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 どんなに目をじっと閉じていても、なかなか眠りにつくことができなかった。なにもかも思い出さないようにしても、陽奈子のことばかり頭に浮かんでしまう。

 眠ったのか、眠っていなかったのか、よくわからないけれど、ときどき東條さんに名前を呼ばれて返事をした。そのたびにおやすみと囁いて、髪を撫でてくれるから、わたしはいつの間にか眠ることができたのだと思う。

 そうして目を開けると、横に座っている東條さんが、わたしの顔をのぞき込んでいた。


「おはよう。頭は、まだ痛む?」

「……少し」


 でも、最悪な昨日より、ずっとマシになっていた。ただ、まだ少し頭全体が重い雲で包まれているような不快感があるし、意識もどこかぼんやりしている。

 全身も軋むように痛くて、わたしは身体を起こすのに手間取った。さらさらなシーツとやわらかな毛布が肌をすべるのが気持ちよくて、もうしばらくこのままでいたいと思ってしまう。

 と、違和感を覚えて、わたしは自分の身体を確かめた。


「どうかした?」

「わたし、どうして」


 なにも、着ていないんだろう。

 下着も、なにも、だ。

 よく覚えていないけれど、自分で脱いだのか、それとも。

 わたしは身体を起こすのをやめて、毛布を両手でしっかりとつかんだまま東條さんのほうを向いた。


「ヒナコ、覚えてない?」

「えっ」

「そうだよね、きっと、頭も打ってたし、いろいろと記憶も飛んじゃったのか。残念だな」

「え、え。あ、あの」

「また次があるんだから、昨日の記念すべきはじめての出来事を、ヒナコが忘れてしまっても、ぼくは平気だよ」


 考えてみても、思い出そうとしても、東條さんが一体なんのことを言っているのか、全く見当もつかない。


「わたし、その……」

「ん」


 東條さんがわたしに並ぶように横になって、顔を近づけてくる。

 そうして優しく唇同士が触れ合った。


「昨日はね、ぼくがはじめてヒナコを脱がした日」

「……は?」

「一応了解は取ったんだよ? 苦しいだろうから、脱ぐかいって。ヒナコはうんって言ったんだけど、一向に脱がないから、じゃあ脱がそうかって。そうしたらヒナコはうんって、さ。まぁ、肯定のうんだったのか、適当に返事をしただけなのか、ぼくにも判断がつかなかったんだけれど」


 そういえば、そんなようなことを聞かれたかもしれないことを、なんとなく思い出す。

 返事というか、声を出そうとしたら、うぅんと唸るような、ともすれば東條さんの言うとおりの肯定の返事に聞こえてしまうような声にしかならなかったのだ。


「仕方がないから脱がしてしまったわけだけど。これがどうしようもない拷問だったよ。考えてみて、大切な日に食べると決めているご馳走のね、ふたをうっかりあけてしまったけど、食べられない! あぁどうしよう、いっそこのまま食べてしまおうか、いや待て、まだ、いまじゃないって、ぼくの中の天使と悪魔が囁きあってね」


 ゆっくり身体を起こした東條さんは、今度はわたしの上に跨った。


「生殺し、いや、生き地獄。うん、昨日は全然眠れなかった」

「す……すみません。でも、東條さん、わたしの身体なんて、これまで何度も……」

「何度もって、これでまだ三度目だよ。しかも、一番最初はヒナコが自分で脱いだわけだし、このまえの桃華ちゃんと一緒のときだって、ほとんど自分で脱いだも同然でしょう。つまり今回はぼくが、ぼくのやりたいようにヒナコの服の一枚一枚を脱がせていったんだよ。これは奇跡だ」

「大げさですっ」

「いや、ぼくはオンナノコの裸の写真をよく撮るけどね、ぼくが直接手をかけて脱がすことは、まず、ない。昨日のヒナコは完全に無抵抗で、なおさら、してはいけないことをしている感が強くなって。そうしたら、ヒナコがまるで女神様みたいに見えたんだ。激しくぼくは罪の意識に苛まれて、悶え苦しんだわけだよ」

