31 幼き日の黄金の。8
「貴方はいつも……誰をマリィと、呼んでいたの?」
マリエッタは最後に、静かに問いかけた。彼女にも信じられないほど、静かに。
そして扉を開けた――。
返事はなかった。
その扉を開けた黄金の想いは、クライスはすでに記憶にも霞む幼いものだったから。
マリエッタは最期の言葉に静かに立つと、去った。それくらいの所作は身につけていた。元は男爵令嬢とはいえ、最低限の身嗜みは。
「……私、出ていくわ」
プリシラは嫁に出した。
彼らは最後までそう思っていた。
大公家の後妻ともあればプリシラも幸せであろう。親として、そう願いもしてはいた。
――まさかそれが彼らの策略で、自分たちが見限られたからとは、知らないまま。
もしもプリシラが後妻となったのではなく、むしろアンドリューを婿として、真っ当な跡取りとなっていたと知ったら。
彼らはその時はきちんと喜べただろうか。
少なくともマリエッタは喜んだだろう。
腹を痛めて産んだ我が子であるのだから。娘の幸せを望まない筈がない。
けれど彼女はまた、最後までわからなかった。理解できなかった。
我が子であるが、妹を可愛がれない不可解な姉である、から。
だから、彼女は出て行く。
ホンス領の風光明媚な地域ではあるが。
観劇もない。音楽もない。お茶会も夜会もない。
きれいなドレスや宝石の店もない。
あるのは村の祭りや伝統工芸。
王都の華やかな暮らしになれたマリエッタは限界になった。
何よりも夫のクライスに限界になった。
――髪もすっかりと白くなって。
大事な娘。リリアラが受けた仕打ちとはまた別に。
あの館での彼らだけが幸せな三年の婚姻期間が終わるとともに、クライスとマリエッタも責任を取らされた。
かつてクライスが口にしてしまったまま、伯爵位をリリアラに譲らされ、強制的に領地の田舎に押し込められた。
そこはホンス家が代々大切にしている本家の土地ではあった。
先祖代々の墓もある。
だが、それだけだ。
「……そうか」
クライスの返事に、マリエッタはため息をついた。
彼はもう、この数年はそんな態度だ。
「あなたは……本当に、私を望んでくれたのよね?」
だから、私と結婚したのでしょう?
それは知らず、リリアラがいつかアンドリューと交わした会話のように。
二人きりになって。
自分を見なくなった夫に――マリエッタは、遅すぎる疑問をもった。
――マリィとは。
彼が呼んだその愛称は、本当に、自分であったのだろうか。
その疑問は――本当に、遅過ぎた。
マリエッタの髪に白いものが混じり始めてから。
いや、料理人の息子に何か言われてから、だったろうか。
領地のこの館にて雇っている料理人は早くに妻を亡くしたから、子供を姉夫婦に任せて住み込みをしてくれていた。姉夫婦は実家にて父母と同居もしてくれて、ひとりぼっちより従兄弟姉妹と共に賑やかに暮す方が息子にも良いだろうと。
と言っても、その実家はこの館とも近い村に。息子は新聞配達の手伝いがてら良く父に会いに来てくれる。
実家の義兄が新聞配達を仕事としていたからだ。
伯爵家のこのお館は村から少し離れて、配達ルートが大変になるから。甥っ子が父親に会いに行くときはついでに頼むことにした――と、いうていで。
まだまだ幼いのに父親に会いに行くことが少し恥ずかしい意地っ張りな甥っ子も、そうした口実にならば「仕方ないなぁ」なんて口ぶりで嬉しそうに駆けていく。父親に甘えに。伯父の優しい計らい通りに。
何故か、こちらにいる隠居なさった伯爵さまは、配達時間を気になさらない。
先代の伯爵さまには毎日、朝にきちんと届くようにと頼まれていたし。亡くなられたあともお残りになった奥方さまにも、そう頼まれていたのに。
料理人は朝の配膳のときに、ふと気がついた。
そういえば、このひとがちゃんと新聞読んでるところ、見たことないな?
使用人の数が少なくて配膳は料理人自らが。
新聞はその数少ない使用人たちや、たまに奥さまが読んでいるようだ。
最終的に自分のところに来て、かまどの焚き付けや掃除などに使われている、新聞紙。
普通、貴族のひとは執事的なひとが朝一番にご主人さまにお届けするよな?
