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にわかごと

 ありがとうございましたと、おきまりの言葉を背に自動ドアから外へ出ると、来るときには曇っていた空に晴れ間が見えていた。パーカーのポケットに手を突っ込んで、わたしはふぅと息を吐き出す。


 携帯電話を解約した。ポイントとか、データだとか、いろんなことを説明されて引き止められたけれど、そんなもの、どうでもよかった。惜しい気持ちがまったくないわけではなかったけれど、陽奈子とは東條さんを通して連絡が取れるし、よくよく考えてみれば、どうしても必要な連絡先はなかったように思えた。


 むしろ、すべてをゼロにリセットするために、わたしはなにもかも捨てたかった。本体も引き取ってもらって、手元には何も残っていない。今回ばかりは、本人確認のために免許証を捨てなくて良かったと思う。


 車の免許は専門学校を卒業する前にそれくらい取っておいた方がいいと、兄に援助してもらって取得したけれど、結局車を持つ余裕なんかなくて、わたしにとってはただの身分証明書になっている。

 職場を解雇されてしまったなら、保険証も無効だろうと、東條さんがいない間にシュレッダーにかけて燃えないゴミに捨てた。ロッカーの中に隠していた会員証や診察券も処分して、わたしがわたしを隠すために残っているものは、ごくわずかだ。


 一度ポケットにしまった免許証を取り出してみる。小田夏美おだなつみ。免許証に記されているわたしの本当の名前。陽奈子が使っている名前。東條さんが知らない、わたしの名前。去年更新したときに撮った写真を見れば、そのときの自分の置かれた場所を思い出して、わたしはまたポケットに無造作に突っ込んだ。


 階段から落ちたわたしの身体は、その事実を忘れてしまったように、すっかりと元通りになっている。東條さんと見ようと話していた桜はすでに散って葉桜となり、もうすぐ六月を迎える暖かい日差しで、ライラックの紫色の花がほころび始めていた。

 陽奈子からの連絡は、まだない。けれどまだこの街にいて、あのあとも今の店で仕事をしているのだと東條さんが教えてくれた。


 東條さんは、時間が経てば陽奈子から連絡をしてくるだろうと言っていたけれど、もしかしたら、もう会わないほうがいいのかもしれない。会ってちゃんと話をして、自分のことをわかってほしいと思うのは、わたしの一方的で身勝手な気持ちだ。陽奈子だって自分のことを話したくないかもしれない。話せばきっと、治りかけた傷をまた引き裂いて深くする。わたしが桃華ちゃんにすべてを話せないように。話せば嫌な記憶を必然的に思い出してしまうように。


 事務所からひと駅手前で地下鉄を降りて、買い物をしてから歩いて帰った。食材を冷蔵庫にしまいながら、冷凍庫の中のフリーザーバックを取り出し、そこに免許証をしまい込む。そうしていくつか冷凍保存してある食材の一番奥に、隠すように挟み込んだ。


「そうだ、ヒナコ」

「はいっ」


 真剣にパソコンに向かっていたはずの東條さんからの呼びかけに、わたしは上ずった声で返事をした。


「ヒナコは、イタリア料理が好き?」


 東條さんがキッチンを覗く前に、冷凍庫の引き出しを自然な動作で閉める。バレてなんかないと思うけれど、内心少し焦っていた。


「イタリアン、ですか。はい、好きですけど」


 イタリア料理店で仕事をして、そこでの悲しい思い出はあるけれど、料理が悪いわけじゃない。たとえそんな関わりがなかったとしても、好きな料理に違いはない。

 だから、なにも考えずに、そのままを答えてしまった。


「じゃあ、決まり」


 東條さんが後ろに回していた手をわたしに差し出せば、そこには白い封筒が握られている。


「ヒナコ、今夜デートしよう」

「デート?」

「そう。ホテルロイヤルプラザにイタリア料理店がオープンするんだよ。由紀ちゃんがね、あのときのお詫びにって、ぼくらを招待してくれたんだ」


 東條さんは自分の左頬を指差してそう言う。あのとき、つまりはみんなでちょっとだけコンちゃんのことを騙して、東條さんがそのコンちゃんに殴られるというしっぺ返しをくらったときのことだ。

