3
ハクとアムとノア。
いつもの別れ道である。
ハクは坂を上がっていき、アムは住宅街方面、ノアは斜め左側のこれまた新興住宅街方面。
「じゃ、明日ね~」
「はいよ、またね」
ノアはひらひらと軽く手を振って坂を下りていく。
ハクはそれをちょっと見送って、坂を上がろうとした。
「あのさ……さっきの、やっぱりポチくんだよね?」
言いにくそうにアムが声をかけた。
いつもと同じに帰ろうとしていたハクが、ある程度予想していたように立ち止まる。
「何のことやらさっぱりさっぱり。さっぱり妖精」
「……何それ?」
「知らない? 昔のマンガだけど。ポチのお母さんってマンガオタクでさ、昔っからよく見せてもらってたんだあ~」
「へ~……て、そっちじゃなくて! その、いいの? あの、アレが来てるんでしょ?」
「アレ? アレってなに? 老夫婦じゃないんだからわからないでしょアム」
「んー! だから、その、あの、……ょぅ……」
「あぁ? 聞こえませんな?」
「だから! ……たぃょぅ……」
「ほえ? なになになになんのこと?」
「だから大妖よ! わかってんのにっ!」
「うっわ出た! 中二ワード! アムさんもそっちの仲間入り! 恥ずかしくない?」
「ホント性格悪いわねっアンタはっ!」
「良識があるだけですぅ~。大体さ」
言いかけたハクの声を爆発音が遮った。
ハクとアムが思わずその方向を見る。
山の一画が吹き飛んで宙に浮いていた。空中で小さな塊になって、ざぁっ!という音ともに裏山全域にまき散らされる。
先ほどまでのじゃれ合いのようなイントネーションではなく、ハクが静かに遠い眼をして呟いた。
「……わかるでしょアム。少しぐらい現実逃避させてよ……」
「うん、なんてゆーか、ごめん」
見ると、ふたりとも眼の幅の滂沱な涙を流している。
「……どーしてこうなるんかね」
「……温泉がいけないんだねきっと……」
「事件だぞっ! 橘っ! 朝川っ!」
突然、ふたりの意識の隙をついた、凛とした大声が上から降って来た。
ふたりが振り向くと、他人さまの家の塀の上に燕が仁王立ちしていた。
「日常に闇がっ! 闇が迫っているっ! 呪われし大妖の力を以て、世界を守るのだっ!」
扇子をばばっ!と翻し、山を指差す燕。湖緒音高校第五十二代生徒会長である。高らかに言い放った美貌の女生徒だったが、惜しむらくは口元がニヤニヤゆるんだままだ。
「さすが先輩! 頑張ってくださいっ! 私たち弱い庶民のためにっ!」
口調はハイテンションだったが、ハクは死んだような半眼である。
「いやもちろん橘もだろ! 特異点なんだから。なんで私だけなんだよっ?」
「え? 一人じゃ怖いんですかセンパイっ! まさかですよね!」
死んだ魚の半眼のハク。
「こここ、怖くなんかないさっ! ただほら、な、皆の力をひとつにするだろっこういう時はっ! 私たちヨリシローズじゃないかっ!」
ハイテンションで顔をてらてらと光らせて言い切る燕に、もはや完全な無表情になるハクとアムであった。
アムがかろうじて呟いた。
「センパイ、そこご迷惑だと思います」
☆
雑然と本や資料が積み上がっている。
見たことのない実験器具、何に使うか知れない奇妙に曲がりくねった道具、果ては中世ヨーロッパで使われていた拷問道具など、いずれにしろ誰もが生理的に拒絶するであろうモノで溢れている。
当然のように、その部屋の主には近づきたくないと誰もが思うような昏い部屋の奥、わずかな灯りをともした黒板にがりがりと数式を書きつける見るからに奇矯な老人がいた。
「むふぅっ! んふはぁっ! ふぬぬぬっ!」
変わり者が集まるここ大東京大学でも変わり者の最右翼と評判の理論数理学教授、泉円八である。
キィーっとチョークを引く音がして、最後、バンッと右手で黒板を叩いた。御年76歳だが、音からするとまだまだ矍鑠としているようだ。
「全知万能たる科学の前では、オカルトなど無意味なのじゃよっ……七妖めがっ!」
肩で息をしつつ陰鬱な声で呟いた泉に、若干機械的な印象を与える院生がひとり、激しく頷きながら万雷の拍手をした(個人の感想です)。
☆
ポチはというと、キリの巻き起こした土の塊に生きながら埋葬されていた。
「……いやもう、なんだろう、すごく、悲しくなって来たぞオレ」
ぶるぶるっと頭を振ったポチだったが、その拍子にぽかっと眼の前の土くれが落ちて、正面左側の梢にキリがいるのが見えて息をひそめる。
「ちっ! 逃げ足早いな空賢」
辺りを見回しながら、忌々しそうにキリが舌打ちした。
「おいおい、派手にやったもんだなあ、キリ」
ポチからは見えないが、声からするとヤミである。
ヤミはてけてけと呑気に歩いてきて、小首を傾げてキリを見上げた。脇には興味なさそうなメイと無邪気にワクワクしているマナがいる。
「何言ってんだよ。昔なら二、三百くらいすぐに撫で切りだったろうが」
「あぁ……懐かしいな」
眼を細めたヤミの脇に、キリが梢から軽快に飛び降りた。音もなく着地する。
「……そういえばヤミ、なんで空賢と一緒にいるんだ?」
「ヤミのダメな癖がまた出たんですよ」
メイが呆れたように応えた。
「ふーん? メイもか?」
