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湖緒音高校の生徒会室では、夏休み中の各部の遠征などの処理が大詰めを迎えている。
ひとり椅子に縛りつけられて、ひと目でわかるたんこぶを作った男子生徒がいるが、これはもうやむを得ない仕儀であろう。
生徒会長をストリップさせようとした報いであったが、「会長の美しいスタイルをどうしてもひと目見たかったんですぅ」と、涙ながらに言われて罰が軽くなるあたり、だいぶ燕はちょろいようである。
とりあえず今は書類処理。
みな黙々と処理している。霞が関の省庁に深夜行くと、たいてい特定の部署だけが昼間と同じスピードで仕事しているものだが、それに近かった。いつもの生徒会室と違って、一定量の緊張だけが支配するソリッドな感じ。
「かいちょー、こっちの書類もお願い」
眼鏡をかけた利発そうな女子である。本来は監査なので基本は書類仕事をしないのだが、燕のお目付け役に収まって以降は、他の役員と同様に生徒会の仕事をしているのだ。
「うむ。そこに置いておいてくれ」
「あとこれ、各部の来年度予算案。見ておいてね。夏休み終わりで手入れるけど」
びくっとして手を止める燕である。
しかし、それはほとんど一瞬だったので、監査女子は気づかなかった。むしろいつもと違う平静な燕に、彼女は少し小首を傾げるほどである。
実際には、燕は全力で口を開けないようにしていたのだが。
「いや~しかし、かいちょーがこんなに仕事してくれるなんて明日は雨かなぁ」
監査女子は伸びをして、冷やかし半分で軽く笑った。
燕はそれに応えて肩をすくめる。予算表を手に取って、自嘲気味に応える。
「ふっ。来年の話をすると鬼が笑うとは、よく言ったものだな」
「は?」
「いやいや、こっちの話だ。気にするな」
肩をすくめる燕。
そのまま背もたれに身体を預け、ふっと窓の外を見やる。
「雨ですめばいいがな……」
遠い眼で呟いた燕を見て、はぁ?という顔になる監査女子だったが、「やはりいつもの会長だ。ただし嵐の前の静けさVer.」と結論づけて仕事に戻る。さすがの燕ソムリエ、ほぼ正解。ただ今回は中二病ではないだけ。
燕も仕事に戻る。
いずれ日常が続くうちは日常が続くのだから。
☆
「柚子乃葉」の調理場は店舗の奥側になる。
東南向きだが、採光を抑えるように窓は小さいものしかない。食料品の保存や加工にとっては、直射日光は第一に避けるべきものだからだ。
かまどと大なべが並ぶ暗めの調理場では、店主の依田が熱気がこもる中、もくもくとあんこを練っていた。依田の歳は確かもう七十の声をきくはずだったが、細い身体全体を使って粘性の高いあんこを練る姿は見るからに力強かった。
雫がそばで白玉粉を少量、じっくりと練っていた。大福の生地などに混ぜるとなめらかで固くならないのである。もちろん白玉粉が丁寧に練られていないと意味がない。これは、化学の授業で習った「ゲル」、アミロペクチンの働きが保護されるということなのだが――「柚子乃葉」の湖緒音大福には必須のブレンド、今日はいよいよその配合の割合を教えてもらう日であった。
依田が、軽く雫の肩を叩く。
彼はそれほど口数が多くないものの、表情は多彩である。無口な職人というと、「頑固」を直截に連想するものだが、雫は彼の意図するところを苦も無く理解した。そもそも依田は気遣いの人であった。
雫が顔を上げると、依田があんこをかき混ぜる大きめのしゃもじを鍋に入れたまま、軽くあごをしゃくった。
「え? いいんですか?」
雫は驚いている。
あんこを練ってみろ、と言っているのだ。
「早く」
久しぶりに依田の肉声を聞いた気がする。
「は、はい」
雫は依田からしゃもじを受け取る。下練りはしたことがあるが、本練りは初めてだ。加熱を続けるあんこは次々にふつふつと沸騰し始める。
「急いで」
「はい!」
明日をもしれない状況だというのに、雫は初めての本練りに気おくれして、ドキドキして、なんだかとても嬉しかった。
丁寧に鍋の底をさらってかき混ぜる。あんこは腕にはね続け、腕のカバー越しでも熱い。時には顔にまではねてくる。
「回さない。縦に練って」
「はい!」
かけっぱなしのラジオから流れていた好きな歌も聞こえなくなった。
眼の前のあんこがすべて!
