30 幼き日の黄金の。7
マリエッタがホンス家に入り、三ヶ月ほど経った。
さすがに新婚の蜜月も終わりにして良い頃合いだろう。むしろ長かったのでは。
そうして、クライスもマリエッタも、親たちから執務や家政を引き継ぐ準備に入ったのだ。かつてのクリストフやジョアンナがそうしていたように。
……が。
そのうちマリエッタは与えられた己の部屋から出てこなくなった。
曰く。
ジョアンナが、義母が厳しすぎる、と。
「意地悪だわ。いじめられているのだわ。私、お義母さまに嫌われているのね……」
「マリィ、母はそんなひとでは……」
「だって……もしかしたら私が、男爵家の娘なのが気に入らなかったのかしら……」
クライスはそんなまさかと思いたかったが、愛しい……愛おしすぎるマリエッタが金の髪と同じ睫毛をふるわせて、あまりにも涙を流すことも嘘だとは思えなくなって。
そういえば母は伯爵家より嫁いできた。もともとができるひとだった。学園で優秀だった、素敵だったと父もいつも話題にする。
だから侯爵家出の祖母とも気があったのだろう。
――もともと、が。
「マリィを虐めないでください」
だからクライスは――母を逆に責めた。
できないことを無理にやらせるのは虐めだ。
もともと身分の差があるのだからマリエッタができないことがあるのは当たり前だ。
きっと男爵家出の妻の身分が低いことを気に入らないのでしょう、と。
母をそんなひとだとは思わなかった。見損なった、と……。
マリエッタが優秀だという話だから妻と迎えたということは、クライスの中から抜けていた。
当たり前と彼とマリエッタが決めつける差など、はじめから彼女は乗り越えなければならないものだ。
ジョアンナも改めて義母に習ったことでもあり。マリエッタもこの時に一からジョアンナに教わるべきであった。
男爵家の娘が、高位の仕来りを覚えられる機会を。喉から手が出るほど欲しがるものはいるというのに。
だから優秀であったという話の娘が根を上げるほど、酷いことをしているのかと……逆に義母ジョアンナは悩むことになった。
そして、マリエッタが優秀であった――ということにも、からくりがあったのだ。
ロレインだ。
マリエッタを溺愛しすぎている、姉。
彼女の存在が。
マリエッタは実技や本番は、緊張やあがってしまうからかふるわないという評価だった。
けれども提出物は常に素晴らしい。
その差し引きが成績の評価にも。
それは妹が頼むと何でも手助けをしてしまう――姉がいたからだ。
数学や書き取りの宿題も。
詩作も。刺繍も。編み物さえも。
提出物のほとんどを。
たしかに多少はマリエッタが自分から手を入れていた、かもしれない。
刺繍の仕上げに数針、肝心なところに差し色を入れたり。
詩の表現に「花を題材にしてみようかしら」と思いつきだけしたり。
そして提出物の名前を、忘れずに、しっかりと書いたり。
ロレインが本当に優秀であったことが、誰もが予想できなかった――今の状況を生んだ。
彼女は妹の課題を、自分の課題の片手間にやれてしまうほどに優秀だった。女学院の課題が、淑女な教育がメインで。提出物もそうした刺繍などのものが多くあったことも。
姉が妹の課題を教えていると、家族たちはそう微笑ましく、時に構い過ぎではと苦笑し――まさかほとんどやってしまっているとは、本当に、まさか、だったのだ。
マリエッタの本当の実力が明らかになるのは、そんなに遅くはなかった。
かねてからの頼みとおり、マリエッタが読み上げたことにより何度も間違いがおき。
大事な取り引き先との約束の時間に遅れたり。卸す品を間違えてしまったり。
さすがに、話が違う。前評判はどういうことだろうか。
誰もが疑問に思い始めた。
あまりにも酷いことにホンス家はマリエッタとの婚姻は無かったことにした方が――と、悩まなくもなかったのだが、クライスは憐れなほどにマリエッタの肩をもった。
もうマリエッタは側にいてくれるだけで良いから、と。
