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しずかなじかん

 ベッドから降りて立ち上がるまではよかったものの、歩けば軽い眩暈にも似たような感覚に、つい足を止めた。腫れている足首も痛む。壁に手をつけば腕も、肩も、首も。身体中に鈍い痛みが残っている。

 東條さんに言われたとおりに着替え、それからなにかしらの物につかまりながら部屋を出て、いつものソファへ腰を下ろした。ボックスから毛布を取り出し、そのまま身体を横たえれば、猫背になってパソコンに向かう東條さんの横顔が見える。


 この東條さんの事務所兼自宅は、窓がないから昼間でも薄暗い。ソファに横になっていると、一体今が何時なのか、朝なのか、それとも夜なのか、わからなくなる。聞こえるのは、東條さんがパソコンを操作する音と、時折吐き出す小さな溜息と、イスが軋む音。それからわたしの鼓動と呼吸と、寝返りを打つと東條さんのイスと同じようにソファが軋むだけ。


 静か、だった。


 けれど、静寂ではないし、空気が張り詰めているわけでもない。ごく普通に、時計の針が進むままに時が過ぎていく。時間がこんなにも一定に過ぎていくのを、わたしはここにいるようになって初めて感じていた。


 そう、あの夜を、それからの三日間をこの場所で過ごしてから。

 東條さんと初めて会ったクリスマスイブ。店は予約で満席なのに、朝から怠かったわたしの身体は、仕込みがはじまった時間にはすでに体温が上がり始めていた。そうしていざ開店の時間になると、立っていることすらできなくなって、強制的に早退させられた。

 あの日、熱が出なければ。わたしはまだ、あの店で、みんなと一緒に料理を作ることができていたのだろうか。


 わたしは一度目を閉じて、静かに息を吐き出してから瞼を開いた。

 たぶん、あの夜の出来事がなかったとしても、わたしはなにかしらの理由をつけられて、店を辞めざるを得なかったかもしれないと思う。

 そうして、あの夜の出来事がなかったとしたら、わたしは東條さんに出会うことができなかったのかもしれない。





 ここに初めて訪れた夜から三日間、わたしは熱を出してこのソファでずっと寝込んでいた。正確には、動くことができないほど、身も心もボロボロだった。

 ふと目が覚めて、ここがどこだろうと思うのだけれど、思うだけで身体は動かない。そうしてまた目を閉じて深い闇に引きずり込まれることの繰り返し。今がいつなのか、ここがどこなのか、なにもわからない。ただ、確実に時間だけは過ぎていく。


 ソファから見えるのは、知らない男の背中だけ。電話が鳴って男の声が聞こえても、その声に聞き覚えはまったくない。そこでわたしはふと気づく。知らない男についてきてしまったことと、そこで裸になったこと。写真を撮られて泣いたわたしを、その男が抱きしめて慰めてくれたことを。


「ヒナちゃん、起きて。薬飲もう」


 男がわたしの名前をそう呼ぶことで、さらに自分の置かれた場所を自覚する。

 クリスマスイブの夜に、あのひとの家で誰に会ったのか。

 彼女に何を告げられたのか。

 強烈な記憶が鮮明に蘇ると同時に、わたしはまた自ら意識を手放したくなる。きっと悪い夢だったのだと信じたくて、目を閉じる。

 けれど男はわたしの身体をゆっくりと起こして、額に手を当てた。大きな手が胸元に滑り込むと、いつの間にか脇の下に挟まれていた体温計を取り出した。


「うん。やっと熱が下がってきた。37.2度、そろそろなにか食べなきゃだめだ」


 男の胸の中で、体温計を見せられる。そこには言われたとおりの数字が表示されていたけれど、わたしにとってそんなものはどうでもよかった。熱がどうであろうと、身体は重く、怠く、活動することを拒んでいる。


「もう三日も寝たきりなんだよ。ゼリーならさっぱりしてるし、食べられるかな。もし甘いものがよければ、プリンもある。それからバニラアイス。なにか食べたいものはない?」


 テーブルに置かれたそれらを指差すけれど、わたしは食べる気になれずに、黙って男の胸にもたれていた。


「じゃあ、アイスにしよう。知り合いにね、昔看護師してた子がいるんだけど、熱が出て何も食べられないときは、アイスがさっぱりしてて食べやすいって。カロリーもそこそこあるし、女の子は甘いものが好きでしょう」


 男はカップアイスを手に取って、蓋を開けた。そうしてスプーンでアイスをすくうと、わたしの口元に運ぶ。

 されるがままに、わたしが小さく唇を開けると、甘くて冷たいバニラアイスが口の中に広がり、溶けた。わたしがそれを飲み込むのを確認して、男はまたひとくち、アイスを食べさせる。