和菓子のために勉強してきた。
まずは粉。
米を水洗いし水につけた後蒸して乾燥させ、荒く砕いたものが道明寺粉。
もち米を水洗いし水に漬けた後挽いて乾燥させたもので、白玉粉よりも粗い粉が求肥粉。
うるち米を製粉して上新粉より細かいものが薯蕷粉。
その他色々。本当に色々。
でも、そこが始まり。
和菓子と言えば「練り切り」。
それはひとつのビジョンを提示しないといけない。
意図を感じさせながら、完結させないといけない。
ひとつの世界を見せるものなのだ。
美しいデザインを成立させるためにはセンスが必要だった。そして、それには教養が必要。
古典を読んで規範を学び、造形の美しさを学び、生け花も学んだ。
色と構成とその作り方。
ひたすらインプットしているうちに少しずつ分かるようになった。
そして何より、そこに至るために、全てのもとになる餡。
赤、白、うぐいす、ずんだ、小倉、それぞれ餡で作り方と使い方が違う。
舌の感覚は飛びぬけて鋭敏だ。細い髪の毛ひと筋でも口の中に入ればわかる。
「舌触り」という言葉は、文字通りの意味を持つ。
白あんの火取り(水分を抜くこと)がわずか足らないだけで、山芋のブレンド量をわずか間違えるだけで、美しいグラデーションのすじを作っている色粉の甘さがわずかずれるだけで、和菓子はだいなしになる、本当に繊細なお菓子。
それらのおおもとを練るところまで来た。
赤あんを練りながら、雫はとても幸せだった。
――依田の細君が、調理場に付随する三畳間に「あらあら」と小声で言いながら座った。依田はニッコリ笑ってその脇に座る。ふたりは一心で全力であんこを練っている雫の姿を、楽しそうに見つめた。
ひとしきり、雫とあんこと格闘が終わったところである。
雫が座ったふたりを前に頭を下げていた。
「ごめんなさい、店長、おかみさん。お休みをいただけませんか」
「あらそう? 珍しいわねえ」
「ごめんなさい。もしかしたら、少し長い休みになるかもしれません」
「いいのよいいのよ。いつも雫ちゃんには頑張ってもらってるからね。ねえあなた」
細君に話を振られた依田は、あんこの仕上げをしながら軽く頷いた。
細君は悪戯っぽく笑って雫に向き直る。
全体、穏やかな、おっとりとした雰囲気である。
依田がもともと穏やかな人柄だったのではなく、むしろ彼は細君によって長い時間をかけて感化されたのだろう、と思わせる。
「もしかしてお友達とあれの見物でも行くのかしら? ほら、あれ。なんていったかしらね、あなた」
「……ラーフラ……?」
「そうそれ。きれいらしいじゃない」
この国では時折、ひどくかわいらしい老婦人がいるものだが、依田の細君はまさにそのひとりである。
「あはは。そんなところです」
雫が困ったように笑って、少し言いよどんだが、ためらった分だけ思い切ったように口角を上げた。
「あの、おかみさん……」
「ん? なあに?」
「……えーっと、その、…………ご主人と仲良くしてくださいね」
少し泣き笑いのような顔になる雫。
恐らく、雫が何かを言わないようにしているのを察した細君、そしていつもと違う様子に顔を上げた依田は、眼を細めて雫を見た。
ひとつのことを長い時間をかけて仕上げてきた人間は、大きく透徹した眼を持つものだ。
老夫婦もまたそうだった。
依田は眼尻にしわを寄せて、何でもないように静かに頷く。
細君は、何も聞かずに、雫の肩を抱くように軽くさすった。
「もちろんですよ」
このふたりはきっと、ラーフラが本来のラーフラであると知っても、その日もまた和菓子を作るのだろう、と雫は思う。
☆
薬師幼稚園の園庭では、十二神将が今日もマーチングバンドの練習に勤しんでいる。
次に披露する演目を通しでやり切って、全員がひと息つく。
