4話 おばさま
そのまま時間の壁に突っ込むほど、ミリヤは愚かではなかった。仕切り直す必要がある。
限られた時間で、情報を得なければならない。変装用のドレスがイザベラの実家にあったはずだ。
王都に戻るのは少々勇気がいった。シーマはミリヤを探し始め、クレマンティ邸にも手が及んでいるかもしれない。
譲渡された力のせいだろうか。頭が冴えていた。ディアナがさらわれたと聞いて、動転していたのが嘘のように落ち着いている。やるからには、確実にやり遂げたい。
天候もミリヤに味方してくれた。昼の晴天が打って変わって、夜は曇天だ。月光を遮る闇のカーテンに隠れ、ミリヤは飛行した。
クレマンティ邸の門に王城から派遣された兵士が見え、ミリヤは裏手へ旋回した。四階の天窓が壊れたままで修理していなかったはずだ。
ミリヤは屋根に降りた。
ポツッと水滴が頬に当たる。涙かと勘違いしそうになった。
──シーマのやつ、やっぱり手を回してやがったか
詰めが甘いのも、予想通り。
屋敷内にも兵士がいるかもしれないが、見つからずに移動できる自信がミリヤにはあった。
──わたしは戦士だよ? あんたの前じゃかわいい女だったけど、何にもわかっちゃいないんだから
くすっと笑いを漏らす。わかった気でいて、シーマはミリヤの一側面しか見ていなかった。恋人がアスターだったら、こうはいかなかっただろう。でも、それでいいと思った。
──マヌケちゃん、アスターに嫉妬しな。あんたは戦士じゃないんだからね?
ミリヤは天窓を外し、屋内に入った。
コトッ……立てた音はこれだけ。兵士の気配を感じ、息を止めた。ここで見つかると厄介だ。
兵士は部屋の前を通り過ぎ、階段を下りていった。気配が遠ざかるのを確認してから、ミリヤは部屋を出て、アンジェリーヌ夫人の寝室へ向かった。
移動には使用人用の階段を使う。狭くて急な階段を無音で、駆け下りた。夫人の部屋は角部屋だ。
隣の侍女部屋にミリヤは身を滑り込ませた。侍女のソニアはベッドで熟睡している。耳が悪い彼女は、まったく気づかなかった。ミリヤは女主人の部屋に繋がるドアをノックした。
「なに?」
夫人の眠そうな声が聞こえる。
「ミリヤです」
夫人が息を呑んでいる間に、ミリヤは室内へ潜り込んだ。
光の札を壁に張り、顔を見せる。アンジェリーヌ夫人は誤って声を出さぬよう、口を押さえた。黒水晶の目はたちまち、涙液で満たされる。
「ミリヤちゃん………どうして……」
「おばさま、言わなくても、わかってくれますよね。手を貸してください」
夫人は涙がこぼれるまえに拭い、首を縦に振った。
「地下の衣装室に変装用のドレスがあります。それと、イザベラのほうき、保存食を少し……魔法の札もください」
夫人は何度もうなずいたあと、ソニアを起こしに行った。老婆は鈴の音では起きられない。
「ここにいなさいね」
夫人は念を押すと、厚手の夜着を羽織り、自身も必要な物を取りに出て行った。
イサベラによく似ている。黒く縮れた髪や新雪のごとき肌のことではない。ぼんやりしているように見えて、芯の強い女性だ。
ミリヤは安心して待った。暖炉の熾火が室内をほどよく温め、眠気を誘う。壁際にもたれ、うつらうつらした。昨晩、悪夢におびえるシーマを抱いて寝たのが遠い日の出来事に思えた。
──シーマのことを考えるのはやめよう。無意味だ
昔話と思いきや、銀髪に顔を埋めた時の甘い香りや、たくましい肩回りの筋肉の感触が生々しく蘇ってくる。ミリヤはまどろみのなか、男の感触を楽しんだ。ディアナの救出が成功すれば、また体を触れ合わせることができるのだと、夢想にもふけった。
「ミリヤちゃん……」
自分を呼ぶ声で我に返り、目を瞬かせる。アンジェリーヌ夫人がソニアと心配そうにのぞき込んでいた。ミリヤはグローブを付けたまま目をこすりそうになって、飛び起きた。
「荷物を用意したわ。確認して」
大きめの衣嚢が置かれてある。背を折り曲げたソニアがほうきを両手で持っていた。ミリヤはすかさず、衣嚢の中身を確認した。
夜会に紛れても違和感のないシルク地の濃い青色のドレス。白いレースがアクセントになっている。魔法の札は目くらましに使う物、音消し、風、火、水……と、ひと通りあった。
「……完璧です! アクセサリーやお金までご用意してくださったのですね。ありがとうございます!」