「本当に……脱がしただけ、ですか」


 それ以上、なにもされていないと思う。

 でも、さっきからなにもかもすべてに覚えがなくて自信がない。

 昨日は全身が痺れてしまったように、皮膚の上にもう一枚、感覚のない肌を被っているような感じがしていた。おかげで痛みがあまりわからなかったのだけど。

 だから、もしなにかをされていたとしても、感覚が残っていないのだと思う。

 ふと顔を上げると、東條さんの顔がぐっとこちらに近づいてきた。


「なにか、してほしかった?」

「いっ、いえ、そういうわけじゃなくって」

「しても、いい?」


 東條さんは、ときどき変なことを言う。すぐに理解できないように、遠回しな言葉を並べて、わたしを油断させる。

 そうやってこんなふうに、突然真剣に迫ってくるから困ってしまう。


「だめですっ!」


 そうは言っても、押さえつけられたなら、わたしに抵抗する力はなくて。

 痛みのある身体じゃ、東條さんに組み敷かれてしまえば、もう抜け出すことができないと思う。


「東條さん……」


 案の定、この状況を楽しむように微笑みながら、東條さんはわたしの耳をついばんだ。唇はそこから首筋をたどり、鎖骨に触れる。


「ここから先は、未知の世界だな」

「そこから先は、まだだめですっ」


 胸元に吐息を感じて、わたしはつい東條さんの顔を押しのけた。


「いでぇっ!」


 低い悲鳴とともに、東條さんの姿が見えなくなって、わたしも慌てて身体を起こした。


「ひどいよ、ヒナコ。ぼくがコンちゃんに殴られたの、忘れてるでしょ」

「あ、あぁっ! そうでしたね、すみません、ごめんなさい! 大丈夫ですかっ」


 東條さんには申し訳ないけれど、わたしはおとといのコンちゃんとのことは、すっかり忘れてしまっていた。

 何気なくわたしが押しのけたところは、コンちゃんに殴られた場所だったようで、呻きながら東條さんはベッドに突っ伏している。

 ややあって、顔を上げた東條さんは、目を細めてわたしを見つめる。


「ヒナコのそういうところは、天然なのか、天性なのか、それとも天才か? まぁ……ポロリもあったわけだし、どうでもいいか」

「え?」


 と、東條さんの視線の先には。

 慌てて起き上がったわたしの胸元があらわになっていた。


「東條さんこそ、ひどいですっ!」


 胸元を隠そうと毛布を引っ張ると、東條さんにそれを逆に引っ張られて、上半身だけじゃなく、下半身もすべてがさらけ出されてしまう。


「ヒナコのほうこそ、ぼくの前で裸になるのは、もう三度目じゃないか。恥ずかしがる必要はないよ」


 わたしは身体を小さくして、なるべく肌が見えないよう腕や足で覆う。


「殴られたことを忘れて、ごめんなさい。だから、その、毛布を」

「いや、許さない」

「そんな」

「その身体も視線も声も全部がぼくを苦しめていることを、ヒナコはまだわかってない。ぼくがどれだけヒナコを愛してるのか、わかってる?」

「それは……」


 わかっている、つもりです。

 それに応えることがまだできなくて、その言葉を飲み込んだ。


「東條さん、意地悪しないでください」

「ぼくだって、したくてしてるわけじゃいんだ」


 毛布を手にして、東條さんはわたしに詰め寄ってきた。


「いま、ぼくは大人としてとても恥ずかしい気持ちを抱えているんだよ」


 そう言って眉根を寄せ、次の言葉に詰まりながら、一度項垂れる。


「ぼくはヒナコよりずっと年上だし、ずっといろんなことを経験した大人だと思ってる。だからそれなりの包容力を持って、これからもヒナコのそばにいたいんだ。いままでどおり、余裕をもって……いる、つもりだったんだけれど」


 顔を上げた東條さんは、意を決したように口を開く。


「……アキヒトさんっていうのは、一体誰なんだ?」

「えっ、あ……」

「覚えてるだろう? ナツミちゃんがここを出るときに、彼が心配してるから連絡しなきゃだめだって、ヒナコに言っていたよね」


 わたしは黙って頷いて、そのまま顔を上げられなくなる。

 余計なことを言ってくれたと、こればかりは陽奈子を恨んだ。そして聞き流すことなく、しっかりと覚えてしまっている東條さんにも頭が痛かった。


「ヒナコ、ぼくはヒナコのことを、きっとまだなにもわかってないんだ。ぼくはそれでもいいと思ってる。ヒナコが言いたくないことは、言わなくていい。ただ、こうして友達が現れて、彼女の口から男の名前が出たことは、正直おもしろくはない」


 両腕をつかまれて、わたしもまた、心を決めて東條さんを見つめた。


「秋人は、兄、です」

「……嘘だ」


 思いがけない東條さんの反応に、わたしは一瞬唖然としてしまう。


「ほ、本当ですっ!」

「男の名前が出たら、とりあえず親族だと告げるのは男女ともに常套手段だ。ヒナコはそんなふうに簡単にぼくに嘘を吐くんだね」

「違いますっ、本当に兄なんです! あきひとは、春夏秋冬の秋に、ひとは人間の人。七つ年上で、お嫁さんの名前はあいさんで、甥っ子の名前は文弥ふみや。本当に、本当です!」

「じゃあ」


 東條さんは携帯電話をわたしに差し出した。


「お兄さんに、電話しなさい。心配、かけちゃだめだ」


 受け取れないでいるわたしに、東條さんは電話を押し付ける。


「ちゃんと電話できないなら、ぼくはアキヒトさんがお兄さんだって信じてあげないよ?」


 それなら、信じてくれなくてもいいです。

 そんな言葉が喉元までこみ上げて、わたしはそれを胸の奥にしまい込む。

 いまを逃してしまえば、わたしはこれから先もずるずると、この状況に甘えてしまう。きっと、東條さんはそれでも許してくれると思う。でも、それでは、ダメだ。


「わかりました」


 わたしは電話を受け取った。


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