確か以前はそうしていたはずだ。
生前の伯爵様や奥方様には、そう。
料理人はそうしたことは詳しくはないから、あんまり気にはしなかった。
まだ若くして隠居なさったというその伯爵さまは絵を描くのがお好きだった。使用人たちも、素人目線ながらも上手いなぁと思っていた。
料理人の息子も父親に会いに来たとき、ありがたいことにもモデルにしてくださった。絵のモデルなんて、息子は照れくさそうにしていたけど。
なんと後に自分と父子でも描いてくださり、良い思い出になった。
「風景画より人物画の方が好きなんだ」
お優しいなぁと、事情を何も知らない料理人や同じ様に描いてもらった使用人たちは喜んだけれども。
じゃあなんで、ある意味で風光明媚しか売りがないこんな田舎にいるのだろうと、当然の疑問は浮かび。
料理人の息子は幼さの特権で訊いてしまっていた。
「ご隠居さまはなんでもっとひとのいる、都会に行かないの?」
むしろ都会からどうして来たのだろうか。
使用人も全員描き終わって、また料理人の息子にモデルが回ってきたくらいだ。むしろこの子がモデルとして描かれるのが多いくらい。
それにどうして奥様を描かないのだろうかと、平民には珍しい金髪をした少年は首を傾げた。
平民にも金髪はいないわけではない。少年の父親の料理人も、また金の髪だった。
「……戻っても、もう……やれることがないんだ」
やることではなく、やれること。
その言葉は、近いようでかなり意味が違うのだと、幼い少年にはまだ理解できず。
やがて少年もご領主さまが自分の髪色を気に入っているからだと――さすがに。
変なの、と。
また幼い特権で彼は口にした。
「髪なんて、そのうちみんな、白か灰色になっちゃうのに」
若い頃は見事な金髪で田舎ながらに評判だった彼の祖母も、今ではすっかり白髪のおばあちゃんだ。
優しい祖母のその髪を、少年は大好きだった。歳を取ってもきれいに三つ編みにするのは、「お祖父ちゃんが好きだった髪型だから」なんていつまでも可愛くて。お祖父ちゃんもそんなお祖母ちゃんが今でも。お祖父ちゃん自身はそれなりに薄くなっちゃったけど。仕方ない仕方ない。
「おばちゃんも最近白髪増えてきたって言ってるし……あ、おばちゃんに言ったら怒られるけど!」
金髪の祖母と親子であり、同じく金髪な父親の姉ではあるが、伯母は赤茶色の髪をしていた。それは彼の祖父に似たからで。最近めっきり薄くなっちゃった祖父に。
でも、やがて伯母の髪は祖母と同じ様な白髪になると、少年は言う。
「それにご隠居さまも白髪増えてるよね?」
そうクライスも、すっかりと白髪が増えて、頭は灰色になっていた。
やがて誰しも白か灰色になる。
その事実に。
クライスは雷に撃たれたようにかたまっていた。
「私は、私は……何に囚われていたんだろう……」
小さく問われたが、少年にはさっぱりわからなかった。だから返事もなく。
やがて――新聞に。
王太子が王位を継いだと号外が。
それは新たな技術によって色のついた写真が掲載もされていた。
王家の皆さまのお姿も。
そこには、先王と共に隠居なされる王妃のお姿も――すっかりと御髪が白くなられたお姿が。
いつかの――幼い日の黄金の、その輝きはもうどこにもなかった。
――。
クライスが亡くなったその何年も何年も後の時代。
館に遺された多くの絵は、やはり見事と話題になり。
季節外れの大きな嵐がおきたとき。それらは高値で好事家たちに購入してもらえて。領地の果実のなる木々が危うくなったときに、とても助けになったという。
金色の髪の女性の絵が多くあり、彼が愛した妻の絵ではと話題になったが、顔立ちが違うことが謎となった。
晩年は家族とも離れて暮らしていたことから、妻ではないかもしれないとも。
独り寂しい晩年であったという。
クライスは最期に家族に会いたいと、会いに来て欲しいと手紙を書こうとしていたと、使用人の話にある。
けれど宛先も書けず……――。
遺された絵の中には――数枚、黒髪の少女と金髪の少女が、ともに描かれていたという。
まるで姉妹のような、同じ顔立ちの少女たちが。
目が覚めるときは何がきっかけかもわからないもので。一瞬で覚めるときもあれば、まさに水をぶっかけられて――冷める、という字がふさわしいときも、あるのではないでしょうか。




