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あまのじゃく

 空っぽになった箱の中に手を入れて底を撫でると、どこか淋しい気持ちすらしてしまうから不思議だった。もう一方の手の中にあるコンビニ袋を握り締めて、わたしはその扉を閉じる。もう、硬貨を投入して鍵をかける必要はない。


 わたしは、「わたし」をここに閉じ込めておくことは、もうやめた。


 きっかけは、桃華ちゃんとのやりとりだ。けれど、決定的に資金が不足した。放置すればコインロッカー会社の保管庫に保存されるらしいけれど、あまり他人の手に渡ってほしくないものばかりだから、わたしは一度それらを自分の手元に戻すことにした。

 役に立たない保険証は、東條さんがいないときにはさみで切り刻んで捨ててしまおう。会員証も診察券もいらない。免許証はどうしよう。通帳から現金を引き出せば、誰かに居場所が知られてしまう気がして、だけど、微々たる貯金も手放す気にはなれない。同じような理由で、電池を外したままの携帯電話も、すべて、コンビニ袋の中で揺れている。

 今になって、やっとそんなことを冷静に考えられるようになった。東條さんから、あの事務所にいたいだけいればいいと言ってもらえた日、わたしはヒナコになるために「わたし」をここに閉じ込めた。そうすれば、嫌なことも忘れられるような気がしていたから。

 けれど、閉じ込めて隠しているだけで、記憶は不意にフィードバックする。なにより、わたしがヒナコでいる限り、わたしは「わたし」と向き合うことができないんだ。


「よし、今夜はハンバーグにしよう」


 小さくひとりごちて、地下鉄に乗り込んだ。

 運動会に発表会、試験の前や、わたしが落ち込んでいるとき、元気が出るようにと父はハンバーグを作ってくれた。フライパンサイズの、特大なやつ。上にはチーズと特製デミソースがかかっていて、その横には山盛りのポテトフライ。それからニンジンのバターソテーと、ココットには温玉。食べきれないと訴えるわたしに、母がとどめのガーリックライス特盛を笑顔で差し出してくれた。

 鼻先がつんと痛くなって、わたしは何度か瞬きをすると、ガラス窓に貼られた広告の文字を目でなぞる。頭の中に文字が流れていくだけでも、こみ上げる懐かしさを記憶の奥に仕舞い戻すには十分だ。

 乗車した次の駅で降りると、すぐ目の前のスーパーで買い物を済ませ、寄り道することなくまた地下鉄駅へ向かう。斉田さんと会ってしまってから、事務所から徒歩圏内のスーパーに行く気がしなかった。きっと、彼はわたしとあのひとの関係を知らない。けれど、わたしが知らないことを知っているのかもしれない。そう思うと、怖かった。

 帰りのラッシュの時間を外していたつもりだったけれど、思っていたよりもひとが多くて、そういえばゴールデンウィークの真っ最中だということに気が付いた。いつもの駅に戻って地上に出れば、まだ陽も高くて柔らかな風が頬をすべる。

 今朝の新聞に桜が開花したと写真が載っていて、東條さんが夜桜見物にでも出かけようと言っていた。満開になるのは三日後ぐらいだろうから、散り始めの四日後にしようと随分と楽しそうだった。

 夜はまだ肌寒いし、なにかあたたかいものでも作っていこう。おいしいチーズと生ハム、それからサーモンなんかのサンドイッチに、ホットワインを持っていくのがいいかもしれない。

 ふたりきりで行くのもいいけれど、コンちゃんや桃華ちゃんも一緒だと面白い。


「でも、あのふたりって、仲悪いんだっけ」


 いつかのふたりの険悪なムードと、そのあとのコンちゃんの悲しい罰ゲームが脳裏をよぎって、申し訳ない気持ちになりつつも、つい笑ってしまった。

 きっと、そうやって少し浮かれていたから。

 事務所のドアを開けたとき、東條さんの胸元にオンナノコがすがっていることに、わたしはひどく動揺した。

 これまでだって、何度もそんな姿を見ているのに。

 つい昨日も撮影中にオンナノコが東條さんに迫っていたことを知っているし、帰りたくないって抱きすがるコは一向に減らないし。そんなことぐらいじゃ、もう驚かない。嫌な気分にはなるけれど、東條さんがそれ以上の心地よさをわたしにくれるとわかっているから、我慢できる。

 けれど、彼女は違っていた。

 裸を撮りに来たオンナノコじゃない。たぶん、恵さんと同じ側の女のひと。淡いベージュのテーラードジャケットに、黒のスティックパンツ。少し明るい色のゆるくカールした髪は、シンプルなバレッタでひとつにまとめられていた。