「保存食はね、かさばるでしょう? これを持っていきなさい」
夫人が差し出したのは、小さな巾着袋だった。まんべんなく皺を寄せた生地に花の模様が散りばめられている。花の造形や華やかな彩色は異国情緒を感じさせた。
「よくわからないけど、テング?っていう神獣の丸薬なんですって。一粒で空腹が満たされるそうよ」
「ああ、エデンへ行った時に持ち帰った物ですね」
イザベラらしい。イザベラはイザベラで、ミリヤが悪戦苦闘している間、別の戦いに身を投じていた。彼女はミリヤより強い。どこにいようが、生き伸びて憎まれ口を叩いている、そんな気がするのだった。
ソニアからほうきを受け取り、ミリヤは再三頭を下げ、居心地の良い寝室に別れを告げようとした。
「待って! 疲れているんでしょう? 私のベッドで休みなさいな。兵士が来ないように見張ってるから大丈夫よ!」
夫人に腕をつかまれる。結構強い力だ。振り解いたら、勢い余って彼女は倒れてしまうだろう。ソニアも一度渡したほうきの柄を枯れ木のような手で握り締め、離してくれない。
「奥様の言う通りよ。疲れた顔をしてるじゃない。休んでいきなさいよ!」
しゃがれ声で夫人に同調した。
ミリヤは二人の善人の顔を交互に見て、泣きそうになった。彼女たちには幼いころより、世話になっている。守人としての宿命を負ったミリヤは自身の実家へはほとんど寄り付かず、王城かクレマンティ家、リゲルの隠れ家で過ごすのが常だった。娘らしく過ごせたのは、この屋敷だけだったかもしれない。
夫人はミリヤの心中を察し、抱き寄せた。母の体温に包まれ、ミリヤは呼吸困難になる。
「甘いものを食べて、ゆっくりするのでもいいわ……、ね、ソニア」
「かしこまりました! 婆がすぐにお持ちします!」
ソニアの曲がった背が少しだけ、しゃんとして若返った気がした。老婆は元気よくドアを開けると、侍女室へ入っていった。しばらくして、階段を下りる音が聞こえてくる。
「ソニアったら、狭い階段は危険だから表のほうを使いなさいって言っても、聞かないの」
夫人はミリヤを抱いたまま、笑い声を立てた。心地よい振動が伝わってくる。
「侍女としての矜持があるのでしょう」
ミリヤにもある。温かい場所。優しい人たち。労られ、守られる幸せ──すべてを断ち切らねばならない。
「おばさま、わたし、行かねばなりません。ディアナ様を助けに──」
「イザベラから聞いたわ。守人の契約を解除したのでしょう? あなたに行く義務はないわ」
イザベラのおしゃべりめ。だが、奔放で傲慢な女も、身を盾にしてディアナを守っていると、ミリヤにはわかっていた。
「契約を解除しようが関係ありません。わたしがディアナ様のしもべであることに、変わりはないのですから。イザベラも同じです」
「イザベラはいいの。産むまえから、あの子は戦い続ける運命だったと聞かされていたわ。覚悟はできています。でも、あなたは自由を手に入れたのでしょう? 戦わなくてもいいのよ?」
母性をほとばしらせ、アンジェリーヌ夫人はミリヤを惑わそうとする。大義や矜持より、愛を大事にする。実の娘を奪われようとしている今、ミリヤだけでも引き留めたいのだ。
ミリヤにはシーマを優先することもできた。数年、自責の念に苛まれても、愛が癒してくれるだろう。ディアナではなくシーマに尽くし、シーマはミリヤを溺愛する。やがて、ディアナのことも忘れる。
手を伸ばせば届く位置に幸福が転がっていて、よくわかっているのに反対方向ばかりを見ているのだった。不器用な自分には、幸せになる権利はないとも思う。
「ごめんなさい、おばさま。わたし、イザベラを助けることまでは、できないかもしれない。でもね、ディアナ様は必ず助けます。それが、わたしの生きる理由だから」
なんとか抱擁から逃れることができた。向かい合うアンジェリーヌ夫人は嗚咽している。長い睫毛にくっついた雫がビーズみたいだった。嘘泣き以外の涙を存分に流せるのが、うらやましい。
「ソニアによろしく伝えてください。生きて戻ることは期待しないで」
母の代表のような人に心ない言葉を投げる。戦士とは、なんて最低な生き物なのだろう。
組んだ手を震わせる夫人に背を向け、ミリヤは衣嚢を肩に担いだ。
「ありがとうございました……」
小さくつぶやいた一言は、聞かれなくてもよかった。




