22 そして歯車は正しい位置に。4
「ふふ……ふ、ふふふ……」
乾いた笑みが出るのはどうしてだろう。けれど涙は出ない。それもまたどうしてだろう。
リリアラはそんな自分が不思議だった。
彼女はせめて冷たい空気が吸いたいと、バルコニーの一つに出てきたところだった。
そんな笑みを浮かべる女に関わるのは怖いと思ったのかバルコニーに向かう道もそれとなく遠巻きになった。一人になるといつもの夜会なら不埒な男――リリアラの噂の悪いところを真に受けた――に襲われそうだが。いや、さすが王宮なのか。しっかりとした警護が目を光らせてくれているのだろう。
端のバルコニーは人気がないだろうとリリアラが考えた通りで。それでも警護の騎士たちがきちんと巡回してくれていた。
ほっとする。
だからこそ、笑いが浮かぶ。
そう――だからこそ、そんな自分に、まさか話しかけるひとがいるとは思いもしていなかったから。
「――リリアラ」
それは五年以上、聞いていなかった、声。
「お……ねえ、さま……」
それは姉の声。
「久しぶりね。ひとりでは不用心よ?」
「あ……」
今をひとり、静かにしていられたのも、人払いを姉がしてくれていたのだと理解した。バルコニーの端、声が聞こえない位置に騎士の姿を見て、相変わらずそつがない姉だと。自分だけであれば巡回の騎士がいたとしてもまた変な輩に声をかけられていたかもしれない。この暗がりを使われ、また不名誉な目にあったかもしれない。
こんなしっかりとした姉を出し抜けたあの一夜は本当に運が良かった――いや、悪かった。
あの一夜がなければ、自分は今頃。
家格は低くなろうとも、この既製品のドレスなどではなく、自分の好みを一から取り入れた赤いドレスを着ていたのだと思うと。
すべて、身から出た錆。
「……お姉さま、お久しぶりです」
「ええ、五年ぶりになるかしら?」
かつては自分が何よりも勝っていると自信満々だったのだけれど。
今は明らかに違う。
片や既製品のドレスをまとう伯爵の妹。
そして今や大公家の跡取りの母である姉の――。
そう、どうして?
アンドリューは……――。
「アンドリューさまと、結婚、したの?」
――結婚。
自分から問うのに、リリアラはその一瞬をものすごく重たく感じた。
「ええ」
しかし、姉は、あっさりとうなずいて。
「お、お姉さまは、アンドリューさまは、エルブライト大公家の……?」
「跡取りよ? 現状を正しくいうのならば、正統な血筋に戻すための跡取りの父親と母親……かしら」
それは血統、間違いなく。正しく。
「アンドリューさまのお祖母様がエルブライト大公家の姫であったのだから」
「お祖母様、が……」
現エルブライト大公とフェアスト公爵家に嫁いだアンドリューの祖母が仲の良い双子の兄妹であったことは、貴族ならば知っていなければならないくらいだ。それもまたリリアラの不勉強の証。
エルブライト大公が御子を事故で失ったあと――ならば半身であった妹の血筋に跡取りを任せることになさったことも、また。
「そんな……大公家の跡取りだった? ずっと前から……?」
「そうね、私と出会ったあと……十の頃からそのお話しはあったわ」
「そんな、前から……」
知らなかった。
その地位を捨ててまで、アンドリューが姉を選んでいたことも。
ならばリリアラがホンス伯爵位をチラつかせても、頷くはずがない。いや、そもそも彼にはフェアスト公爵家の子息という地位もあった。祖父同士に縁がなければ、お近付きにもなれるはずがなかったのだ。
伯爵位とはいえホンス家程度の小さな領を彼が選んだのは。
アンドリューがホンス伯爵家の跡取りであったプリシラを愛したからこそ。
そもそもが、前提が、また間違えていたのだ。
もしや、リリアラが家を、ホンス伯爵位を継がなければ、アンドリューはリリアラを連れて行ってくれると言ったあれは、リリアラもエルブライト大公家に連れて行ってくれるということだったのかと……。
――いや、それはない。
さすがのリリアラもそこまで甘くは考えられない。
そもそもリリアラとは、跡取りが作れないからアンドリューは離縁を――。
そう、そもそも。
「アンドリューさまは……どうして? どうしてお姉さまと結婚できたの?」
「どうして?」
ああ、とすぐにプリシラはその問いかけの内容を察した。
結婚とは――すなわち、貴族の婚姻とは、血を繋ぐことこそ大事にされる。
だからこそ、かつて曽祖父たちは王家にあの薬を申請すらした。
そして、アンドリューこそその薬のせいで不能になったのでは?
プリシラはため息を一つついてから。
思えば、この妹のおかげで随分と遠回りをしたものだ。
「それは、アンドリューさまは貴方との婚姻中も、ずっとカウンセリングに通ってくれていたから」
「……え?」
「アンドリューさまの原因は、心因性のものが強かったわ。だからカウンセリングや薬などの治療が可能だったの」
「あ……」
そうだ。そう説明されていた。
リリアラでは勃たないなどと。
そんな、直接な意味で。
「だから私もカウンセリングに一緒に通ったし、念のため私も色々と検査など、受けたわ」
リリアラが、嫌がった、それを。
姉は、屈辱も何もかも、アンドリューと共に。
姉もまた、耐えたのだ。
そんな支えてくれるプリシラのために、またアンドリューも。
「だからアンドリューさまは頑張ってくれたの。薬は、あの夜をまた思い出して随分と忌避感が強くて、本当に可哀想なくらい頑張ってくださって……」
――すべては。
「私との、結婚のために」
――だから結婚は君としただろう。
「アンドリューさまは誰よりも私を愛してくれている」
それは揺るぎなく。
彼は一度たりともプリシラ以外を愛したことはない。
「だから、本当に愛する私と結婚したかったからって」
だから。だから。だから。
「色々、頑張ってくれたの」
それはもう、色々と。色々と。
このために念のためR15扱い。そして題名。
そしてこの日のためにあえて頑張って影を薄くしておりました、姉のプリシラ嬢です。
満を持して!
「姉、いま何してるん?」
と、少しでも疑問に思ってくださった方がいらしたら計算通りな笑みを浮かべられます。むしろ疑問に思ってくださった方がいたら、貴方様の為にこの小説はございます。ありがとうございます。
頑張って存在を薄く。しかし作中下にて動いて、生きて――活きていました。
すべてはこの日のために。ざまぁのために。
……あんな家族に囲まれてたら、そら結構腹の据わった性格にもなるよね、と。




