2話 彼女
ミリヤが村へ着くころには、日が暮れ始めていた。
王都の虫食い穴を使ったほうが時間短縮できたが、幸い瀝青城は籠城に適した造りをしている。石造りの強固な城壁が、一日二日で越えられるとは思えなかった。
それに奇襲攻撃のあと、グリンデル軍は休息するはずだ。作戦を開始するのは翌日の早朝。疲弊した兵は一晩休む。
路傍で休憩する余裕はあった。
村の手前で茂るオリーブの木に馬を繋ぐ。一番星を背にして、ミリヤは木の根元に座り、硬いパンを水で流し込んだ。
海との境目が燃え、空の色が赤から藍へと段階を経て変化するのは美しい。たしか、ディアナがこの空に似たドレスを持っていた。
異常な興奮状態が続いているのだろう。パンの味はほとんどしない。砂を噛んでいるみたいだった。戦士に味覚は不要である。
まずかろうが、体力を蓄えておく必要があった。こういう時、無茶のできる亜人がうらやましい。
水筒をスリングにしまう際、カチンと爪に何かが当たった。
荷物は最小限にまとめてある。手当て用の布、軟膏、小銭、通行証(瀝青城の)、魔法の札……ミリヤはイザベラほど魔術に秀でていないから、魔法の札を重宝する。
──あっ、これか!
ミリヤはスリングから小指サイズの魔瓶を取り出した。微光を発するそれは七色に揺らめいている。
過去のクレセント城で、ディアナがユゼフと逢い引きした時に奪った物だ。得体のしれない不気味な小瓶を、ディアナはミリヤに預けた。
中に入っているのは、おそらくグリフォンだろう。包囲された城からディアナを逃がすのに役立つ。
ささやかな休憩を終え、立ち上がると、急に村の方が騒がしくなってきた。
平和な村には似つかわしくない甲冑の擦れ合う音や、興奮した兵士たちの話し声が夜の帳に包まれた静寂を切り裂く。何かあったのだと、ミリヤは走り出した。
音の発生源は、虫食い穴のある井戸だった。次から次に兵士が上がってくる。白地のサーコートの胸に大きく三本線の刺繍。王軍の兵士に違いない。マスクの面金を少し上げ、兵士の一人にミリヤは声をかけた。
「瀝青城を離れていた通信係ですが、何かあったのでしょうか?」
「まったく、訳のわからん話だよ! 落城したと思ったら、兵を引き上げてしまうんだからな!」
「ら、落城!?……どういうことです!? すみません、順を追って説明していただけませんか?」
兵士の話では、ついさっき落城したという。あの堅牢な瀝青城を半日で落としたというのか。
「そんな……信じられない……ディアナ様は!? ディアナ様はどうされたのですか??」
「女王陛下は連れて行かれたようだ」
ディアナが処刑されていないことに安堵したあと、兵士の言葉に違和感を抱いた。
「連れて行かれた、とは?」
「聞いて驚くな? グリンデル軍は城を占拠せず、女王陛下を捕らえた後、撤退したのさ。いったいなんのために、攻め入ったのか……」
ミリヤは兵士の言葉を最後まで聞かず、上ってきた人を押しのけ、井戸の縄をつかんだ。
人が出入りするからだろう。縄は体重を支えられる太さで、ミリヤは難なく下りることができた。足元を見ると、虫食い穴を出た兵士が慌てて、脇に寄っている。ミリヤは井戸の内壁を蹴り、軽快に飛び降りた。
二拍あれば充分だ。しなやかな体は空間を自在に移動する。生まれつきの要素に加え、日々の鍛錬がミリヤの肉体を作っている。侍女時代、他の侍女たちが花嫁修業や他愛ないおしゃべりに明け暮れるなか、ミリヤは貴重な隙間時間を有効に活用していた。
シーマの女になってからは、自由時間が増えた。もう戦わなくてよいのだと平和を満喫する一方で、もしもの時のため、日々の努力を怠らなかったのである。
シーマには内緒で騎士団の演習に参加したこともある。アスターの許可をもらい、今と同じように面金付きのマスクで顔を隠して男たちに混ざった。戦士としての能力は退化していない。
──なんてことだ! ディアナ様が……
二階分の高さから、光の渦へ飛び降りることに恐怖感はなかった。
あるのは失意、後悔、自己嫌悪──一縷の望みにすがり、光に包まれる。
信じられない、信じたくない。主の身が敵軍の手中にある。ミリヤは混乱していた。自分の目で見ないことには、事実と確信できない。
ディアナが処刑されたと聞いていたら、衝動的に命を断っていたかもしれなかった。