見事な演奏と動きだったが、互いに修正事項を確認し合っている、恐るべき幼児たちである。
アユイが彼女らを見渡して、満足そうな顔で声をかける。
「十二神将の同胞たちよ」
リーダー・宮毘羅のあらたまった声音に全員が振り向く。
「思えば、突然転入してきた私を快く迎えてくれたな、君たちは」
「?」
「この宮毘羅、心から感謝している。君たちはきっと、この先何があっても強く生きていける。人に希望を与えることができる」
全員がきょとんと聞いていたが、次の瞬間には全員が不敵な笑いを浮かべる。
「何を急に言い出すかと思えば宮毘羅よ……」
因達羅である。必要以上に眉根をしかめている。
「衆生に希望を与えるは我等が務めよ」
あとを引き取ったのは真達羅である。
肩をすくめて、ふ、と笑うアユイである。
「そうであったな。私としたことが……」
そして、全員がにやり、と不敵な笑いを浮かべる。
☆
湖緒音セフレマートでは、次の日曜の演し物のランスルーをしていた。
幕を張っているのだが、全体を覆うようなものではないので、脇から子供たちがのぞいている。「秘密のステージ」なので、子供たちはいつも以上にワクワクした眼で見ている。
ステージ上では若葉が怪人に囚われていた。
お姉さんも最近では戦闘員くらいは投げ飛ばせるくらいに成長している設定だったが、怪人では相手が悪い。羽交い絞めにされて首を振っている。
「助けてっ! コーネイ……」
叫ぶのを唐突にやめて動かなくなる若葉である。
怪人も心なしか訝し気にのぞき込む。中の本郷が小さい声で呼びかける。
「おい。どうした若葉ちゃん?」
「……助けを求めれば、それでいいんスか?」
「は?」
怒りとも苛立ちともつかぬ感情で、若葉の身体が震え始めた。
「若葉ちゃん?」
「いつもコーネイザーが助けてくれるんスかっ!?」
若葉はバッと顔を上げ、羽交い絞めを振りほどいた。
「お、おい?」
「自ら戦おうとしない者を、いったい誰が助けるんスかっ!?」
ステージの上で仁王立ちして、若葉は握りこぶしを掲げ、決意の叫びを上げる。
「自ら戦う意思をもったなら、誰もがヒーローなんスよっ!」
なんだかよくわからないままに、のぞいていた子供たちから喝采が。
☆
密度の濃い練習が終わった後も、女子高生は元気である。
更衣室は直近に迫った大会でのライバルの情報と、演技が組み合うパートごとの細かい修正でいっぱいだった。
「だからそこ、五歩で右だとあたしが回り込むから、四歩で左」
「バランスが崩れるでしょ?」
「着地の次の一歩を大きく出せばいいんだよ。バトンを投げるときに少し左に投げると自動的に左で大きくなるよ」
「そか。じゃあさ、中盤のスターライトシークエンスなんだけど……」
だいたいこんな感じ。
着替え途中で半裸のまま、身振り手振りでいかにキレイにスイッチするかを熱心に話し合っている。
神谷コーチの振り付けは、そもそも全国で上位を勝ち抜くもので、難易度もそれに応じて相当に高い。本人たちには自覚はないだろうが、すでに湖緒音高校バトン部は全国レベルと言っていいレベルに達している。
「身体で覚える」とひと言で言うが、実際には身体に染みこませるための相当量の反復練習と、関節の可動範囲を意識下においてまで理解することが必要である。でなければ、応用が瞬時に必要になる自由度の高い演技で役に立たないのだ。
鍛え続けているバレリーナなどは、プライベートで気を抜いていると、「足首をひねってねん挫したのに気づかない」ということがままあるのだが、末端まで意識を通して作る「美しい姿」というものは、それほどの修練が必要な別格のステージなのである。
湖緒音高校のバトン部の面々は、持ち前の素直さとモチベーションの高さで神谷コーチについてきた結果、その別格のステージにほど近いところまできているのだった。
