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どうしようもないひと

 今年は大雪だったにもかかわらず、雪解けは早い気がする。それでも昼間に融けた雪は夜になるとアスファルトの上でうっすらとした氷に姿を変える。うっかり気を抜くと足を取られて転んでしまうから、わたしは荷物を抱えながら、足元を気にして歩いていた。


「ヒナちゃん、今日の晩ごはんはナニ?」


 向こうからひらひらと手を振ってくるひとに顔を上げる。声を聞いてコンちゃんだとすぐわかって、手を振り返そうとしてわたしはついバランスを崩した。


「あぶなっ」


 派手に転びそうになった私の腕を、コンちゃんがつかんで引き寄せる。


「コンちゃんの顔が高いから、転びそうになった」

「そのワケのわかんない言い訳、だんだん東條さんに似てきたんじゃない?」


 わたしは足元を確認しながらコンちゃんから離れると、首を横に振った。東條さんのことは好きだけれど、あのひとみたいに訳がわからないと言われたくはない。


「間違えた。コンちゃんの背が高いから、顔見上げたら転びそうになったの」


 わかってるけどさぁと笑いながら、彼はわたしが持っていた買い物袋を持ってくれる。


「今日の晩ごはん、春野菜パスタ」

「春野菜って、ブロッコリーとか?」

「あ、そう、ブロッコリーも春野菜だけど、今夜はキャベツ」

「まさかのクリーム系?」

「ううん、大丈夫。ベーコンと合わせて、シンプルに塩コショウだけ」

「いいね! ヒナちゃんは俺の好みわかってるなぁ」


 クリーム系が苦手なのは、コンちゃんだけじゃなく東條さんもだ。女の子はクリーム系のパスタが好きだけれど、男性にはあまり受け入れられないことは、以前から知っている。

 そういえば、コンちゃんは今日、面接だったはずだ。けれど、何も話さないところを見ると、あまり手ごたえがなかったのかもしれない。

 ちらりと横顔を覗くと、ふと目が合う。


「俺のこと見てると、また転ぶよ」

「あー、そうだった」

「なんだよ、面接のこと?」

「ん。そうだ、今日面接だったんだよね」

「ヒナちゃん、そういう嘘吐くの下手だなぁ。いいんだよ、そんな腫れ物に触るみたいなふうにしなくたって。確かに俺は一浪したうえに、四月を目前に就職も決まってませんけどー。けどさ、今じゃ就職浪人だってめずらしくないっしょ」

「うん」

「俺さぁ、一浪したけど、一応国立大卒業なわけじゃん。イイトコが採ってくれてもいいと思わない?」

「うん、思う」

「それに、背も高くてイケメンだよ? 好感度抜群じゃね?」

「うん、好感度は高いと思う」

「じゃあ、俺に足りないものは何なんだ。ヒナちゃん、教えてくれ」


 さぁ。とわたしは首をひねる。自分のことをイケメンとか言っちゃってる自信過剰なところがいけないんじゃない、なんていうツッコミは随分前に使用済みだ。東條さんと一緒にキャバクラ通いしすぎだとか、実は面接官とそこで会っちゃったりしてるんじゃないのなんて、これまでそういうことを言っていじり倒してきたのだけど、そろそろわたしのネタも底を尽きた。

 コンちゃんがどんな会社に入社したいのかわからないけれど、本人も言っているとおり、それなりにイイトコロを目指しているのだろうし、今の時代、当然のことながらイイトコロは狭き門だろうし、そうでない会社は国立大卒のイケメンなんてあんまり採りたくないのかもしれない。


「東條さんは、コンちゃんを社員として採ってくれないのかな?」

「あー、それはないわ。俺的に、ない。東條さんも、バイト以外に誰かを雇う気なんかないって、前から言ってるし」

「そうなの?」

「そ。それに、社員雇うほど仕事があるってわけでもなさそうだし、特別儲かってる感じもないし。あのひとは、自分が好きな仕事して食いっぱぐれなきゃいいんだろうな」


 ふうんと頷いて顔を上げれば、すぐそこにオフィス東條の入った建物が見えた。

 コンちゃんは、大学に入って半年くらいしてから、東條さんのところでバイトを始めたと言っていたから、わたしなんかよりずっと、東條さんのことをよく知っているんだろう。そんなコンちゃんのことが、少しうらやましい。


「けどまぁ、東條さんとこの仕事も嫌いじゃないし、バーテンのバイトも順調だし、これで昼間にもうひとつバイト掛け持ちしたら、それなりに食ってはいけるんだけどさ」


 今じゃそんな二十代はわんさかいるだろ、と付け加えて、諦めにも似た溜息を吐いた。

 わたしも、そんなわんさかの中のひとりかもしれない。でも、コンちゃんみたいに就活を頑張っているひとはエライと思う。閉塞感の中でも、前に進もうとしているのだから。

 今日のあのオンナノコだって、世間から見ればとても真っ当な仕事とはいえないけれど、ああして頑張ってる。


「どうして、コンちゃん、そんなに頑張るの?」

「え?」

「就活とか、バイトとか」


 コンちゃんは歩く速度を緩めて、目を丸くしてわたしを見下ろす。


「わたし、変なこと聞いてる?」

「いや、なんつーか、それが当たり前ってゆーか。頑張る理由なんか、考えたことないからさ。別に頑張ってるって意識したこともないし、だからたぶん俺は、頑張ることがなくなったら、死ぬな」


 今度はわたしが目を丸くして、コンちゃんを見上げた。

 そうして、思わず笑ってしまう。


「笑うトコじゃねーっしょ」

「いや、ごめん。うん、なんか、そう言われると、死んでるのかもしれないなぁって」

「は?」

「わたし、何も頑張れてないから」


 未来に広がっていたはずの夢も、目標や目的も、ふと色を失って消えてしまってから、わたしには頑張る理由がなくなってしまった。理由を見つけられないまま、動き出すこともできずにいる。