それより、ましとはいえ、肉体と心が分離するほどのダメージを受けた。意識的に行動しているのではなく、体が勝手に動いていた。
虫食い穴は南部の森に繋がっている。光の渦を出るなり、ミリヤは列をなす兵士たちを横目に、厩務兵の所へ向かった。
井戸の中に繋がる虫食い穴を馬は通れない。先に人間が移動し、厩務兵が数日かけて馬を王城へと運ぶ。
個人的な虫食い穴を使うということは、王都に直結する国が管理するほうは、かなり混雑しているのだろう。
ミリヤは瀝青城への通行証を見せ、馬を譲ってもらった。
夜空が濃くなるにつれ、引き上げる兵士の数が増えてくる。城下に陣を張っているのは、破壊された城内の修復作業やけが人の救助を手伝うためだ。他には城の防衛や情報収集──
時間の壁のせいで、撤退した敵軍を追跡できない。くわえて、北側からオートマトンの襲撃を受けている。状況を鑑みると、主国は兵の三分の一から半数ぐらいしか残さなかった──と。動揺していても、この程度の分析はできた。
城内は夜明けの城以上に混沌としていた。怒号と慟哭が飛び交う回廊をミリヤは走った。
「火は消し止めた」は良しとして「女王の間は全焼」だとか、耳をふさぎたくなるような声も聞こえてきた。焦げた木材の匂いと熱で歪んだ空気、火の残り香が漂う。
女王の間の方から煙が薄く流れてくる。トーチの煙と混ざり合い、破れた窓へ抜けていった。けが人を運ぶ衛生兵が横を通り過ぎていく。
行っても、そこにディアナはいない。イザベラも死んでしまった。
──わたし、わたしはどうすれば……
呼吸が乱れ、息苦しくなってミリヤはマスクを脱いだ。
──まだ……まだだ。ディアナ様は生きておられる。助けに行かねば
燃やされた女王の間と焼け死んだ同輩たちの姿を目にして、立ち直れる自信がなかった。それでも、ここで何が起こったか確認しなくては……
「待ちな……」
角を曲がった瞬間、声を掛けられるとは思わなかった。ひどいかすれ声だ。喧噪のなか、聞き取れたのは奇跡的と言える。
壁際の倒れかけた燭台の影に、彼女はうずくまっていた。顔が真っ黒に汚れていて、誰かわからない。フードを取ってくれたおかげで金髪が確認できた。
ミリヤは目を細め、慎重に近づいた。
床に片手をついて座り込む女は浅く息をしている。肩の上下運動はどこか不自然で、ところどころ破れた黒いローブが痛々しい。
「……グレース!?」
呼びかけると、さまよっていた瞳がミリヤを捉えた。ほころぶ煤だらけの顔を見て、ミリヤは確信した。彼女はヘリオーティスのグレース。ディアナにそっくりなアフロディーテの生まれ変わりだ。
「衛生兵は?」
「運ばれ……そう、に……なったけど……」
断ったと黒ずんだ唇が動いた。
腹部を押さえているのに、手の甲は血に触れなかったらしく、やけに白い。彼女の背後に見える女王の間の入り口は、壁板や梁が外され、見る影もなかった。軽装備の兵士たちが焼け焦げたテーブルを運び出し、窓から放り投げている。消火に使った砂が回廊中にこぼれ落ちていた。
そのザラザラした床の上に黒い跡が点々と続いていた。出血はそこまでひどくないようにも見える。
「腹ん中の出血さ……応急処置じゃ……血は止められない……」
「でも、手当てしないと! イザベラは!?」
「ディアナ様と一緒に連れて行かれた……」
イザベラが生きているのなら、なんとかなるかもしれない。ミリヤの心は少しだけ落ち着いた。
気を取り直してスリングに手を差し入れ、魔法の札を出そうとした。治癒の札で回復できる。
「だから、無理だって……二次損傷に移行してる。それより……」
グレースは懐から、グリンデル水晶の首飾りを取り出した。
ミリヤには見覚えがある。ディアナの物だ。大きなグリンデル水晶を三日月が抱え込み、上部にはダイヤがあしらってある。お揃いだと、ヴィナス王女と姉妹仲良く身に着けていた。ディアナが夜明けの城を出てからは、見かけることはなかったのだが。
「壁を通って……助けに行くんだろう? これを持って行きな……」
グリンデル水晶はそれぞれ姉妹の十六の誕生日に贈られた。ヴィナスのほうは羽根のモチーフだったか。断ち切られた姉妹の絆を繋ぎ合わせるように、グレースの手の上にあるそれをミリヤはぎゅっと握りしめた。