 舌先から広がる甘い味と香りは神経を刺激して、まだ夢の中でうずくまっていたいわたしの意識を呼び起こす。

 乾いた唇についたアイスを舌で舐めると、男がほっとしたように小さく息を吐いた。


「おいしい?」


 返事をすることなく、わたしはただ男の顔を見上げた。

 目じりが下がった細い目元が、冷淡に見えそうな端正な顔つきを優しく見せている。パーマなのかくせ毛なのか、ゆるいカーブのかかった髪型も、柔らかな印象をわたしに与えた。

 きれいな顔をした、優しそうな男。大きな瞳で、貫くようにわたしを見つめていたあのひととは、まるで正反対だと思った。


「これを食べたら、家まで送っていくよ」


 そう言われて、わたしは口元にスプーンを運ばれても、唇をぎゅっと閉じた。


「……もう、食べないの?」


 男は行き場のなくなったスプーンを、自分の口の中に運ぶ。


「うん、おいしい。もうちょっと食べたほうがいいと」


 話し続ける男の口を塞ぐように、わたしはキスをした。バニラの香りがする。舌を差し込めば、アイスと同じ甘い味がした。

 一瞬戸惑うように躊躇った男の唇も、やがて応えるようにわたしを受け入れてくれる。

 なにも考えない。考えてはいけない。

 このまえは怖気づいて泣いてしまったけれど、今ならきっと大丈夫。このひとなら、怖くない。

 深く長く重なり合っていた唇を離して、確かめるように男を見る。

 どこか困ったような顔で、男はわたしの頬を撫でた。


「甘くて、おいしいキスだ」


 もう一度キスしようとしたのに、わたしの唇には、スプーンが押し当てられた。


「ダメ。まずは、これを食べて」


 あんなキスをしたのに、なにもなかったみたいに、男はわたしにまたアイスをのせたスプーンを差し出した。

 微笑んで、開かない口をじっと見つめながらスプーンで唇を突くから、わたしはエサを与えられた小鳥みたいにまた口を開ける。

 すぐに溶けていくアイスを飲み込んで、瞼を伏せてから、わたしは男を見た。


「……ここにいても、いいですか」


 喉の奥から絞り出した声は、かすれていた。


「ん?」

「食べ終わっても……ここから、追い出さないでください」

「うん。わかった」


 いともあっさりと承諾されたことに、わたしのほうが戸惑ってしまう。でも、そう言って適当に返事をしておきながら、結局、わたしは追い出されるような気がしていた。

 男の返事を確かなものにするために、せてめ、今夜だけでももう一晩ここに置いてもらうために。今でも残るあのひとの残像を少しでも消すために。

 わたしは男の手からアイスとスプーンを奪い捨てて、男にキスをした。

 こんなことをしたからといって、置いてくれる確証はないし、けれど、しないよりはマシだと思った。


「ヒナ、コ……待って」


 唇を引き離されれば、今度は首筋や耳にキスをして、舌を這わせた。男のシャツのボタンに手をかけて、熱い肌に触れる。耳の形も、首筋も、身体の線も、あのひととは違う。でも、同じ男のひと。あのひとも、その前に付き合った彼も、同じようなことをされるのが好きだったし、喜んだ。

 だからこの男も、きっと同じ。

 わたしは下腹部に手を伸ばして、ジーンズの上からそこに触れる。


「見かけによらず、肉食系なんだね。じゃあわかった、あれだ、女体盛りならぬ男体盛りでもやってみよう。乳首にはプリンで、ヘソにゼリーでどうかな。アイスは冷たくて溶けちゃうから、まずは指でも舐めてもらうことにして。ん、ぼくが言ってること、よくわかんないって顔してるね」


 わたしの肩を掴み身体を起こして、男はわたしが床に捨てたアイスのカップを拾い上げる。そうして右の中指でアイスクリームをすくうと、わたしの唇にそっと押し当てた。


「ほら、早くしないと溶けちゃう。両手でぼくの手を持って。上目づかいでぼくを見ながら、舐めてみてよ」


 言われるまま、わたしは男の手を掴んで、溶けたクリームが垂れそうになる中指を慌てて咥えた。


「目を閉じないで、こっちを向いて」


 指を舐め、ちらりと男の顔を見たけれど、じっと見つめることなんかできないし、甘いものを舐めとってしまった指は、奇妙な感覚を受け入れられずにそっと吐き出した。


「ん。そんなんじゃ、ぼくをソノ気にさせられないよ?」


 誘ったはずのわたしのほうが、焦り始めていた。思うようにいかない焦りか、それとも、自分がしていることに対してなのか、目の前の男がこれまでの誰とも違うことについてなのか。