「別にいいんじゃねーの?」


 建物に入り、事務所のある二階へ向かう階段を上りながら、コンちゃんが肩越しに振り返る。


「だって、ヒナちゃん、生きてんじゃん」


 まるで他愛のないことと鼻で笑うように、コンちゃんはさらりとそんなことを言う。


「人間、生きるだけで頑張ってると思うんだよね。てか、頑張んねぇと生きてけないし。ってことは、ヒナちゃんは今の立場がどうあれ、生きてるわけじゃん。こうしてイカガワシイ事務所で、アヤシイおっさんともうすぐフリーター決定のイケメンに、頑張ってごはんを作る。それで十分っしょ」


 おはよーございまーすと、どこか気の抜けた挨拶をしながら事務所のドアを引いて、コンちゃんはわたしを中に促した。

 そして、キッチンへ向かおうとしたわたしは、ぎょっとして足を止める。急に止まってしまったから、背中にコンちゃんがぶつかってきた。


「うわっ、ごめん……て、え?」


 きっと、コンちゃんもわたしと同じものを見て、驚いているはずだ。と思ったのもつかの間、呆れたような溜息が聞こえた。


「ヒナちゃん、こーゆーひとを、死んでるってゆーんだよ」


 パソコンデスクの前、椅子から崩れ落ちたように床に東條さんが倒れているというのに。冗談では済まされないような状況だと感じているのは、どうやらわたしだけで、コンちゃんは買い物袋を持ってキッチンへと向かう。


「いいの、いいの、ヒナちゃん、ほっとこ」

「でも……」


 立ち尽くすわたしを見かねて、コンちゃんがそっとわたしに耳打ちする。コンちゃんの話を半信半疑に聞きながらも、言われたとおり、わたしは東條さんの横にしゃがんで、その肩をそっと揺すった。


「東條さん、大丈夫ですか」


 わたしに反応して、東條さんがゆっくりと顔を上げる。苦しそうに、何か言いたげに手を伸ばしてくるから、床に膝をついて、その上に東條さんの頭を乗せた。


「ヒナ、ちゃん」


 やっぱり、冗談なんかじゃなくて、本当に具合が悪いのかもしれない。

 不安でコンちゃんを振り返ると、彼はやっぱり笑っている。


「ぼくはまだ、死んでないよ。でも、お腹がすいて死にそうだ。早く何か食べさせて」


 まさか。

 東條さんの口から聞こえてきたのは、コンちゃんの言ったとおりの反応で、わたしは唖然としてしまう。


「でもそのまえに、ヒナちゃんがキスしてくれたら、残り少ない余力を振り絞って立ち上がれる気がするんだ」

「あの……」


 芝居とは思えない、あまりにも感情のこもりすぎている東條さんの姿と台詞が恥ずかしくて、呆れて言葉が続かない。


「そーゆーの、俺が帰ってからにしてもらえますかぁ」

「なんでコンちゃんがここにいるんだ」

「なんでって、今日バイトだって言ったの、東條さんでしょ」

「確かにバイトだけど、ヒナちゃんと一緒に来いとは言ってない」


 わたしの膝の上で目を閉じたままコンちゃんと話をしていた東條さんが、突然むくりと身体を起こした。


「なんだよ、つまんないなぁ。せっかくの『ヒナちゃんどっきり大作戦』だったのに。コンちゃんもわかってるんならノッてくれなきゃさぁ」

「どっきりって……サプライズとか言ってくださいよ」

「でも、ヒナちゃんの膝枕で、しあわせなひとときを過ごせたから、まぁいっか」


 東條さんは、白い歯を見せて子供みたいな笑顔でわたしを振り返る。そうして、おかえりと頬を撫でてくれる。

 けれど、わたしは無邪気な笑顔に腹が立った。


「心配して、損しました」


 東條さんがわたしの膝枕でしあわせなひとときを過ごしていたとしても、わたしは反対にほんの少しの間だけれど、不安で胸がいっぱいになっていたのに。


「ごめんね、怒った?」


 黙って頷き、立ち上がろうとした私の手を、東條さんが引き止めた。


「ヒナコのこと、もっと知りたくて。もっといろんな顔が見たくて、こんなことしちゃったんだ」


 いたずら好きの子供がそのまま大人になって、ズルい言い訳を覚えたみたいでたちが悪いと思う。

 東條さんはわたしにキスをして、頭を撫でて微笑むと、ゆっくり立ち上がる。


「さぁて、コンちゃん。晩ごはんの前に、いっちょ仕事を片付けよっか」


 いつの間にか、食材をキッチンに持って行ってくれていたコンちゃんが戻ってくる。東條さんは、大きく手を伸ばして一気に脱力すると、首を左右に傾けながら再びパソコンデスクに向かう。

 ひとりだけ床に座っているわけにもいかなくて、わたしもなんだかもやもやした気持ちのまま立ち上がった。すれ違いざまに、コンちゃんがわたしに向かって小さくお疲れ様と声を掛けてくれるけれど、どう答えていいかわからずに、とりあえず笑っておく。

 疲れを感じるのは、きっともっとあとのこと。それよりも、ぐるぐると感情をかきまぜられて、処理能力の低いわたしの思考回路は混線状態のまま。

 ひとつだけわかることは、東條さんがわたしを好きだと思ってくれていること。どうしようもないひとだけれど、その気持ちはちゃんと伝わってくる。

 もしかしたら、気持ちに応えられないわたしのほうが、どうしようもないひとなのかもしれない。

 そんなことを考えながら、わたしはキッチンに立った。




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