――己のハンデは棚に上げ。
そう、マリエッタが協力してくれる前提の婚姻であったのに。
そして母を逆に責め、気鬱にするほどに。
やがてクライスも執務をしなくなった。
マリエッタを護ること――構うことこそ、第一にあるというように。
連日、虐められて可哀そうな妻の気晴らしに、観劇だ買い物だと出歩くようになった。
かつては優秀であった自分なら、しばらく遊んでも大丈夫だと油断があった。
聴き取るだけで理解していたことは、ある意味、幼い頃よりの修練であったのに。
――人間は堕ちることは簡単だ。
あっという間にクライスの能力は衰えた。ハンデはあろうとも、後継ぎとなるだけの才覚があるとされていたことが。
もしもこの頃にきちんと調べていたら。
ロレインとマリエッタの関係を。
その間違った溺愛を。
この時に、知ることができていたら。正せていたら。
けれども。
マリエッタが早々に身籠ったこともある。
そうなると彼女に仕事や家政を仕込むことは無理になり。
――離縁もできず。
やがてクライスや――ホンス家本流な黒い髪の女の子が産まれた。
プリシラと名付けられた娘はとても愛らしかった。女顔とからかわれた祖父クリストフと美人のマリエッタの良いところを受け継いで。
クライスもマリエッタも初めての子として可愛がっていた。
すぐさま次の子を身籠ったことにより、つわりなどで体調を崩したマリエッタのかわりにプリシラの面倒は祖父母が。
かつてクライスたち三兄弟もそのように、今は亡き祖父母に育てられたものだ。
そしてマリエッタ譲りの蜂蜜を練り込んだような見事な黄金色の子が――リリアラが産まれた。
「ああ……マリィ、マリィ……ありがとう、ありがとう……!」
「クライス……嬉しいわ。そんなに喜んでくれて」
「ああ、こんなにも美しい……」
母子ともに健康であることは喜ばしく。
そしてクライスの喜びは初子以上に。
――顔つきはどちらも同じなのに。愛らしいのに。
やがて、妻と同じ色の下の子ばかりを可愛がる歪みが産まれた。
クライスの金色狂いに家族が頭を抱えて、もはや治しようがないと諦めを感じた頃。
プリシラが物覚えよく、賢いことに誰もが気が付いて。
確認のように試しに絵本を読ませてみたら……きちんと文字が読める。書き取りや計算も、問題なく。
むしろ彼女は本が好きと、祖父母が忙しいときは静かに、大人たちの邪魔にならぬよう気配りもしてしまう。
さみしくならないように、使用人たちも気を使って。当時はまだ見習いだった料理人は菓子を差し入れたり、仕込みの合間に運動かわりに庭で遊んだり。書士も自分の仕事の合間にプリシラがまだ読めないと眉を寄せる難しい文字を教えてあげたり。
そうしてプリシラは、両親が妹ばかりを可愛がることはあまり気にしないで育っていた。
その間に、後の領主として――ホンス家の後継ぎとしての心構えを。自分を大事にしてくれた使用人たちはほとんどがホンス家の領地出身だったこともあり。プリシラはよりいっそう、ホンス家を、領地を、大切に思う心を育てていった。
ホンス伯爵であるクリストフが、次の伯爵は孫のプリシラであると、早々に決意した。ホンス家の領地や領民の為にも。
――その、手続きを。
マリエッタははじめこそ、どちらも腹を痛めた子だから、プリシラも可愛がっていた。乳もちゃんと。つわりに苦しみながらも。
顔立ちもまた、自分に似ていて愛おしい。
けれども。
彼女は、だんだんとプリシラをわからなくなってしまったのだ。
「姉は妹を可愛がるもの」
「姉は妹を優先するもの」
「姉は妹を……――」
その擦り込みがあることを――その歪みに。早く、もっと早く気が付けていたら。
「あ゛ー…」てなってもらえました?
まだまだァ!な方はまたお付き合いを。
15話からの仕込みをようやく。姉妹格差の一味違うのをご賞味いただきたい、と思いましてな…。
……。
優しい虐待、書いててちょっとしんどい。




