89話 生存者
村外れの湖へ感染者たちは連れて行かれた。意識のある者は歩かせ、ない者はぐるぐる巻きに拘束されて引きずられる。否応なしに水中へ沈められるのだから、何も知らない人の目には拷問に映るだろう。救うためとはいえ、精神的にも肉体的にも消耗する。
しかしながら、感染者の全員が亜人だったため、感染してからアンデッドになるまでの時間に余裕があった。
到着後、死者はまだ一名だけである。
感染者を湖に沈める仲間たちの横で、ユゼフは水を汲んだ。手伝わなくていい口実ができ、内心歓喜する。
湖の向こう岸では、なだらかな丘が続き、頂上に黒い城がそびえていた。壁面を塗装しているのか。色調は均一で、高い城壁に守られている。
城壁から飛び出す四本の塔。その一つにダモンは入って行った。ユゼフの気球が襲撃を受ける直前のことだ。
黒獅子たちも同じ城に帰った。獣はイアンが仕向けたのかもしれない。
──王の肉叢
黒獅子天子と名乗る魔人はそんなことを言っていた。エゼキエル王の僕とも。王というのが、イアンのことだとは思いたくなかった。
ダモンの足には文を結びつけてある。
王女を連れ去った理由と安否を教えてほしい。使者として、エリザという娘を送っても構わないか?……だいたいこんな内容だ。
イアンは文を見て何を思うだろう。
最後に言葉を交わしたのはいつだったか……学院へ通うようになってからは、一緒に遊ばなくなった。親戚の集まりで顔を合わせた時に二言、三言、言葉を交わす程度だ。
謀反人と後ろ指をさされ、命からがら危険な地に逃げこんだ心境を想像してみる。
時間の壁を越え、ここにたどり着くまでも、楽な道のりではなかったはずだ。
──話し合いは難しいかもしれない……
峻厳な黒い城から発せられる無言の圧力が、そう思わせた。
塔の所々に設えられた窓のどれかから、こちらを窺っているのだろう……イアンに会うのは少し怖かった。
ユゼフはたっぷり水の入った樽を転がして、村の中心へ向かった。
アンデッド退治をしているアスターのところへは、結局戻らなかった。
村の家屋は三百戸程度。昼過ぎには全部調べ終えた。
ケガ人は出ず、食料や水も確保したので上出来だ。休息をとるより、ユゼフは一人になりたかった。
カリカリの種なしパンをかじりながら、村内を散策する。
確認済みのしるし。どこの家の玄関にも、小麦の束が置かれてある。邪悪な気配は消え去った。
常に二人以上で行動しろと、一人で出歩くことをバルバソフは禁じていた。ユゼフも例外ではない。
いつも付いて来るラセルタとエリザには、食料探しを命じた。二人が家の中へ入った隙に逃げたのである。
風にそよぐ青い小麦畑は、ここが魔の国だということを忘れさせる。家々に雑多な食料があったということは、同じような村と交易をしていたのだろう。
不可解なのは亜人を誘拐して奴隷として売っていたアフラムが、国境近くのこの村に手を付けていなかったことだ。おそらく、事情があって入り込めなかった。
気球から見下ろしたところ、周囲を泥濘地が囲んでいた。ぬかるんだ地面が侵入者を妨げていたとも考えられるが、それだけだと弱い。他にも何か……やはり墜落の可能性があっても、気球を使ったのは正解だった。
ユゼフは目を閉じ、優しい風に身を任せた。
──よかった。ここの空気は汚れていない
小麦同士が擦れ合う音、少し離れた所で盗賊たちが騒ぐ音、小さな虫の羽音……他には何も……
違和感があり、ユゼフは目を開けた。
少々歩き過ぎている。村境まで来ていた。
大人二人分の高さの石塀が見えた。石塀は小麦畑に沿って、村全体を囲っている。
端に建てられた納屋から気配を感じた。近くの家より大きいということは、村内の食料を溜め込む倉庫かもしれない。足音を立てず、ユゼフは納屋の入口に近づいた。小麦の束は置かれていない。
──見落としたか?
ギギギギィー、扉は軋んだ音を立てる。獣の臭気が流れていった。
中をのぞくと、ガランとしていた。かなり広々としているから、以前は畜舎として使っていたのかもしれない。他の家屋と違い、換気のための窓が等間隔に並んでいた。
奥に積み重ねられた俵と樽数個。他は古びた家具や耕作道具があるだけだ。
ユゼフは一歩踏み出した。
「わぁぁぁぁ!」
突然、叫び声を上げ、扉の影から何者かが飛びかかってきた。
手に持った鍬を振り下ろしてくる。ユゼフはスルリと避け、懐に入り込んだ。驚いたが、相手の動きは鈍い。そのまま難なく押し倒した。
倒れた衝撃で鍬が手から離れ、地面に転がる。
──あれ?
雲をつかむみたいに手応えがない。ユゼフは馬乗りになり、相手の細い両腕を押さえ付けた。
顔全体を覆う黒い布に空けられた穴から、紫色の瞳がのぞいている。
──女?
「抵抗しないでくれ。敵ではない」
ユゼフが言うなり、女の体から力が抜けていった。
「……人間なの?」
かわいらしい声だ。可憐で、艶を帯びている。
ユゼフはうなずいた。
「私を連れ去ったりしない?」
「奴隷商人ではない。我々はイアン・ローズという者を探している」
「イアン様を知ってるの?」
女の瞳孔が開く。ユゼフは解放し、女は顔を覆っていた布をとった。
大きな紫色の目と同色の髪がなびいた。赤い唇は白磁の肌と完全に区別される。尖った耳はエルフの特徴だ。女ではなく娘。薄汚れていても、みずみずしく美しい。
戸口から差し込む弱い光が娘を照らすと、天からの使者に見えた。