「私はどうにも興ざめしちゃっただけです。扱いが宙ぶらりんになってしましましたしね。あの子、封縛できないんですよ」
「さすがに千年も経ってるとねえ、変わり過ぎてびっくりしちゃったよ」
応えたメイとマナ、そしてヤミを見やって、キリが眉根に皺を寄せて天を仰ぐ。
「……そーなんだけどさぁ、うーん、そうじゃなくってさぁ……」
キリがヤミに視線を据えて、少し強く言い切った。
「姫様のこと、忘れたのかよ……!」
一瞬にして固くなった空気の中、三人が三様にゆっくりとキリを振り返る。
泥まみれでポチは聞き耳を立てていた。
「姫」というのは、時々に出てくる、大妖の泣き所のようだ。察するところ彼女らの主君なのだろうが、誰かは判然としないので、彼女らの行く先が見えにくい。
「誰だよ姫……千年だろ? えーと」
ポチの日本史の成績は残念なものなので、手がかりがあったところでわかることはないのだろうが……彼女らの千年の忠義は、無念に裏打ちされた強固な信奉であることは想像できる。彼女らがそれに引きずられている間は、ポチがどうにかして封印する必要があるのに変わりはない。
「んー……あと一時間半か……うーん、死ぬなこれは。死ぬわマジで。死なない方法はどっかないもんかな」
……ポチに少しでも教養があれば、想像できたかもしれない。
大妖たちが互いに項垂れて言葉を亡くしているそのありさまは、かつて紀元前六世紀、西インドの夕暮れの荒野で、ふたりの男が互いに手渡す言葉もなく項垂れていた様子とよく似ていた。
男のひとりはシャカと呼ばれている。もうひとりの男は、シャカに歴史上たったひとりだけ反逆したと知られる彼の従兄、デーヴァダッタという。
ふたりともこれ以上もなく互いを理解していた。弟子や支援者や、そんなものはどうでもよかった。互いを知るのは恐らくたったひとり、周囲から敵とされているその人だけだったのだ。
ただ、決定的に「そこ」に至る方法が違っていて、袂を分かたざるを得なかったのだった。
言葉は意味を持たず、自分ではなくむしろ向かい合っている敵こそが「そこ」に至ってくれればいい、と祈りにほど近い想いを抱え、だからこそ何も言えることはない。
相対している互いにしかわからない、絶対値を同じくするその人にしかわからない想いを、我々は伝える術を持たない。
そして、同じように、とうにいなくなった「姫」を間に挟んで、キリとヤミたちは互いに想いを伝える言葉を持っていなかった。
けれど、時は来る。
不十分な言葉でも意志を伝えなければならない時は来る。
我々は黙ったまま行動できるほど、器用ではない。
ヤミが静かに口を開いた。
「忘れてなんかいないさ」
ぱっとキリが顔を明るくした。
「そっか、そおか、そうだよな! じゃあ、さっさと空賢を殺して」
「千年だ」
「えっ?」
「……忘れてないさ。でも千年経ってるんだ。忘れちゃいないが、時が経ち過ぎた。理想は泥土に埋もれてしまったよ、キリ」
「何を……」
「なにもかも終わってるんだ。姫はもういない。お前も姫の最期を見たはずだ。あの尊厳を踏みにじられる屈辱の中で」
「……ふざけんな……」
「終わったんだ。なにもかも。戦は終わったし、都も変わった。今はここが都だ。空賢も死んだ。あやつは空賢ではない」
「……」
瞬きもせずヤミを見つめるキリ。
「私たちも店じまいなんだよ、キリ」
キリはヤミを見つめたまま、素早く右手で円を描いた。
放たれた衝撃波でヤミの身体が大きく吹き飛び、木の幹に叩きつけられる。
「ヤミ~!」
マナが声を上げてヤミに走り寄る。
キリはそちらを見ないで、ゆっくりと歩きだした。メイの横を通り過ぎざまに、
「……ごめん、て言っといてくれ」
と呟く。
メイは視線を合わせないままにぽつりと呟いた。
「謝る必要はないと思いますよ。ヤミも分かってます」
「……うん」
ゆっくりとキリが通り過ぎていく。
その背にメイが思い直したように言葉をかけた。
「キリ、彼を殺すならお早めに。時を与えるとやっかいですよ」
斜に振り向いたキリに、わざとらしいため息と共に付け加える。
「空賢の意志は残ってますからね」
☆
泥にまみれているポチである。
「あいつら一体何の話を……」
キリがヤミを吹き飛ばしたように見えたが、混乱は起きない。
彼女は再度、梢に飛びあがった。
その反動をつけて、光輪を大きく振りかぶり力いっぱいぶん投げた。
光輪は眼で捉える間もなく、ポチの隠れている土塊の上を通って後ろにあった木々をえぐり倒した。
「えっ、おい、無差別?」
どうやらキリはやるせない怒りのままに、見える限りを総ざらえするつもりになったらしい。
ポチは首を出した。木々が自分に向かって倒れてくるのを見て、半身で飛び退った。
「待て待て! マジか? うわぁぁぁぁっ!」
木々が倒れたところ、先ほどまでポチがいたところに再度光輪が通り過ぎて、高音と共に生木を薪レベルまで分解、四方八方に吹き飛ぶ。
「ぎゃぁぁぁっ!」
いくつかの薪に当たって、ごろごろごろんとポチは吹き飛んだ。
梢ではない、空中に立っているキリ。
投げた勢いと同じスピードで戻った光輪を、右手で掴む。一瞬煙が立った。
「見つけた」
冷たい眼で逃げ出していくポチを見下ろし、十分な怒りをためた薄赤い瞳が光る。