ノアが部室のカレンダーの今日のところにマジックでバツをつけている。七日後の日曜に花丸がついていて、「大会当日!」と書かれている。
「あと七日だね」
ノアがハクとアムを振り返った。周りの子たちも振り返る。
「うおおお……やばいやばいヤバイ……」
いつもと違って狼狽えているハク。それを呆れて見ているアムである。
「珍しいわね。ハクがそこまでキョどるのって」
「なんでよ。ああああたし、ほんとはすっごい緊張しいだよ。そんなカウントダウンされたらもう……」
「そうだったの? ごめんごめん。面白いからもっとやるね」
ノアが笑った。
「なんてことを。あああぁぁぁ……」
頭を抱えてうずくまるハクである。
そこに部室をノックする音がした。
「私だー」
「コーチ?」
口々に言って副部長の有田がドアを開ける。
「なんだ橘。プリンセスタイムか?」
ハクより先にアムがたしなめる。
「ちょっ、コーチ! そーゆーのやめてくださいっ!」
「なんか緊張に押しつぶされそうなんだそうです」
ノアがフォロー。
「あぁ? んなもん知るか。死ぬほど練習して練習通りやりゃいいだろ」
「そりゃそうなんですけどぉ~」
ハクが情けなさそうな顔を上げる。
神谷はノアからマジックを受け取り、大会の二日前に丸をつけ、バトン部の一同を見渡した。
「悪いが、この日用があって私休むわ」
いっせいにブーイングが上がった。まあ追い込みなので当然だが。
ちょっと複雑そうな顔をするハクとアム。
「うるせーな。学校に話つけて体育館開放してもらったから、みっちり自主練しろ。責任者は本宮。頼むぞ。メニューは出しておく」
そのまま出ていくかと思いきや、神谷は少し口ごもった。
もう一度、皆の顔を見渡す。
「いいか。絶対大会本番は来るからな。練習しろ。体で覚えろ。努力すれば成功するとは限らないが、成功した奴はみんな努力している」
「それ『はじめの一歩』……」
ぼそっとつっこむハク。
どうやら神谷は燕から借りたらしい。
☆
たちばなの一室、例の幼女部屋では、アユイを除く全員がテーブルを囲んでいた。
少し離れてぽつねんと正座しているポチ。
テーブルの上には色とりどりのケーキが並んでいて、幼女が六方を囲んでいる。「ケーキ会」である。
「あ、これおいしー」
マナがフルーツを積み上げたシャルロットを食べている。
「うむ。甘すぎず適度にとろける舌触り。いい仕事をしている」
トウマはガナッシュクリームケーキ。色はあっているが、見た目にはやはりそぐわない感じ。
「うまっ! なあこれも食べていい?」
キリが紅玉のシブーストをふた口で食べ、フォークでみかんといちごのクラフティ―を刺そうとして、横からメイがさらった。
「待ちなさい。それは私が目をつけていました」
「ああっ!」
「うん、おいしいです」
「メイ、きさまあ~」
「いいんですか、キリ、なくなりますよ」
「ぬおっ、しまった」
キリはふたたびラズベリークリームのミルフィーユに突進する。
牧歌的であり、同時に殲滅戦の様相を呈しているケーキ戦であった。
もくもくとキャラメリーゼしたくるみのタルトレットを食べているのはカノン。知らぬうちに次々と平らげ、ただいま三個目である。
「ま、ほくろうたったな、ポチ」
ニューヨーク・チーズケーキをひと口でほおばりながら、尊大に言うヤミである。
「朝六時から並んで買ったんだぞ」
ちょっと涙目のポチ。
「うむ。早起きで感心だな」
次のケーキに狙いを定めていて、聞いていないヤミ。
パーティ用と思われる箱に入ったケーキは、ポチが手を出す間もなく片付いた。幼女と言えど女子なのである。
デザートと言うには食いでのあるケーキを平らげ、でれんと幼女たちが食休みをしていると、テレビからはワイドショーの特集が流れ始めた。




