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うらはら

「ごめん、ごめんね、陽奈子。わたし……陽奈子みたいになりたくて、それで」

「そのわたしがソープ嬢で、がっかりした?」


 階段を下りる前に足を止め、陽奈子はわたしを見てあの作り笑顔を見せた。


「なにか、あったんでしょ。だから、こんな仕事」

「わたしが風俗嬢になった理由を知ったら、なにかしてくれるの? ホント、相変わらずなっちゃんてさ、なんていうか、バカでムカつくんだけど」

「陽奈子……」

「あぁ、同情してくれてる? それでなっちゃんは、わたしがソープ嬢としてナツミを名乗ってることは怒んないの? そうだよね、そういうこと、なっちゃん苦手だもんね。明るくってお人よしでさ、すぐ誰かにいいように使われちゃうのに、それを気付かないで引き受けて。利用されてるだけなのに、自分がイイコトしてるって勘違いしちゃうバカ」

「そんなふうに、思ってたの……?」

「違うの?」


 嘲笑して首を傾げる陽奈子に、わたしの身体は小刻みに震えた。

 涙が溢れそうになって、唇を噛む。

 陽奈子が言っていることは間違いなかった。けれど、ふたりがいつも一緒にいたころは、それが夏美のいいところだって言ってくれたのに。

 まるで別人のようになってしまった陽奈子を、呆然と見つめるしかなかった。


「なっちゃんも、なにかあったんだよね。夢が叶って、料理の仕事してたんでしょ。あの人気レストランのディマーレで働いてたって秋人さんから聞いて驚いたよ。なのに、突然失踪して、行方不明になってるって聞かされて……わたしね、ちょっとだけ嬉しかったんだ」


 思わず耳を疑った。


「嬉しいって……どう、して?」

「だって、不幸なのはわたしだけじゃないって思えたから。なっちゃん、きっと誰かに騙されて、こそこそ隠れてヒナコって名乗ってるんでしょ。ありのままの自分じゃいられないくらい、わたしと同じように自分を偽らなきゃ生きていけないくらい、追い詰められちゃったんでしょ」


 なにも答えられないわたしにむかって、陽奈子は楽しそうに微笑んだ。


「でも、なっちゃんは、わたしと違うんだね。そうやって生きていても、必ず誰かに守られてる。高校のときは、わたしが守ってたし、家を飛び出したって、おばさんと秋人さんがおじさんに黙って学費出してくれてたんでしょ? それに今だって、得体のしれないヒナコになっても、東條さんが守ってくれてる」