 後ろ姿で表情はわからないけれど、その背中はぎゅっと丸まって、小刻みに震えている。

 困惑しながらも優しく彼女を見下ろす東條さんを見て、今までとは違う不安が胸の奥から突き上がってきた。

 身体が、動かない。声を掛けることすら許されないような雰囲気に、わたしはそっと息を飲む。

 早く、東條さんがわたしに気づいてくれなければ。このまま、東條さんが彼女を抱きしめてしまったら。

 そうすることの理由も事情も関係なく、わたしは自分がなにをしてしまうかわからなくて怖くなった。






「あれ、ヒナちゃん、なにしてんの」


 事務所の玄関ドアに背中を凭れてうつむいていたわたしは、コンちゃんの声に顔を上げる。


「コンちゃん、髪の色……」

「あぁ。似合うっしょ? なんかもう、就職諦めた。つーか、ちょっと考え方変えようと思って。って、俺の髪の色とかどーでもいーし、なんでここで突っ立ってんの」


 わたしが何も答えられずに黙っていると、黒髪から明るい茶髪になったコンちゃんが眉根を寄せてドアを睨む。


「え? なに、東條さんどっか行ってんの?」


 わたしは首を横に振る。


「じゃあ、悪いことして立たされてる?」


 もう一度、わたしは首を横に振った。


「え? え? なんなの、とりあえず鍵は開いてんの?」


 わたしは深く頷いて、そのまま顔を上げられなくなる。


「は? じゃあ、なんで? 意味わかんね。俺は入っていいの?」


 そうしてドアノブに手を掛けたコンちゃんの腕を、止めるように引っ張った。


「ダメ」

「だから、なんで?」

「どうしても、今は、入っちゃダメなの」

「……ヤバいことでもやってんの?」

「わかんないけど……女のひとがいて……」

「そんなの、いつものことじゃん」

「違うの、写真を撮るためのオンナノコじゃないの。そのひと、泣いてて……それで、東條さんが慰めて、抱きしめてて……」

「……ふーん。なんかワケアリなんじゃん? まぁ、相手が誰かわかんねぇけど、東條さんの知り合いは風俗嬢やキャバ嬢だけじゃないからな」

「由紀」

「……え?」

「由紀って、呼んでた」


 彼女の名前を聞いた途端、コンちゃんの饒舌はぴたりと鳴りを潜めた。

 かわりに訪れた異様な沈黙に、わたしは意を決して理由を告げる。


「ふたりきりにしてほしいから、ヒナコは出ててくれって、東條さんに言われたの。こんなこと、今までなかっ」


 言い終わる前に制止していた手を振り切り、わたしを軽く突き飛ばして、コンちゃんは事務所のドアを開けた。


「由紀さん! いるの? どこ!」


 焦り、慌ててよろめきながら、コンちゃんは必死に彼女の名前を呼び、姿を探している。

 そうして、パーティションの向こう側を覗いたコンちゃんの動きが、不意に止まった。


「あっ……」


 声を上げてしまったのは、わたしだ。

 まるで時間が止まってしまったように、空気が張り詰めている。目の前にいるコンちゃんが息を飲めば、その喉がゆっくりと上下する微かな音さえ聞こえてしまいそうなほどだった。


「ヒナちゃん、コンちゃんが来ても絶対に入れちゃダメだって言ったでしょ」


 呼吸することすら躊躇ってしまう沈黙を破ったのは、東條さんの静かな声。

 わたしたちの視線の先には、仰向けになった彼女の上に跨り、その彼女の自由を奪うように両手首を掴んで床に押し当てる東條さんの姿があった。

 覆い被さっていた身体をゆっくりと起こしても、東條さんは顔を背けている彼女を見下ろしたまま。

 いつか、わたしがコンちゃんからそうされていたように。

 その東條さんがわたしたちのほうを向くか向かないかの一瞬、わたしは何が起こったのかよくわからなかった。ただ、倒れた東條さんが呻いている姿に、冗談で言っていたことが本当になってしまったと背筋がひやりと冷たくなる。

