない。
もっと早く、気づくべきだった。
冷たい汗がじわりと額に浮かぶ。激しい動悸で息が苦しくなるのに、上手く呼吸ができない。
「岸川が来るって、どうやって調べたの? でも残念ね、わたしや息子が来ることまではわからなかったのかしら。それとも……そういえば、ディマーレの関係者として、一組知らない名前があったわ。確か渋谷料理長の友達で、サイト制作してくれている、東條さん、だったかしら。そのひとの彼女を特別に招待するとかって……まさかそれが、あなた?」
彼女は首を傾げて、強くわたしを睨みつけた。
「そこまでして、わたしの夫に会いたい?」
そんなつもりじゃ、なかったのに。
「言ったでしょう。もう二度と岸川に近づかないでって。次にこんなことがあったら、わたしにも考えがあるわ。いい? もう一度言うわ。これ以上、絶対にわたしの夫に近寄らないで。もちろん、わたしと息子にも。今すぐ、消えて」
そう言っておもむろにバックから口紅を取り出すと、わたしのワンピースを引っ張った。
「あっ」
わたしが声を上げるのとほぼ同時に、淡いピンクのワンピースの上に、口紅で大きなラインが何度も描かれていく。
「わぁ、素敵。とても斬新なワンピースになったわ。あなたに、よくお似合いよ」
微笑む彼女の唇と同じ色が、せっかくのワンピースを塗りつぶすように、めちゃくちゃにわたしの身体の上を走っている。
あまりの出来事に、震える手からバックが床に落ちた。
「ママ! おわったよ」
「はい、じゃあ手を洗って。パパが待ってるわ」
わたしの身体を押しのけるように彼女は息子に駆け寄ると、抱き上げて手を洗わせた。そうしてまた、わたしの横を通り過ぎていく。
と、ぼんやりと立ち尽くすわたしを、男の子が振り返った。
「ママ、おねえさんのふく、きたない」
「そうね。でも、このお姉さんには、とってもよく似合ってるのよ」
……汚らしい大人だから。
低く、子供に聞こえるか聞こえないかの声で吐き捨てるように言うと、彼女は……わたしが愛したひとの妻と息子は、ドアの向こうに姿を消した。