 うつむいた陽奈子が、ゆっくりとわたしの胸ぐらをつかむ。

 その動作を黙って見つめながら、わたしは息を飲んだ。


「ずるいよ。わたしがヒナコなのに。陽奈子わたしのことは、誰も守ってくれない。ナツミになって、明るく振舞っても、結局なにも変わってない。ねぇ、どうして?」

「……ごめん」

「ちょっと待ってよ、どうしてなっちゃんが謝るの? なっちゃんが悪いの? わたしがこんなふうになったのは、全部なっちゃんのせいなの?」


 わからない。

 陽奈子のことを受け止めてあげたかった。わたしができることは、なんでもしてあげたいと思った。

 それで陽奈子が助かるのなら。陽奈子が少しでも前を向けるなら。


「なっちゃんのそういう態度、大っ嫌い。なんか反論しなさいよ。自分は悪くないって言えばいいじゃない。ナツミなんて名乗るなって、やめてって言いなさいよ!」

「わたしは……イヤじゃないよ。わたしだって、陽奈子の名前、借りてるから。でも、もうこんなことはやめようって思ってる。だから、ごめん。やっぱり謝る」


 陽奈子みたいになりたかったというのは嘘じゃない。

 ただ、わたしは自分を、夏美を守るために、つい頭に浮かんだ陽奈子の名前を名乗ってしまったのだ。

 自分自身の身代わりに、咄嗟にヒナコを差し出した。

 だから、陽奈子が自分を守るために、ナツミと名乗っていたとしてもかまわない。


「わたしがナツミになって、ナニしてるか、わかってる?」

「うん……」

「それが、イヤじゃないって、ホントに言えるの」

「平気だよ。それで少しでも陽奈子が楽になれるなら」

「はぁ? なに、それ……だから、そういう夏美が、わたしは大嫌いなのっ!」


 不意に胸ぐらを突き放される。

 後ろに傾いたわたしの身体は、それを支えるために足を後ろに踏み出した。はずだった。

 けれど、そこにあるはずの場所はなくて、ふわりと浮いたわたしの身体は、重力に引き寄せられるまま、階段の下へと落ちていく。

 視界が真っ暗になってしまう前に見えた陽奈子が、泣きそうな顔をしていた。

 ただ、それだけが心配だった。






 途切れ途切れの意識がはっきりしはじめて、わたしは白い天井をただぼんやりと見つめていた。頭が痛すぎて、目を閉じても眠りにつくことはできなかった。

 機械音が鳴っている。規則的なものと、不規則なもの。誰かが誰かに呼びかける声。金属同士が触れ合う音。せわしい足音とともに、白い制服に包まれたひとたちが動き回っている。

 そのうちのひとりが、わたしに気が付いてこちらに向かってきた。


「東條さん、大丈夫ですか? 点滴も終わってるし、起きられそうだったら、もう帰っても大丈夫ですよ」


 わたしとそんなに歳の違わないような看護師さんは、優しく微笑んでわたしのそばを離れていく。

 彼女は確か、わたしのことを『東條さん』と呼ばなかっただろうか。どうしてだろうと思いながら体を起こそうとすると、その彼女に案内されて、東條さんがやってきた。


「ヒナコ、帰ろう」


 ゆっくりと頷いて、わたしは救急病室のベッドをあとにした。

 病院内はすでに消灯されていて、救急受付のカウンターだけに明かりが点いている。待合のソファにわたしを座らせると、東條さんはカウンターで精算を済ませて戻ってきた。


「見て見て、ヒナコの診察券作っちゃった」


 嬉しそうに差し出す診察券を見れば、そこには東條ヒナコと印字されている。


「これ……」

「ほら、保険証もないし、身分証明するものもないし、とりあえずぼくの家族になってもらったよ」


 ちょっと気が早かったかなぁ、なんて笑う東條さんに、わたしは保険証のことを思い出して、なおさら頭が痛くなった。


「それから。診療代は、しっかりヒナコに稼いでもらうからね。保険証失くしたって言ってあるから、自由診療代もそんなにふっかけられなかったし、心配するような金額じゃないから安心していいんだけど。あれだね、まずはヘッドフォンのボリュームを下げること、それから階段から転がり落ちないよう、足元には絶対に注意すること」


 陽奈子の姿が脳裏をよぎる。ごめんなさい、ごめんなさい、わたしが突き落したんですと泣き叫ぶ彼女の声も。


「ひ……ナツミ、は?」

「仕事に行かせたよ。彼女らの仕事は、無断欠勤すると一発解雇されることもあるからね。遅刻すると減給されちゃうし。すごくヒナコのことを心配してたから、あとで写真とってメールしてあげようね」

「わたし、自分で落ちたんです……」

「うん、ナツミちゃんを追いかけて、足を踏み外しちゃったんだよね。彼女はそれをまるで自分がそうさせたみたいに言っていたけど、ドジなヒナコは勝手に転んじゃったんだよね」

