83話 エデン犬②(シーマ視点)
シーマは炎を出し、瞬く間に紙片を灰へと変えた。
両手を拘束されたカオルとウィレムが好奇心からか、そばまで近寄ってきている。
シーマは上衣の内側へ手を差し入れ、先ほど書いた文を出した。
「ここにいるカオル・ヴァレリアンは俺を欺き、最も重要な事柄を隠していた。その罪は重い。連帯責任だからな? だからウィレム、おまえにも試練を与えようと思う」
言葉とは反し、シーマはにこやかに伝えた。狼狽える愚鈍な脇役どもを高みの見物だ。カオルのせいで危地に立たされたウィレムは瞳に憎悪を宿し、カオルは震え上がった。不信、疑心、裏切り。
「なぜ、アダム・ローズが死んだか知りたいか?」
脇役どもは硬直したまま、答えられない。シーマは純粋な笑みを浮かべる。残酷な事実を教えるのは楽しい。
「体に重しを付けて、時間の壁を渡らせたのさ!」
カオルとウィレムの顔色が変わる様子を堪能し、シーマは話を続ける。
「壁を形作る時間の粒子が体内に入り込めば、急速に老化が進む……皆まで言わなくともわかるな? アダムは俺のかけた暗示の通り壁を越え、学匠シーバートに文を渡すと、老衰で息絶えたとさ」
カオルとウィレムの表情が喫驚六割から、戦慄十割に変わるまで、シーマは待った。それにしても、家来のジェフリーまで萎縮しているのはどういうことか? 馬鹿イアンの弟がどうなろうが、平然としていてほしいものだ。
──そんな弱メンタルじゃ、俺の家来は務まらんぞ?
ジェフリーに少々落胆しつつ、シーマは本題に入った。
「ユゼフへ宛てたこの文を、おまえたちのどちらかに託そうと思っていたが……」
シーマはしゃべりながらゆっくり歩き、壁の真ん前まで来た。黒い粒子はいくつもの円を描き、グルグル回り続けている。ずっと見ていると、吸い込まれそうになる。
「かわいい犬のおかげで、壁の向こうの状況もよくわかった……少しだけ機嫌も回復した。だから、おまえらに情けをかけてやってもいい」
壁の中へ腕を突っ込んでみたところ、粒子は即座に反応した。ザザザッと張り付き、たちまち真っ白な皮膚を黒く覆ってしまった。なんとも言えぬ感触だ。
──おぉっ! くすぐったい。ムズムズするな!
彼らは、シーマの中へ入り込もうとしているのかもしれなかった。ただ張り付くだけと思いきや、螺旋となり腕の周囲を上下に移動し始めたり、バチバチとぶつかり合って弾け飛んだりと、予測不能な動きをする。徐々に激しさを増し、皮膚が痛いくらいに引っ張られた。
──ヤバい! 引きずり込まれる!
なんとか腕を引き抜くも、シーマはバランスを崩し尻餅をついた。“怖い”より、おもしろい。ほどよいスリル感だった。
「これは楽しいな! ゾクゾクする! 手を強く引っ張られるまでは、なんとも形容しがたい感触だった。ジェフリー、おまえもやってみろよ!」
高揚するシーマに対し、ジェフリーは石のように動かなかった。乾いた唇は開かず、血の気を失った臆病者の顔をしている。シーマは興醒めした。
「はぁー、つまらない奴。ぺぺなら絶対やってくれるのに」
プライドを傷つけられたマジメ君は答えなかった。ぱらりと頬に落ちた黒髪を払おうともしない。ジェフリーがユゼフに無駄な対抗心を燃やしているのを、シーマは知っていた。私生児とはいえユゼフは名家の出で、サチと並ぶ秀才である。ジェフリーが羨んでいるのを知っていて、わざと煽ってやったのだ。
シーマはカオルとウィレムに向き直った。
「本題に戻ろう。持っているなら、グリンデル水晶を出せ。それで壁を渡るのをチャラにしてやる」
ウィレムは頭を振る。カオルはうつむいた。
「グリンデル水晶だよ、グリンデル水晶! この壁を渡るにはレンズ豆程度の大きさがあれば充分だろう。無知なおまえらは知らぬだろうが、グリンデル水晶があれば壁を安全に渡れるんだよ。マリクを壁の向こうへ遣わした時、往復分のグリンデル水晶を体に埋め込んでおいたのだが、今はもうない。この愛らしい犬を文の配達で老犬にはしたくないだろう? かわいそうだからな?」
マリクは舌を垂らし、エデン犬特有の丸まった尻尾をしきりに振っている。つぶらな瞳でシーマを見つめる姿はいじらしい。
「壁の向こうでは、何者かがディアナ様を連れ去ったそうだ。犯人はイアンに違いないだろう。でも、俺は大丈夫だと信じてる。大切なお姫様は、ユゼフが絶対に取り返してくれる。だからこそ、俺はユゼフに伝えなくてはならないのだ。ニーケ殿下が生きて、イアンと一緒にいるってことをな?」
せっかく情けをかけてやろうというのに、愚鈍な二人は黙っている。なんたることか……シーマは彼らが三流貴族ということを忘れていた。
「ないのか? 一つぐらいは持っていないのか?……ジェフリー、城なしの貴族は持っていないものなのか?」
ジェフリーも所持していなかったようで、微苦笑している。
──ないのなら、仕方ない。予定通りにことを運ぶまで
シーマは木の枝でカオルとウィレムを交互に指した。目を伏せる臆病者を生かしておいても、役には立たないだろう。恐怖の選び歌が始まる。
「ど、ち、ら、に、し、よ、お、か、神様、精霊様、ケルビム様、メシア様……赤豆、白豆、黄色豆、緑豆、杏、桃、ぐみ、林檎の実、今日は何をた、べ、よ、か……な」
ピタリ……木の枝が指したのは……
「よし、おまえに決めた! カオル・ヴァレリアン!」
シーマはカオルを指名した。じつは最初から決めていたのだ。一日観察した結果、ウィレムのほうがマシだったので、それだけのことだが。
連帯責任と言ったのは二人の関係に亀裂を入れるためだ。そうすればカオルが死んだあと、遺恨が残らない。あとは、アダムの時のように暗示をかける。
「安心しろ。グリンデルの国境付近は他国の警備より厚いが、ちゃんと王家の紋の入った通行証も用意してある」
次なるカオルの行動は泣き出すか、漏らすか。シーマはうつむく美男子がどんな表情をするか、期待して待った。しかし──
カオルは顔を上げ、キッとシーマをにらみ付けたのである。
「グリンデル水晶ならある」
「……え?」
シーマは驚いた。おびえて、子犬みたいにプルプル震えていた奴が反抗したのだ。やや緑がかった琥珀色の瞳から怯懦は消えている。凛とした態度にシーマは圧倒された。
黙っていれば、壁を安全に渡れたはずだ。ここで正直に告白したのはなぜか?