 東條さんの頬を殴ったコンちゃんの右手の拳が、まだ震えていた。拳だけじゃなく、身体が震えて、肩を上下に大きく揺らしながら息をしている。

 そのコンちゃんの長身が、起き上がった由紀さんに向かって崩れるようにすがりついた。


「……なんで、こんなことすんの」


 強く、由紀さんの細い身体がコンちゃんの中に埋もれてしまいそうなほど強く抱きしめて、彼女の耳元で、コンちゃんが聞いた。


「ごめん……」


 今にも消え入りそうな声で返事をすると、由紀さんはコンちゃんの背中に手を回してしがみつく。


「俺の、せいだな。俺が、こんなんだから」

「違うよ、太一たいちのせいじゃない。ごめん、こんなことして、ごめんね」


 抱き合うふたりをよそに、東條さんはのろのろと立ち上がり、殴られた頬をそっと手で押さえながらわたしの隣にやってくる。

 ――― ふたりきりに、してあげようね。

 そう、こそこそと耳打ちをして、東條さんはわたしを連れて事務所を後にした。


「大丈夫、ですか?」


 事務所の入っているビルを出て、東條さんはわたしと手をつなぎ、どちらともなく歩き出す。すでに日は暮れ、春の陽気は嘘のように消え去っていて、わたしは思わず肩をすくめた。


「羽織るもの、持って来ればよかったね」


 質問に答える前に、わたしのことを気遣ってくれる。

 東條さんのそういうところが、わたしは好きだ。

 不意につないでいた手は離れて、その手はわたしの肩を抱いた。


「寒いな。そんで、痛い」


 東條さんは少し顔をしかめて、わたしを見下ろす。


「もっとさぁ、なにやってるんですか! とか、意味わかんねぇ、とか言って、ちょっとぐらいその場で葛藤してさぁ、ぼくや由紀ちゃんを責めるだろうなって思ってたのに、案外コンちゃんも男らしいよね。ぼくを一発殴って、彼女をぎゅっと抱きしめるなんてさ。カッコいいぜ」


 末尾の「ぜ」に妙なイントネーションをつけて、わざとらしく、殴られたことを絶対恨んでいるふうに言う。

 こんなことしたらコンちゃんに殴られちゃうかもね、と嬉しそうに企んでいたのは東條さんなのに。まさか、本当に殴られるとは思ってなかったのかもしれない。


「ヒナコには申し訳ないけど、今日からしばらくは、柔らかいものしか食べられないと思うんだ。それから、いつもみたいなキスもしてあげられないかもしれない」

「相当、痛いんですね」

「うん、まぁ。まぁ、ね。でもこれで、あのふたりがしあわせになれるなら、大した痛みじゃないよ」


 事の顛末は、わたしが東條さんに抱きすがる由紀さんの後ろ姿を見てしまったところまでさかのぼる。

 東條さんは彼女に触れることなく、すぐにわたしの存在に気づき、同時に由紀さんもわたしを振り返った。そうして東條さんは由紀さんのことを、コンちゃんの『友達以上恋人未満』の存在だと紹介した。一方でコンちゃんから「ヒナコ」の存在を聞いていた由紀さんは、わたしがそのヒナコだと知ると、慌てふためいて、どうしてこうなったのかと説明してくれようとしたのだけど、涙ながらのそれは支離滅裂でよくわからなかった。

 ただ、由紀さんはコンちゃんのバイト先のバーの常連客であること、そのバーで東條さんに面識があること、そしてコンちゃんにとって特別な存在になりたいのに、まだ彼女という立ち位置ではないことを東條さんの補足説明で理解できた。

 そこまで話を聞けば、涙の理由はなんとなく想像がつく。

 そうして『コンちゃんを困らせてやろう作戦(東條さん曰く)』を決行することになったのだけれど。わたしは言われた役割を果たし、けれど、東條さんがどこまでするのかは知らされてなかったから、正直なところ、由紀さんを押し倒しているのを見たときは、冷静ではいられなかった。


「もうちょっと、別のやり方はなかったんですか」

「うん?」

「なにか、その……」

「あ、わかった。ヒナコ、もしかしてヤキモチ?」

「ちっ、違います!」


 いや、違わない。正確にはその通りなのだけど。

 なんだか今日は、素直になれない。


「なんだ、つまんないな」

「だって……いつもああいうの見てますから、もう慣れました」

「え、そう?」

「……はい」


 全然、慣れてはいないのに。

 今夜は強がりばかりが口を吐く。

 もっと、桃華ちゃんみたいに素直に好きだと、言葉だけじゃなく全身で伝えられたらいいのに。嫌なことは嫌だと、こんなに不安だったと、ただそれだけのことが言えない。


「そうだ、ヒナちゃん、夜桜見に行こう!」

「えっ!? でも、まだ……」


 桜は咲いたばかりのはず。そんなことはお構いなしに、東條さんは肩を抱いていた手を離して、再び手を繋ぎ、夜の閑静な住宅街を走り出した。



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