 ホテルロイヤルプラザといえば、この街でも老舗の有名高級ホテル。わたしの知る限り、レストランは王道のフレンチと和食に中華、それにパンケーキが有名になったカフェと、最上階には市内の夜景が一望できるバーがある。老舗なだけあって、ホテル側の考え方もよく言えば古風で、食材は高級でも料理の内容は古い。とはいえ、そのぶん客の年齢層も高く、とてもわたしみたいな部類が背伸びしても食べに行ける場所ではないと教えてくれたのは、料理を学んだ専門学校の先生だ。

 そのホテルのイタリアンとなれば、必然的に敷居の高いレストランということになるだろう。


「わたしが一緒で……いいんですか?」

「だって、デートだよ。招待されたのは、ぼくとヒナコのふたり」

「じゃあ、アタシが一緒に行ってあげるよ、東條さん」


 東條さんの背後からひょこっと顔を出したのは、桃華ちゃんだ。


「仕事前に来てくれてありがとう。このあとね、由紀ちゃんと洋服選びに行ってもらうことにしたんだ。だから、桃華ちゃんはヘアメイクよろしくね」


 さらりと桃華ちゃんの話をかわして、東條さんはそんなことを言う。彼女の機嫌を損ねるんじゃないかと心配したのは一瞬で、桃華ちゃんは笑顔で頷いた。


「リョーカイ。パーティーは七時半からだっけ」

「そう。遅くても七時過ぎにはホテルで待ち合わせたいな」

「それなら、十分時間あるし、大丈夫。ほら、ヒナコ、こっちに来て」


 呆然と立ち尽くすわたしを、桃華ちゃんが手招きする。手にはいつものハンドバックではなく、トランクキャリーが引かれていた。


「ヒナちゃん、すべては今言ったとおり。メイクは桃華ちゃんに任せたし、このあと由紀ちゃんが迎えに来るから、一緒に素敵なワンピースでも選んでもらって。で、ぼくとホテルのロビーで七時過ぎに待ち合わせだ」

「はぁ……」


 ずいぶんと楽しそうに微笑みながら、東條さんはまたパソコンに向かう。そうしてわたしは突然決定したデートについて、心の準備もままならないうちに、促されるまま桃華ちゃんの前に用意された椅子に座った。

 目の前には大きめの鏡が置いてある。そこに映った自分の顔から、わたしはつい目を背けたくなった。と、東條さんがこっちを振り返るから、なんだか恥ずかしくなってまた鏡の中の自分と向き合うことになってしまう。


「桃華ちゃん、わかってると思うけど」

「ダイジョーブ、キャバ嬢メイクにはしないから。あくまでナチュラル、だよね」


 桃華ちゃんは返事をしながらトランクキャリーを開けて、中から様々な道具を取り出しテーブルの上に並べていく。とても手が出ないようなものから、知っているブランドの化粧品もあるけれど、こんなの、成人式の写真を撮ったとき以来だ。

 嬉しいけれど、緊張する。それに、ここまでお膳立てされると、普段のレベルの低さを突きつけられてしまったような恥ずかしさもあった。


「ヒナコ、漫画とか映画のお姫様みたいだよね。ほら、ダサくて地味でビンボーな女の子がさぁ、イイ男にお金をかけてもらって見違えるほどキレイになっちゃうの。よくあるじゃん、シンデレラストーリーみたいな」


 ねぇ、と鏡ごしに聞いてくるから、わたしは黙って唇を噛んだ。

 どうせわたしは、ダサくて地味でビンボーだ。


「あー、今夜はそうやって唇かんだりしないでよね。グロスが歯についちゃったらカッコ悪い」


 頭を小突かれて、桃華ちゃんを振り返ると、前を向けと強制的に顔の向きを直された。


「うらやましいって言ってんの。東條さんとロイヤルプラザでディナーだなんて。それもナニからナニまでぜーんぶ用意してもらってさぁ。このまま首絞めてやりたいくらいだよ」

「わたしも、今聞いたばかりなんだけど……」

「だーかーらー、そういうのが……もう、いいや。化粧するから黙ってて」


 わたしの髪を梳いてホットカーラーを巻きつけると、手早く前髪をピンで押さえ、化粧水を浸したコットンで顔を拭いてくれる。わたしの化粧はそれから乳液をつけて化粧下地を兼ねたUVクリームを塗り、仕上げにファンデーション。あとは眉を書いておしまいだ。学生の頃から変わらず、職場も厨房にこもりっきりだったし、リップクリームでさえ料理の味が微妙に変化しそうで、それ以上の何かをしようとも思わなかった。