──たしか、こいつは貴族の家の養子だったか。国外に追い出されても、生活していく自信がないのかもしれん
シーマはカオル・ヴァレリアンを見くびっていたようだ。野垂れ死ぬか、老衰させられるか、生き延びるためにこいつは賭けに出たのだ。その男気には応えてやってもいい。一方で心理戦術も忘れない。生き残るなら、仲良しは解消してもらいたい。 怯んだことをごまかすのも半分、シーマは声をたてて笑った。
「こいつ、どこまでクズなんだか? 自分じゃなくて、ウィレムが選ばれていたら、見捨てるつもりで黙っていたんだな?」
この言葉にウィレムは青ざめたが、カオルは反抗的な態度を崩さなかった。美々しい瞳でシーマを捉え、
「ほら、上着のポケットの中に」
そう言って身をよじった。手は後ろに縛られているから、自分で取り出すことはできない。シーマがカオルの衣嚢を探ると、金の懐中時計が姿を現した。
蓋の上には大きなグリンデル水晶が嵌め込まれており、底には三つ首のイヌワシの紋が刻まれている。見るからに高価な物だ。
シーマは懐中時計を注意深く調べた。
「この家紋は王家の物では?……失礼だが、ヴァレリアン家と王家にどんな繋がりが?」
「これは養母が王女様の乳母をしていた時に賜った物だ」
「……へぇー。乳母が、これを?……養子のおまえにあげたのか?」
ギリギリまで隠し持っていた。大切な物には違いない。しかし、三流貴族の養子が持っているにしては、違和感がある。
ヒヤッと冷気が上衣の中に入り込み、シーマはくしゃみをしそうになった。星が瞬き始め、欠けた月が笑っている。すっかり、遅くなってしまった。よくわからぬモヤモヤは、あとで考察することにしよう。
「まあいい。日も暮れてきたし、約束通りマリクに行かせる」
シーマはマリクに餌を与えた。食事中に文と懐中時計の入った小袋を、首輪の後ろへくくりつける。愛くるしい見た目でも彼は戦士だ。通信に使われる有能な動物の多くがそうであるように、誇りを持っている。受けた仕事は必ずや完遂する。
マリクが餌を食べ終えると、シーマは顎と鼻を撫でてやり、
「いい子だ。文を持って、また元の所へ帰るんだ」
と、言い聞かせた。気持ち良さそうに目を細めるマリクを突き放すのは、心が痛む。甘い時間は短い。シーマはスッと身を引き「行け!」と命じた。
シーマの指に身を任せていたマリクは命令されるやいなや、パッと切り替えた。一寸も躊躇わず、壁の中へ飛び込んだのである。
壁を形作る黒い粒子は一斉に集まり、マリクは見えなくなった。それも一時。黒い粒子は柔らかい虹色の光に弾き飛ばされる。マリクは丸い光に包まれた。
──これがグリンデル水晶の力か
まばゆい光はマリクを包み、走るマリクと共に移動する。知ってはいても、見るのは初めてだ。シーマは未知なる神秘に見とれた。
残念ながら、数秒のうちに黒い粒子は大きな波となって、マリクの通った所へ覆い被さった。マリクと光は闇に呑み込まれ消えてしまう。あっという間の出来事であった。
──もっと見ていたかったが、残念
とりあえず、やることはやった。あとはユゼフがディアナを寄越してくれるのを待つだけだ。鷹揚に構えていても不安はある。景気づけにシーマは口笛を吹いた。失われた故郷の童歌。自分が自分であることを保つ大切な思い出の歌を。たしか歌詞は──
口笛を吹きつつ、シーマは頭のなかで歌う。
行かないでおくれ
と言っても行かねばならぬ
置いて行かないで
と言っても行かねばならぬ
愛しい人よ
枯れちゃった
赤んぼができた
父なし子じゃ
ジェフリー視点↓
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この後、カットしたアキラ視点↓↓
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