「……はい」

「大丈夫、わかってるから。ヒナコはなにも心配しなくていいんだよ」

「……ぁいっ」


 喉の奥が詰まって、上手く声が出ない。

 代わりにぼろぼろと涙がこぼれていく。

 震える体を東條さんが抱き寄せて、そっと髪を撫でてくれるから、わたしはそのまま東條さんの胸の中で泣いた。


 信じられなかったし、信じたくない。

 陽奈子ははっきりと自分が突き落したのだと言って泣いていた。何度も何度も、わたしにむかって、謝りながら。

 違う、わたしがバランスを崩しただけ。陽奈子のせいじゃない。陽奈子はそんなこと、絶対にしない。絶対に。


 止まらない嗚咽を東條さんになだめられながら、促されるままタクシーに乗り込んだ。

 車内でもわたしは東條さんの胸に顔を伏せていた。身体が重く、感覚が鈍っている。痛みはそれほどじゃないけれど、車から降りて事務所に上がろうとしても上手に歩けない。

 そうして、転落した階段が目の前に現れる。


「上手に転んだんですねって、先生が褒めてたよ。頭はちょっと切れて出血したけど、CTもレントゲンも問題なし。左足が腫れてるのは、捻挫してるって。しばらく歩くのは辛いだろうけど、折れてるわけじゃないからね、安静にしていれば大丈夫」


 それからここも、と優しく触れる左手の甲には、大きなガーゼが貼られていた。

 わたしを見下ろす陽奈子の、すでに泣いていたのかもしれない顔を思い出すと、やっと止まった涙がまた溢れそうになる。

 彼女が立っていた上のフロアを見上げるのをやめて、わたしは足元の階段を、東條さんに支えられながらゆっくり上った。


「東條さんは……ナツミの連絡先、知ってるんですか?」

「あぁ、もちろん。そうだ、そうそう、意識が戻ったヒナコの写真送らなきゃ」

「あの……」

「ヒナコ」


 鍵を開けて事務所の中に入ると、東條さんはわたしの肩に両手を添えて、にっこり笑った。


「彼女は、またここに来るよ。必ずヒナコに会いに来るから。それまでは、待ってあげよう」

「でも」


 わたしは、いますぐにでも陽奈子に会いたかった。もっとちゃんと話をして、あんなふうに陽奈子を変えてしまった仕事を辞めてほしかった。


「ずっと、ナツミがわたしのことを守ってくれたんです。だから、今度はわたしがナツミのことを守らなきゃ……」

「うん。きっとね、そんなヒナコの気持ちは、ナツミちゃんはとっくに知ってると思うよ。だけど、素直にその気持ちを受け入れられないワケがあるんじゃないかな」


 ふと。自分のことを言われているような気がした。

 わたしも、東條さんの気持ちを真っ直ぐに受け入れられない理由がある。


「ナツミちゃんの準備ができるまで、待ってあげよう。ね」


 顔を上げると、すかさず携帯を向けられて、軽快な電子音が鳴った。


「泣きはらした顔をしてるけど、安定剤のせいだから気にしないで、と。ヒナちゃんは元気になるから、安心して仕事をしてねって送っておくよ」

「こんな顔、撮ったんですか……」

「このあと眠っちゃって目を閉じた写真じゃ、まずいでしょ。死んじゃったと思われちゃうよ。目が覚めるのを待ってたら、ナツミちゃんはもっと心配するだろうし。こういうのは、早い方がいいからね」


 実際どんな顔をしているのかは、わからないけれど。あまりひとに見せたくない顔には違いなかった。だからといって、いい表情を作れるような気力もない。

 立ったまま携帯を操作している東條さんをよそに、わたしはいつものソファに座り、静かに身体を横たえた。


「あぁっと、ヒナコ、今夜はぼくと一緒に寝るよ。脳震盪とはいえ、甘く見ちゃいけないからね。夜中になにかあったら大変だから、今日からしばらくは、一緒に眠ろう」


 やがてわたしを抱きかかえて、東條さんは自分のベッドルームへ連れて行く。

 いつもの状態のわたしなら、なんらかの言葉を返しただろうし、意地でもソファで眠ったと思う。けれど、すべてされるがままにしかできない自分がいた。

 東條さんのベッドルームに、こんな形で入るなんて。

 いつか、そのときがくるまで、ここには立ち入らないと決めていたのに。


「ヒナコ、なにか飲む?」

「いえ……」

「じゃあ、今日はもうおやすみ」


 ベッドに横になると、東條さんも並んで横になった。

 頬に触れる東條さんの手のひらがあたたかい。そのぬくもりを感じながら、わたしは静かに目を閉じた。



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