 後戻りはできない。わたしに、戻るところはない。

 もう、ここしかないのだから。

 男はわたしの指でアイスをすくうと、わたしがしたのと同じように、両手でわたしの手を掴む。


「こんなふうに、さ」


 男は口から赤い舌をのぞかせて、下からゆっくりアイスを舐めとっていく。伏せた瞼に隠れた視線は、舌が指先に到達するころ、わたしを挑発するように見上げていた。

 舌が離れたと思うと、次には中指を根元まで口の中に咥えられている。ざらつく舌が指に絡まり、じっくり味わうように、何度も口の中を出たり入ったりを繰り返した。

 男の妖しい視線から目を逸らしても、身体の奥からざわざわとこみ上げてくるものを抑えきれない。


「この口で咥えて、舌で舐めてほしいって思わせるようにしなきゃ」


 男の口から解放された指が、淋しかった。もっとしてほしいと思ったのは、わたしのほうで。


「キスだって、そうだよ。緊張して固い舌を突っ込まれるだけじゃ、気持ちよくなれない」


 さっきまで指をしゃぶっていた唇が、優しくわたしの口角に触れた。そうして、ついばむようなキスのあとに、深く唇を押し当てられた。

 まるで、ふたりのおいしい部分を味わうような、恋人同士のキス。愛し合ってるふたりが、それを確かめるような口づけ。

 強引なわたしのキスとは違う、お互いが気持ちよくなるために相手を気遣うキスは、わたしの胸をぎゅうっと締め付ける。

 髪の中を彷徨う指先も、背中に触れる手のひらも、あのひとを思い出させて苦しくなった。

 優しくなんて、してほしくない。もっと、違うやり方で、すべてを忘れさせてほしいのに。


「今はまだ、ここまでにしよう」


 両手でわたしの頬を包んで、男は瞼にキスをした。


「ヒナコはこれ以上を望んでいるのかもしれないけれど、それはまだ、本当にヒナコがぼくのことを好きになってからにしよう」

「えっ……」

「もちろん、セックスするのは簡単だよ。ぼくはオンナノコとセックスするのは大好きだし、このまま、流れでしちゃえばいい。でも、それじゃあきっと、ヒナコはもっと傷ついてしまう。ヒナコは、そういう女の子だ。だから意地悪かもしれないけれど、今は、しない」


 愕然とするわたしがいる一方で、うらはらに胸の底から沁み出すように安堵が広がっていく。


「ここにはぼくしかいないけれど、頻繁にいろんなひとがやってくるし、コンちゃんて男の子もぼくの仕事を手伝いに来る。その邪魔をしないで、おとなしくしていてくれるなら、きみがいたいだけ、ここにいればいい。そのうちにぼくのことを好きになれば、今夜の続きをしよう。でもその前に、ここを出て行ったってかまわない。それは、ヒナコが自分で決めることだから、間違っても恩返しのために一回だけ最後のセックスをしようとか、そんなことは考えないでくれ。そういう行為は、ぼくが傷つくから」


 このひとは、一体。


「ぼくは、嘘はつかないよ。自分で言うのもなんだけど、変り者だけれどね。正直、ヒナコがぼくを好きになるには、相当な時間がかかると思う。でも、ゆっくりでいい。ゆっくり、ぼくのことを受け入れてくれたなら、そのときは教えてほしい」


 わたしのことを、なにも知らないのに。


「本当に、ここにいても、いいんですか……」

「ヒナコみたいにカワイイ女の子を追い出す理由なんて、見つからないよ」


 髪を撫でて微笑む男が、わたしを騙しているとは思えなかった。理由も聞かずに、こんなに簡単に、見知らぬ人間を受け入れてしまうなんて。本人も言ったとおりの変なひと。

 わたしはひとまず安心していた。ここに、いることができる。

 寒い雪の降り積もる夜の闇に、もう放り出されずに済む。ただ、それだけで十分だ。

 知らぬ間に涙がぽろぽろとこぼれ出したわたしを、男は、東條さんは包むように抱きしめてくれた。





 東條さんの背中を見ながら、このソファで混乱していた夜のことを思い出していた。あの夜に声を掛けてくれたひとが別のひとなら、わたしが他のひとに付いて行ったなら。わたしは今頃、どうしていたんだろう。

 他の誰かなら、わたしは望んでいたとおりにもっと深く傷ついて、どうなっていたかわからない。


 けれど。東條さんはどうしてわたしをすんなりと受け入れてくれたんだろう。わたしの家が火事になって、本当に帰る家がないのだと伝えたのは、あの夜のあとだ。


 まさか。由紀さんと東條さんがしていた話は、わたしと東條さんに思いがけない接点を作り出していた。けれど、そんなにタイミングよくすべてが巡るはずなんかない。

 たとえば、料理長から東條さんがわたしのことを頼まれた、なんて。そんなこと、きっとあるはずがない。

 ここでは、考える時間が十分すぎるほどある。だから、考えすぎてしまう。


 わたしは目を閉じた。静かで穏やかな、東條さんがすぐそばにいるこの場所で。目が覚めたら、わたしの心も同じように、静かで穏やかでありますようにと願いながら。



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