 桃華ちゃんはいくつかのベースメイク素材を混ぜて使っていた。アイラインを引いて、人生初のつけまつげをつけてもらう。それからマスカラ。アイメイクにチーク、くすぐったくなるような大きなブラシで鼻筋や額を撫でられて、仕上げにパウダーをはたくと桃華ちゃんは出来栄えに満足そうに微笑んだ。

 髪を巻いていたホットカーラーを外して指で梳きながらクリームをもみ込んで、全体にスプレーをかける。


「髪、まとめてあげたいんだけど、これから試着したり着替えたりするでしょ。だから、これでおさえて、と」


 パールとラインストーンのカチューシャをつけてもらって終わりかと思いきや、今度は両手をテーブルの上に乗せられる。

 桃華ちゃんがキャリーから取り出したケースを開ければ、大小のストーンが流れるように配置されたフレンチネイルのチップがあった。シンプルだけれど、派手すぎない淡いパステルピンクにキラキラと輝くストーン。子供のころ、おもちゃのアクセサリーボックスを初めて開けたときのことを思い出して、胸が高鳴った。


「かわいい」


 思わずそう言うと、桃華ちゃんは得意気に笑った。


「でしょ。特別な日のために取ってあったんだ。コレ、ヒナコにあげる」

「えっ、い、いいよ、こんなにかわいいの。特別、なんでしょ」

「アタシ、最近ジェルばっかで、ほとんどチップ付けないし。それに、今日はヒナコにとって特別な日でしょ」


 わたしの爪にチップを合わせ、やすりで形を整えながら、こちらを見上げる。ところでさ、と声を潜め、桃華ちゃんがわたしの耳元に口を寄せた。


「東条さんには、まだ話してないの?」


 わたしは、静かに頷いた。


「じゃあ、今日が違う意味でも特別な日になればいいね」

「そう、だね……」


 一枚一枚整えられたチップが、わたしの爪を覆い隠して夢のような指先に変わっていく。鏡を見れば、魔法にかかったようなわたしが、少し不安そうな顔でこっちを見ていた。

 突然訪れた、特別な日。すべてをリセットして、新しいわたしになれたなら、今夜、すべてを東條さんに告白できるかもしれない。

 桃華ちゃんが最後に右の小指をつけようとしたとき、事務所のドアが開いて由紀さんがやってきた。


「わー、ヒナちゃん、カワイイ!」


 由紀さんの声につられて、これまでパソコンの画面をずっと向いていた東條さんも振り返った。


「清楚なお姫様メイク、でっきあっがりー。うん、我ながらよくできた」

「メイク、全部桃華ちゃんが?」

「そうだよ」


 桃華ちゃんの横に由紀さんが並び、立ち上がった東條さんは、感心したように腕を組んで何度も頷く。


「うん、いいね。実はちょっと派手なメイクになるんじゃないかって心配してたんだけど、すごくいい」


 桃華ちゃんに由紀さん、そして東條さんまでわたしのそばにやってきて、三人でわたしを囲んで見下ろした。

 恥ずかしくて顔を上げられずに鏡を見れば、そこにはたしかにわたしがいる。けれどそれは桃華ちゃんの手で目を見張るほどきれいにしてもらった自分だった。

 ゆるくカールされた髪型も、憧れたことはあったけれど、どうすればこんなふうになれるのか試したことすらなかったし、メイクだって、興味がなかったわけじゃないのだけれど。

 こんなふうになれるなんて、思ってもみなかった。


「桃華ちゃん、ありがとう」


 素直に嬉しくて、ありのままの気持ちを伝えれば、桃華ちゃんは驚いたように目を開いて、少し照れながら頷いた。


「じゃあ、次は服と靴とバッグね。よし、ヒナちゃん、わたしと一緒に行こう」

「アタシのヘアメイク、ちゃんと生かせるようなものを選んでよね」

「由紀ちゃん、ホテルには七時過ぎごろでよろしく」

「大丈夫! あとはわたしに任せて。東条さん、ロビーについたら連絡しますね」


 やっぱりまだ、わたしだけが気後れしている。不安と期待と妙な高揚にくすぐったさを覚えながら、由紀さんに連れられるまま事務所を後にした。



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